布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

竹島問題、日本政府は何を遠慮しているの?

2008-05-28 23:18:49 | 日本
文科省が新学習指導要領の中学校社会科の解説書に、竹島を「我が国固有の領土」と盛り込むことを検討している件で、日本政府は韓国政府の照会に対し「記述内容は未定。方針を決めた事実はない」などと回答していると。

何を遠慮しているの?
せめて「記述内容は未定。方針を決めた事実はない。しかし解説書に書くかどうかに関わらず、竹島が日本国の固有の領土であることに代わりはない。そもそも貴国に照会されるいわれがない」くらい言えないものかね。

東北福祉大学野球部が神宮進出

2008-05-28 23:10:21 | 野球
すでに先週のことなのだけど。
18日に仙台六大学野球の春季リーグ戦で、わが母校東北福祉大学が4季連続54度目の優勝を決めました。
                   

春季リーグのMVPには、打点王(14打点)の佐藤勇治外野手(岩手・専大北上高出)が選出されています。河北新報

全日本大学野球選手権は6月10日から。東北福祉は、四国地区大学野球連盟の愛媛大と1回戦で対戦。ともに2年生ながら5勝0敗だった左腕森山と右腕桑鶴が、神宮でもあばれてくれることを期待。(でもトーナメント表によると、勝ち上がらないと神宮球場では試合できないのだけど。最初の会場は東京ドームだ。)

1991,2004に続く、3度目の全国制覇を目指せ!
でもってその勢いで、秋の初優勝まで目指せ!

千秋楽の結末

2008-05-28 22:51:58 | 相撲
五月場所の表彰式、初優勝した琴欧州は、「君が代」の演奏に声を合わせていたそうだ。「何となく歌えるようになったんだ。もともと歌は下手なんだけどね」とのこと。
日本人としてはうれしいねぇ。寿司喰いねぇ、茶ァ飲みねぇ、って気分になる。

それはそれとして、千秋楽結びの一番のあとの、朝青龍と白鵬の一件。
役員室のテレビで一番を見ていた北の湖理事長のコメントが報道されている。いわく「(朝青龍のドシンは)ダメ押しじゃない。勝負はとっさにつくものだから。カーッとしている白鵬の方がおかしい
私なんか素人として見ていて「朝青龍!それはやばいだろ!」と思ったけど、経験者、プロはそう見るんだな
言われてみると朝青龍のドシンは、白鵬の体勢が崩れたあと、「うわ、まだ勝負ついてない」とあわてて追撃したようにも思えなくもない。白鵬に向き直られたときの朝青龍の顔は、「え?何で睨まれるの?」という表情には見えても、ダメ押しして「思い知ったか」という表情には見えなかったと思う。あとで「殴られるかと思った」とコメントしてるし。

ただし、横綱審議委員は、北の湖理事長と違って、相撲を知らない。「相撲観戦」のプロではあっても「相撲」のプロではない。そして横綱審議委員会の結論は「両成敗にしろ」というものだった。
ここですごく意外だったのが内舘氏のコメント。「(北の湖理事長の)『流れ』っていうこと(説明)になると、実際に(相撲を)取ったことがない人には、わからないですよね。だけれども、そのあとに2人が土俵上でにらみ合うっていうことに関しては、これは両成敗でしょうと。」
なんかこの人、朝青龍を目の敵にしているだけの人だと思ってたけど、そうでもないんだな。ドシンまでは北の湖という「相撲のプロ」の説明を受け入れ、ただそのあとのにらみ合いについては「相撲の観戦のプロ」として一言申し上げる、と。

で結局、横綱審議委員会の「両成敗にしろ」の決定によって北の湖の裁定は覆された。白鵬の親方に注意だけだったのが、27日に両横綱にそれぞれ厳重注意がおこなわれた。
横綱審議委員会は相撲協会の理事長の諮問機関なのだそうだ。ということは、北の湖理事長は横審の答申を厳粛に受け止める必要がある。でも、「相撲観戦のプロ」かもしれないが土俵にあがったこともない横綱審議委員会によって、相撲経験者の理事長の判定が覆されるというのは、なんか違和感がある。

この違和感は、少し前にどこかで感じたような。

ああ、そうだ。皇室典範改正論議のときだ。
あの時、皇室のことも日本の歴史のことも何も知らない、つまり当事者能力のない委員たちによって、当事者である皇室にに何の相談もなく発言すら許さずに、皇室のあり方が変更されそうになった。あの時の違和感とすごく似てる。

