
来る途中、クリのイガがいつもの山道に一つ二つと落ちていた。口を開いたイガからは艶々と光沢のある茶色のクリの実が覗いていた。軽く踏めば、コロコロと実が転がり落ちて来るだろうにと、一瞬速度を落とそうかと思ったがそのまま来た。それでも、子供のころの遠い記憶が甦り、そのクリの実のことが気になった。
今はないが、家にも大きなクリの木があった。子供のころ、クリの実の入ったイガが落ちて屋根の庇のトタンの部分に当たると、「あ、クリが落ちた」と言って、家から飛び出していったものだ。ところがその音を聞きつけて、隣家の同じくらいの年頃の子が、道に落ちたクリを一足先に拾っていたりすることもあった。そんなことが度重なり、いつの間にか栗拾いは競争のようになった。生(な)っているクリの実は木の所有者のものだが、落ち栗にはその所有権がなかったことをあんなころ、子供でも承知していたのだろうか。
クリの実を食材とした料理といっても、すぐには浮かんでこない。炊きおこわの中に入ったクリぐらいだろう。にもかかわらず、秋の味覚と聞くと、クリがすぐに連想されるのが不思議だ。確かに渋を剥いて生でも食べたし、母親に茹でてもらっても食べた。ただし、それらはおやつの代用で、かりんとうとか甘納豆、クリの雫の方が余程美味かったはずだ。なのに、どうしてかクリを見ると、それもピカピカとした新鮮な物であればあるほど、幻のクリを使った料理が舌だけでなく、心までも惑わす。
「秋の日は釣瓶落とし」、一日が終わる。もうすぐ夜が来る。暗い夜道を何となくいい気分で帰れそうだ。
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