ただ一点だけ違うのは、横綱審議委員会は「相撲をとる」ということに関しては当事者能力はないけれど、「相撲を観戦する」ということに関しては当事者中の当事者ということ。あの場面を見た観客や視聴者の「両成敗だろ」を汲んだということかもしれない。大相撲は「お客様(視聴者)あってのスポーツ興行」なのだから、「見るプロ」の意見はやはり大事にしなきゃならないのだろう。

5月場所、朝山下は

2008-05-28 22:26:27 | 相撲
元ホスト力士・朝山下。
5月場所の3日目に前土俵に出て、さて結局どうなったのかなと思ったら、前相撲に出た新弟子くらいじゃ相撲協会のサイトにも名前が出てこない(私の探し方が悪いのか?)。

ようやく見つけた高砂部屋の所属力士の5月場所星取表によると、朝山下は前相撲1勝3敗でした。

3日目は倍の体重の大木下(九重部屋)に秒殺されたものの、4日目は田島(芝田山部屋)からプロ1勝目。
アマチュア相撲の経験もないんだから、「プロ1勝目」という以前に、試合で初勝利だね。
その後は5日目と6日目に黒星で、上述の通り1勝3敗。でも中日にめでたく新序出世力士として披露されました。
新序出世力士は8人(うち1人は再出世)。SANSPO.COMの写真では、話題の経歴ということでか朝山下がアップだ。はじめて顔を見たけど、やっぱり「お相撲さん」として見るには華奢なくらい細い。けど、背が高いなぁ。文字通りの「ソップ(鶏ガラ)」だ。
「背が高くて軽い」ということは、対戦相手から見れば「懐にもぐりこみやすくて、崩しやすい」ということになるのだろうか。でもこれで、これで次の名古屋場所では番付で序ノ口に名前が載るわけだ。
披露では、兄弟子の西小結・朝赤龍の化粧回しをつけて土俵に上がったとのこと。まずは、後援会ができて化粧回しをつくってくれるようになるところまでがんばれ。

高砂部屋サイトの朝山下のページ

千秋楽

2008-05-25 17:39:35 | 相撲
場所前からすれば、いや、中日から考えても、まさかの琴欧州の優勝だったな。
でも先場所に負け越してのカド番だから、来場所に二場所連続優勝でも綱は難しいんじゃないだろうか。
仮に全勝したとしても難しいような気がするし、もしかしたら「二場所連続優勝しても横綱になれなかった大関」ということになるかも。でもこの好調が維持されて、優勝できなくても三場所連続でいい成績を残せたらわからないね。

それより問題は結びの一番。横綱決戦は、白鵬が体制を崩してあっけなく勝負がついたけど、その次の瞬間だよなぁ。もう手を付いた白鵬を、朝青龍がドシン。それを白鵬がギロリとにらみ返して。
内舘牧子が大喜びで噛み付くぞ。

オリックスの監督

2008-05-25 08:23:50 | 野球
先週、オリックスブルーウェーブのコジンズ監督が辞任し、大石体制となった。
ただし、2008はこのまま「大石監督代行」でいくらしい。
で、来年から誰を立てるということで、清原の名前が上がっているとか。

2001年、仰木。
2002年、石毛。
2003年、石毛→レオン。
2004年、伊原。
2005年、仰木。
2006年、中村。
2007年、コリンズ。
2008年、コリンズ→大石(代行)。
2009年、清原?

2001年までの仰木長期政権のあと、すんごいドタバタ。これは誰の責任なのか。

選手の複数年契約と違って、監督の複数年契約というのは「単年度で結果を出せる仕事ではない」ということだろう。
まあ今回は更迭ではなく、慰留にも関わらずの辞任ではあるのだけど、それでも今の調子だと今季終了後に切られた可能性は高いんじゃないかな。千葉ロッテが6位の時点で、5位のオリックスでこういうバタバタがあるのはうれしいが。


楽天の田尾監督なんか、新設球団で1年しか指揮を執らせてもらえなかったもんな。
逆に原監督の第一次政権の終わらせられ方もあるしねぇ。

中国は単一民族のための国

2008-05-25 08:13:44 | 日記
中国で「四川大地震の特集号」と題した週刊誌が、女性モデル数人がガレキに似せたセットを背景に撮影した猥褻な写真が問題ということで出版停止処分を受けたそうな。
興味深いのは、出版元がウェブサイトで「社会道徳に反し、民族感情を傷付けた」などと謝罪したとのこと。
→報道

「国民感情」ではなく、あくまでも「民族感情」なんだね。

電車で中国語の聖書を読んでいた人

2008-05-25 08:06:11 | 日記
私は中国語を習ったことはないし、古典としての漢文の授業は好きだったけれど高校卒業以来ごぶさたです。
なのに先週、電車で隣に座っていた人が読んでいた漢字だらけの本が、聖書だということはすぐにわかりました。不思議なものです。

とにかくピンと来たというか。
それからしばらく、横から覗き込んでいましたが、聖書だとは思ったものの箇所がわかりません。
(箇所がわからないくせに「聖書だ」とわかったというのもへんな話しですが)

少したってようやく、ページのすみに「詩篇119」と小さくプリントされているのに気づきました。
もしかすると、この部分が無意識に目にとまって「聖書だ」と思ったのかも。

私見:なぜ日曜日に礼拝するのか?

2008-05-25 07:45:14 | 教会

前の記事に続いて、日曜礼拝についての私見です。

イースターやクリスマスと同様に日曜日に礼拝するのは「習慣」にすぎません。日曜日を指して「安息日」という言葉を使う教会やキリスト者もいますが、安息日が「週の七日目」から「週の初めの日」に変更されたなどとは聖書のどこにも書かれていません。

イエスをメシアと信じるユダヤ人「メシアニック・ジュー」たちは、土曜日の安息日に礼拝をささげています。
キリスト教でも、カトリックではなく東方教会のでは、土曜日を安息日としていると聞きます。また無教会主義の人たちで、紀元1世紀のキリスト者たちに倣って土曜日に集会を行う人たちもいます。
セブンスデーアドベンチスト(以下SDAと略します)の教会も、聖書のとおり土曜日に礼拝をささげているそうです。(SDAの教会のWEBサイトなどで「なぜ土曜日なのか」という説明がされているところがあります。なお、キリスト教の中にはSDAの異端性を問う声もありますが、ここでは礼拝と安息日のテーマについてだけ扱っています。)
Wikipediaによると、イスラム教はムハンマドがメッカを脱出した金曜日を安息日としているそうです。モーセ五書の土曜安息日をどうとらえているのかはよくわかりません。これは自分への宿題。)

もし、「礼拝するべき日として定められているのはいつなのか」という問いであるなら、上に上げた人々のように土曜日に礼拝するのが正解で、その他の(つまりローマカトリックの流れを汲む)教会は間違い、ということになるでしょう。
でもそれ以前に、「礼拝するべき日として定められているのは」という問い自体が不成立なのではないでしょうか。

律法には、十戒の安息日規定も含めて613の戒律があるのだそうですが、使徒言行録(使徒行伝)15章に記録されている使徒たちの論争(以下「エルサレム会議」と呼びます)において、異邦人キリスト者が守らなければならない戒律は「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」だけになったからです。

「エルサレム会議の決定は人間によるものではないか。それによって、神がさだめた旧約律法が変更されうるのか。」という疑問があがるかもしれませんが、エルサレム会議の決定の正当性については、マタイ16:19で主イエス自身が「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言っています。
この箇所は、「教会が赦した罪は天でも赦され、教会が赦さない罪は天でも赦されない」と解釈されることがありますが、「解く/つなぐ」とは律法の用語で「許可されている/禁じられている」ということを表すものです。つまりこの箇所は「赦す/赦さない」の話ではなく、「許す/許さない」の話で、主イエスは「教会が『それは許可されている』『それは禁じられている』とした判定は、天においても支持される」と言っているのです。

だから、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行い」だけがつながれており、その他のことはすべて解かれているとしたエルサレム会議の決定は、天においてすでに支持されているはずです。そうでないなら私たち異邦人も、安息日規定だけでなく割礼など613の規定をすべて守らなければならないということになるでしょう。
そしてこの中で、第4戒の安息日規定も免除されています。あれほどユダヤ人がこだわり、パリサイ派がイエスを攻撃しないわけにいかないほどだった安息日規定が、です。このようにして、礼拝しなければならない日というものはなくなっているのです。

(念のためですが、エルサレム会議の決定は「律法を守るとは、異邦人キリスト者にとっては具体的にこうすることだ」という意味であって、律法自体が変更されてはいません。)

ただ、以上は「戒律としては」です。
人の行動を縛るものとしては、法治国家においては「法」というものがあります。ですが法より以前に人は「思い」によって自分の行動を規定しています。
613の戒律の具体化としてエルサレム会議が異邦人教会に示したものは、キリスト者に対する「法」と言えますし、その中で安息日規定も免除されましたが、「安息日に礼拝しなければならない」という法が免除されたことは、「神への愛による自主的な思いとしての礼拝したい」を禁じたものではないはずということです。
本来、礼拝って「十戒やその他の律法に規定されているから、する」ではなく「たとえ迫害によって禁じられようとも、せずにはいられないから、する」ですから。

われながら回りくどい説明になりましたので、少し整理します。
「日曜日は安息日なのだから、教会に行って礼拝しなければならない」というのは誤りで、しかもそれは反ユダヤ主義であると同時に反聖書的と思います。
そうではなく「神への愛のゆえに、特定の日を神のために取り分けて、自主的に集まって礼拝をささげる」というのがキリストを信じる者の礼拝なのではないでしょうか。もちろん「取り分けて」というのは、旧約において安息日を「聖として」というのと同じ意味です。

イエスを信じるユダヤ人「メシアニック・ジュー」が、「律法の義だから」を超えて「神を愛するゆえに律法を守りたいから」ということで、他のすべての律法と同様に土曜日の安息日を大切にすることに、何か問題があるでしょうか。
同様に、イエスを信じる異邦人が、(安息日は日曜日だなどと捏造してではなく)「神への愛によって、安息日規定に縛られず」礼拝するのも問題はないはずですし、さらあに同様に「主イエスを愛するゆえにその初臨や復活を記念して日曜日に礼拝する」というのも正しいはずです。
「安息日規定の免除」とは「安息日を守ってはならない」という禁止ではありませんから、無教会主義やSDAのように、非ユダヤ人でも神への愛のゆえに土曜安息日に礼拝するのも同様に正しいはずです。
これらは、過ぎ越し祭などの旧約律法についても同じです。(ただ、ワントーラー論という議論があることを坂井はつい最近になって知りまして、これらについてはまだ勉強中です。よろしければシオンとの架け橋のサイトをどうぞ。)

(では「神を愛してはいるけれど、今週は予定があるのでまた都合がいい日に」というのもアリなのか?神を愛するから礼拝したいというなら、一度「この日をあなた(神様)にささげます」としたならそれを「自分の都合」でどうこうすることはふさわしいことではないように思います。愛する人に自分から「この日時に」とデートに誘っておいて、自分の都合で一方的に日時を変更した上に相手の同意も求めない、という人はいないでしょう。)

ところで、メシアニック・ジューたちが聖書(旧約)の戒律を大切にしつつ、それとはまったく矛盾せずにイエスを救い主として信じていることについて、キリスト教の中には彼らの「イエスによる救い」への信頼を疑う声があると聞きます。
しかしこの疑いは、私個人の考えとしては、どこまで反ユダヤ主義(反「神の民」主義)なのかと感じます。
安息日規定が免除されたのは、異邦人の兄弟たちについてです。しかもそれは、ユダヤ人教会からの「自分たちユダヤ人も苦労してきたものを、異邦人の兄弟に背負わせるのか」という愛ゆえの免除だったのに、と。(使徒15章10)

蛇足になりますが、神を愛するがゆえの自発的な行為であっても、聖書によって禁じられる場合があります。今思いつくのは次の2つですが、他にもあるかもしれません。
ひとつは、ささげすぎないこと。出エジプト記36章で、幕屋を建てるために民が必要以上の資材を奉献したとき、モーセはこれをやめさせました。
もうひとつは、新婚一年以内に従軍すること。イスラエルの戦いは神の戦いですが、申命記24章では新妻をめとった者は兵役等を一年間免除されるとあります。
どちらも、「人が神を愛する愛」にまさる、「神が人を愛するゆえの制止」であるように思います。

私見:なぜクリスマスを祝うの?

2008-05-24 16:40:24 | 教会
ある方から、次のような質問をいただきました。
まず端的に言って、イースター・クリスマス・そして日曜礼拝と称する現在の多くの「キリスト教会」の「習慣?」は、そのどこに「聖書からの明白な根拠」があるのでしょうか。
(中略)
何の根拠もない人間的習慣を守るくらいだったら、まだ旧約聖書に明白な根拠のある「過ぎ越しの祭り」や「仮庵の祭り」を祝った方がはるかに論理的整合性があるのではないかと思えてなりません。


例によって以下は、坂井信生の個人的な考えですが。
イースターの日付、クリスマスの日付、そして日曜礼拝といったものに、聖書からの明白な根拠はありません。

復活祭つまり「キリストであるイエスが死からよみがえった日」は、聖書の記述どおりであれば、過ぎ越し祭の安息日の翌日となります。
ところで、キリスト教の考え方では「キリスト教はユダヤ教を完成したもの」と言えますし、だからユダヤ教はキリスト教の前身だとも言えるのですが、奇妙なことに現在「キリスト教の復活祭」は「ユダヤ教の過ぎ越し祭」の日付と連動していません。

もっと奇妙なのが聖霊降臨日です。
ペンテコステとも呼ばれますが、このギリシャ語は「50日目」の意味で「聖霊降臨」などという意味はなく、過ぎ越し祭から50日目(49日後)に来る「七週の祭り」の日を表しています。(「ペンテコステというのは聖霊降臨日のことで」などと説明されることがありますが、これは誤り。「ペンテコステの日に聖霊降臨があった」というべきです。)イースターが過ぎ越し祭と無関係に日付が決まるため、聖霊降臨日も「七週の祭り」とは無関係に日付が決まっています。なのに名称はユダヤ教的というか聖書的な「ペンテコステ(50日目の祭り)」のまま。しかし意味は「過ぎ越しから50日目」を「復活から50日目」に変更。換骨奪胎というやつでしょうか。

なぜキリスト教の復活祭とユダヤ教の過ぎ越し祭の日付がずれてしまったのか。どちらかが正しいのであれば、間違っているのはどちらなのか。
キリスト教の暦は5,6世紀に大きく変更されています。それまで使用していた、復活祭の日付を決定する「復活祭暦表」が怪しくなってきたために、ウィトクリウスが457年に改暦し、それも怪しいということで525年にエクシグウスが改暦しています。なお、現在のいわゆるグレゴリオ暦は、エクシグウスの改暦を改善したものです。この辺りのことは拙文「西暦の話し」も参照していただければと思います。
ウィトクリウス以前の「復活祭暦表」がどういうものだったのか、その時点で復活祭が過ぎ越し祭と連動していたのかは、興味あるのですがまだ調べていません。また、ユダヤ教の暦が連綿と続いてきたものであるのかも調べていませんが、少なくともキリスト教の暦は途中で意図的に変更されているのは事実です。

次にクリスマスですが、まず12月25日(24日の日没~25日の日没)という日付自体が異教の風習です。これはキリスト教徒でなくても雑学ファンや薀蓄ファンなら知っているというくらいですが、キリスト教が欧州に伝わったのちに、地元の宗教の冬至祭と習合したものと言われています。
そもそも、聖書の記録によれば、キリストであるイエスがこの世に生まれた時には羊飼いたちが野宿していたとありますが、いくらイスラエルでも羊飼いは冬には野宿しません。「イスラエル→中東→暑そう→一年中でも野宿できそう」という連想かもしれませんが、内陸の荒野では夏でも昼夜の寒暖の差が激しいし、ましてイスラエルでも冬には雪が降るのです。ということで、「クリスマス」は少なくとも冬ではなかっただろうと思われます。

このように、聖書を基準にすると「復活祭は日付が怪しい(過ぎ越し祭とずれすぎていて、しかも復活祭の日付のほうがうさんくさい)」「クリスマスの日付はまったくでたらめ」ということになります。しかしこのことは、「キリストの復活という事実」「キリストの受肉(神であるキリストが肉体を持って世に生まれたことを指すキリスト教用語)という事実」には何の影響もありません。
私の考えでは、キリストの復活もキリストの受肉も「聖書からの明白な根拠」があり、ただその日付が今はおかしくなっているだけだと思います。


不孝なたとえになりますが、坂井信生が拾われっ子で実は本当の誕生日もわからないとします。しかし、仮に私の誕生日がわからないとしても、私という人間がこの世に生まれていることには何の影響もありません。
誕生日がわからない、記念してもらえる日が実は違う、ということは、誕生したという事実とは関係がないのです。同様に、「イエスが生まれた日」がわからないということは、「救い主が世に臨まれた」という事実をゆるがすものではありません。
なお、Christmasとは「キリスト礼拝」の意味であって「キリスト誕生日」の意味ではありません。

もしかすると、記念するということは「記念される人や物事」にとってよりもむしろ「記念する側の人」にとって意味があることなのかもしれません。(「記念される人」にとってだけ大事なら、たとえば脳死状態の人の誕生日を祝うことは愚かなことです。命日に故人を思うというのも滑稽です。)

以上のように考えるなら、日付の根拠がないということでは「主の復活」「主の初臨」を記念するのがおかしいということにはならないと思います。そしてこれらは、聖書に記念せよと書いてあるから記念するのではなく、主を思うゆえに記念したいから記念しているのだと思います。親を慕う子が親の誕生日に祝福するように、主を愛する者が主の来られた日を記念するのはおかしいことではないと私は思うのです。(これは日曜礼拝についても同様なのですが、長くなりますので日曜礼拝については稿を改めます。)

なお、教会の子供たちには、たとえばクリスマスは「イエス様の誕生日」ではなくて「イエス様の誕生を記念する日」なんだよと話すようにしています。そのほうが正確であるということに加えて、将来「クリスマスは12月25日ではない」ということを知ったときにつまづかないでほしいからという理由もあります。

質問されたとおり、クリスマスやイースターはまさに「習慣」です。
ですが、これは「重要な、自主的な習慣」なのです。

では過ぎ越し祭りなどの聖書の祭りはどうなのかですが、それらも大事にするべきだと坂井は考えます。
私の知る教会の多くは(といっても数はそんなにありませんが)、旧約の祭りに無関心です。これは「神がイスラエルに与えた契約と祝福は、イスラエルの罪のゆえに取り上げられ、教会に与えられた。」というキリスト教の誤った考えにより、教会がユダヤ人迫害の先頭に立ち、ユダヤ教を迫害してきた過ちが残っているものだと思います。これについては、カトリックでは(少なくともトップの方針としては)先代教皇の頃からユダヤに向き合おうとし始めているようです。一方プロテスタントでは、ユダヤ人伝道を真剣に考えている人々もいますがそれはむしろ例外です。坂井はカルヴァンの「キリスト教綱要」も未読な不勉強者ですが、カルヴァンもが「律法はキリストにおいて廃棄された」と書いたとか、ルターは反ユダヤ主義だったと聞いたことがありますので、どうも「宗教改革以来の伝統」があるようです。

「イスラエルに与えられたものは、取り上げられて教会に与えられている」などということはもちろん聖書に書かれていません。私たち異邦人は「神のイスラエルへの恵み」に接ぎ木してもらっただけです。また、私の体験的なこととして、「旧約がわからないと新約はわからない」ということはあります。「旧約の祭り」を経験することは「御言葉を経験する」ことだとも思います。
というわけで、たとえばイースターには、過ぎ越し祭についても子供たちに伝えるようにしています。
ヨハネ福音書10章22に出てくる神殿奉献祭(ハヌカ祭)についても、ユダヤ暦そって子供たちに伝えています。ハヌカ祭は外典(新共同訳でいう旧約続編)のマカバイ記に由来するものですが、福音書に記録されていることから、イエスと弟子たちをはじめ1世紀のユダヤ人キリスト者もこの祭りを祝ったであろうと思うからです。
過ぎ越し祭や仮庵祭りも同様に、イエスと弟子たちもユダヤ人キリスト者たちも祝っていたはずですが、私の出席教会では今のところこれらを祝うことはしていません。これは恥ずかしながら担当している私自身の不勉強によるもので、前々から意識してはいるのですが、今は「スカ(仮庵)の建て方」「過ぎ越し祭の食卓のレシピ」などを調べている段階です。
「過ぎ越しや仮庵を祝うほうが論理的に整合」という考え方をしたことはありませんでしたが、確かにそうだと思います。

私たちの教会では他にも、エステル記9章19に由来するプリム祭も子供たちに伝えています。エステル記は確かに神のわざが働いた記録ですが、「神」「主」といった言葉は出てきませんね。これは、これは神が見えない時代にあってしかし神に守られているということを伝えるよきテキストだと思います。

これらの理由に加えて、担当奉仕者としてはこうしたことをとおして子供たちに「神の民イスラエル」を知ってほしいと願っています。
なぜなら、イスラエルは神の民、祭司の民族だからです。
「キリスト教は外国の宗教」と考える人が多いこの国で、「ぼくたち日本人も他の諸民族と一緒に、アブラハムの子孫によって神様の祝福に入れていただけるんだよ」ということを知ってほしいからです。
キリストは初臨においては、はじめから最後まで「ユダヤ人の王」だったからです。イエス誕生の折りには東方の賢者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を礼拝し、「ユダヤ人の王」と記された罪状書きの下で苦難を受けられました。

仮にイスラエルが捨てられるとするなら、神の民というオリーブに接ぎ木されたにすぎない異邦人教会などはもっと簡単に捨てられてしまうでしょう。けれど、あれほど神にそむき続けたイスラエルさえも神は捨てないということこそが、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」というローマ書11章29の証拠であり、私たち異邦人にとっての希望なのだと思うのです。

すみません、ちょっと熱くなりました。
ここで私が「教会でやっている」と書いたこと「教会の子供たちにお話している」と書いたことは、公式には教会でコンセンサスがあるというものではなく、「担当奉仕者である坂井が勝手にやっている」というものです。が、今のところ異論は出ていませんので少なくとも暗黙のうちに了解されているようですし、むしろ興味を持たれ始めているようにも感じています。

自転車2時間半

2008-05-20 07:32:29 | 自転車
やっとゴールデンウィークの話。
日頃は「運動不足」が服を着て歩いてるような私が、今回は大冒険。実家から自宅まで、自転車で2時間30分を走ったのでした。(小休止とちょっとした寄り道を含む)。

その日は朝から14時頃まで潮干狩り。大漁だったのはいいとして、炎天下とまで言わないけど陽射しの下にずっといて体力は多少消耗した。加えて腕と首筋が日焼け。
こりゃ自転車はやめた方がいいかなとも思ったけど、各方面に予告していたこともあるし今さら引っ込みがつかない。というわけで、遅い昼食のあと一息いれて15:20に出発。途中何度か道に迷いながらも、17:50に到着しました。

出発前にチビたちにお祈りしてもらったおかげか、途中で危ない思いをすることもなく。
股間のスレ防止のため、事前に購入しておいたロングツーリング用のパッド入りインナーも効果があったらしい。親からは「カタチから入るタイプか?」とからかい半分に言われたけれど、初心者だからこそこういうところは気をつけないと、慣れてる人なら問題にならないところが具合悪くなったりするしね。

最後はペダル踏む体力がほとんどなくなってたけど、なんか楽しかった。
千葉は坂が少ないのが初心者にやさしいな。

「衆院解散して民意を問え」は自虐的じゃないかな

2008-05-18 03:44:34 | 日本
最近思うのだけど、民主党にしろ、街頭インタビューに答える有権者にしろ、「衆議院を解散して民意を問え」って言うのはよく考えるとおかしいような気がしてきた。

だってさ、前回2005年9月の衆議院選挙で投票した人はすべて、「衆議院議員の任期である4年間、国政をまかせられる人物・政党」を選択したはずだよね。
言い方をかえると「この人物・政党に、今後4年間の国政をまかせたい」という覚悟を持って投票したはずだよね。
棄権した人なんかは、「今後4年間、今のままの与党でいい」と考えたわけだよね。

なのに任期に満たないのに「解散して民意を問え」っていうのは。
有権者がそう言うのは「いや、そんな覚悟なんかしてなかったよ」ってこと?じゃあ仮に衆院解散があっても、そのあとの選挙では「気に入らなくなったらまた解散してもらえばいいや」っていう程度で投票するの?(そんなだから「日本は民主主義が未成熟」って言われるんだよ、という気がするのは私だけ?)
まして民主党がそう言うのは「国民はもっと気楽に投票してるんだし」と有権者を馬鹿にしていることじゃないか。それに、そんな無責任な有権者の選択によって(解散もなく任期が6年もある)参議院で当面(半数が改選されるまでの3年間)の過半数を与えられたからって、何の価値もないじゃないか。

民意で選ばれた政権党が必ずしも民意に沿った政治をするとは限らないから、「衆議院を解散して総選挙を」って言いたくなる気持ちはわかるけど、実際にそういってしまうのは、有権者にとっても民主党にとっても、自身をおとしめることにしかならない気がするのだけど。

え?社民党はどうかって?
あそこは昔から「解散しろ」しか言わないし。逆にいま解散総選挙があったらさらに議席を民主党にとられるだけじゃないかな。少なくとも社民党が、与党が議席を減らす分の受け皿になるとは思えないけどね。

最初に食べた人はエライ

2008-05-18 03:01:54 | ニュース
人類で最初に食べた人を尊敬したい食べ物ランキング - goo ランキングを見て、真っ先に思ったこと。

なぜ「最初にホヤを食べた人」が入ってないんだ!
あれほど、見た目の気持ち悪いものを。
私、学生時代に仙台にいまして、ホヤを食べる前に、スーパーで「まだ切ってない、まるごとのホヤ」を見てしまいまして、その気色悪さにみごとに食わず嫌いになってしまいました。
その後、居酒屋なんかで「ホヤの塩辛」を食べるようになって、おいしいということは知ったのだけど、最初にホヤを食べた人は良くも悪くも偉大だと思うよ。

あと、ゴボウを最初に食べた人の状況のことを考えて
極限の飢餓状態で「根っこでもいいから」と思って食べたんだろう。ところが「え?これ、食べられるじゃん」ってことになったのだと思う。でなきゃ食べないよ。実際、戦中にせっかく捕虜にゴボウを食べさせてあげたのに「木の根を食べさせた。捕虜虐待だ」って法務死(戦犯として処刑)になった人もいると聞くし。


そこへ行くと、このランキングでおかしいのは1位の「くさや」。だって「最初に食べた人」は、間違いなく作ったひとだよね。わかってて食べてるんだから。「最初にくさやを入手して食べた人」はエライかもだけど。そこへ行くと9位の「なれずし」は、作り手としても「うわ、とんでもないものができてしまった」と思いながらも食べたんじゃと思うとエライ。

あと、4位の「フグ」もおかしいって。最初に食べた人は、フグに毒があることを知らなかったんだから。「フグに毒があるのを承知で食べた最初の人」はエライかもだけど。

公明党は、お世話になってる創価学会には歯向かいません

2008-05-18 02:51:22 | ニュース
公明党の矢野元委員長が、評論活動をやめるよう強要されたとして創価学会と幹部7人を相手取り損害賠償を求める訴訟を起こした。
これに対し、公明党の太田代表が記者会見で、「『支援団体にお世話になった、感謝している』と言いながら提訴するとは、人間として信じがたい」と非難した。(→MSN)

「そういう事実関係があったかどうか以前に、恩人を訴えるようなことをするな」と?
「人間として信じがたい」って、つまり「人でなし!」っていうわけですね。
なんかこの大田代表って人、パワーハラスメントのにおいがするんですけど。
「世話になってない相手なら何をしてもいい」ということかな?いやそこまで裏読みするのはかわいそうか。とにかく、「恩のある相手は責めてはいけない」と。

これ、悪しき自民党型、悪しき官僚型の考え方ですね。世話になっている業界団体のすることには目をつぶれ、と。
仮にも国政を預かる立場なら、恩があるから見逃すとか、恩がないから容赦しないとか、そういう考え方はしてほしくないな。

TVや新聞雑誌といったマスコミならね、企業だから、「広告を出してくれるスポンサーに感謝している、と言いながら提訴するとは」っていうのはわかるけどさ。(そのせいか、広告を出していなかったドンキホーテが放火されたときは、被害者のドンキホーテを各マスコミとも叩くだけ叩いたもんな。ドンキホーテも事件後に、いかにもあわてて作りましたって感じの浜口父娘のTVCMを流すようになってたっけ)

ああ、そうか。これは創価学会とくいの「広告を大量に新聞や雑誌に出して、大口のスポンサーとなることで、マスコミの口を封じる」というやり方を、公明党が流用してるわけだ。

環境保護団体グリーンピースが窃盗

2008-05-18 02:35:59 | ニュース
グリーンピースが、調査捕鯨船から発送された鯨肉入りのダンボールをグリーンピースが盗んだ上、15日に記者会見で堂々と「送り主の了承を得ずに入手した」と発表し、さらに「横領行為の証拠を入手するためにやったため問題ない」と主張。(→アメーバニュース
これに対し16日に西濃運輸が被害届を提出した。(→MSN

グリーンピースって、いつの間に日本国から、警察以上の捜査権を与えられたんだ?
たしか日本の警察だって、裁判所の令状がないと証拠品の押収もできないよな。

こんな考え方をゆるしてみろ。

警察が「令状なしで立ち入り検査し物品を押収したのは、犯罪あるいはその準備の証拠として提出するためで、違法性はない」と主張したり。
暴力団が「対立組織の事務所に押し入ったのは武器を発見して証拠として提出するためで、違法性はない」と主張したり。
教師が「生徒の所持品検査やボディチェックをしたのはナイフや薬物を証拠として提出するためで、違法性はない」と主張したり。
しまいにゃカルト教団が「サリンでポアしたのは魂の浄化のためで、違法性はない」と主張するぞ。

あ、でも警察が令状なしでグリーンピースの施設や船舶に立ち入って物品を押収するのだけは、証拠として提出するためならOKだよ。だって、グリーンピース自身が「そういうのアリだ」って言ってるんだから。

前から思ってたんだけど、グリーンピースっていう組織は、広く市民に賛同を求めるのではなく支持者が賛成してくれればいいっていう団体だよな。市民は引くよ、こういう無法者集団は。仮にテーマによっては賛成できるとしても、それを表明はできないもんね。そんなことしたら「えーっ、あんな手段を選ばない連中をよく支持できるね」とか言われそう。
そういう意味では、街宣車で恫喝的にがなりたてる右翼団体と同じじゃん(すべての右翼団体について言ってるのではありません。駅頭などで主張を丁寧に説明し理解を求める人たちは別です)。