布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

ホームレス中学生

2008-04-27 23:31:57 | 読書
2007年11月のはじめに図書館に予約した、麒麟・田村の「ホームレス中学生」。132番待ちだったわりには、回転のよさと市図書館の蔵書数のおかげで、意外と早く確保されました。
で、読んでみたところ、まあまあ面白い。Wikipediaによるとネタ作り担当は川島だというし、処女作でこれだけ書けるものだろうか、などとゴーストライターの存在を疑ってしまう。とくに、ラス前に取ってつけたような母への思いの章など、ゴーストライターが田村にインタビューしたような空気が濃くただようのだけど。
ま、でも、お笑いだもの、これくらい書けても不思議というほど不思議でもないか。

内容的には、おもに「人志松本のすべらない話」で披露済みの貧乏話(噺?)が多いのだけど、それよりも「寄る辺ない中学生を支えた周囲のみなさん」による人情話がそれこそ噺のようで、「こういうのって、東京とか都会だったらありえないよな」と思ってしまう。
たとえば「町内にこういう兄弟がいるのだけど、近所どうしで協力して経済的にもちょっとなんとかしてあげよう」なんて話が回ってきたとしたら、どうするだろう。
「そういう子らのためにも公的な何かがあるんじゃないのか?まず役所にかけあってみたら?」とアイデアだけ出して手は動かさないんじゃないだろうか。もしかしたら役所にかけあう程度の面倒は手伝うかもしれない。でもカネまで出して「大人になって働くようになったら返してくれればいい」なんてとこまでは、うーん、できるかなぁ。
大阪ならではというか、東京でも下町あたりだったらありえるかもだけど。



ホームレス中学生

2007-11-08 21:35:26 | 読書
麒麟・田村の「ホームレス中学生」を図書館で予約した。
順番待ちが132番って、読書感想文の課題図書なみじゃんか。「読んでみたいけど金を出したいほどでもない」って人、多いんだな(自分もその一人だけど)。

CDには売り上げランキングの他にレンタルランキングってのがあるけど、本にもベストセラーの他にベスト貸出ランキングがいるかも。

ソバ屋で憩う

2005-12-16 00:08:13 | 読書
杉浦日向子とソ連 編著
発行 ビー・エヌ・エヌ
1997年10月31日 第一刷

今年読んだ本。

編著の「ソ連」とは「ソバ好き連」のこと。
前書きによると、この本は「グルメ本ではありません。おとなの憩いを提案する本です。」ということで、通ぶる人、食欲優先の人、デートや接待に使えるスポットを探している人はお断りしてしまっている。ただ「やすらぐ場」としてのソバ屋を見つけるための本。
あとがきでは、ソバ好きを名乗る人を、うまいソバのためなら努力を惜しまない「求道者型」と、「食後に、湯上りのようなリラクゼーションを堪能する悦楽主義者型」のふたつに分類し、本書の編著者は後者であり、この本も後者であろうとしている。だからソ連とは「ソバ屋好き連」なのかもしれないと。
つまり、「食事」をメインとしてソバ屋を紹介しているのではなく、店という「空間」、その空間のもっとも重要な要素としての「客あしらい」のよい店というのが基準になっているらしい。
悦楽主義者型のソバ好きにとって、ソバ屋は食事をするところではない。スペイン人だかイタリア人だかは昼飯に2時間くらいかけると聞いたことがあるけど、そういうノリでゆっくり時間を楽しむところだ。「ゆっくりできないような混む時間帯を避け、午後2時から4時くらいに「一人でぶらりと入ってゆっくり酒をいただけるソバ屋」こそが、憩えるソバ屋ということだ。

杉浦をはじめソ連メンバーによってソバ屋が紹介されているが、目に付いたものをメモしておく。
まずは東京・大森の「布恒更科」。正直「布恒」というのは初めて聞いた。永坂更科の「布屋太兵衛」の関係かと思ってネットで調べるとそのとおりだった。またひとつ、今も生きている「布屋」を見つけてうれしい。一度お邪魔したい。ただしこの店は「憩う」の大敵の「中休み」がある。夕食時の仕込みのためか、14:40~17:00は準備中になってしまう。

千葉県民としては、千葉駅から徒歩5分にある「おか村」という店が紹介されているので行ってみたいところ。なんでも千葉には、江戸前のソバとも田舎ソバとも違う独自の文化圏が形成されていて、その元締め的な店なのだそうだ。「メニューも質実剛健。酒のつまみ系のものはなく、おせいろ、田舎、さらしなに各種変わりソバ、種ものなどソバ類のみだが、どれもしみじみとうまく、ソバ湯ともども十分酒のあてになる。」とのこと。11時~18時で中休みなしだが、売り切れじまいだそうだ。

店の紹介もさながら、ソ連による座談会が2編はいっていて、勉強になる。

高松宮日記 第八巻

2005-12-16 00:00:43 | 読書
高松宮宣仁親王 著
中央公論社
1997年12月10日 初版発行
ISBN4-12-403398-2

今年読んだ本。やっとたどりついた最終巻は、殿下の御日記のうち昭和20年1月1日から昭和22年11月5日までが収められている。つまり、終戦を迎える年から、戦後の初期の時代だ。
殿下御自身としては、昭和20年1月1日の時点では横須賀砲術学校の教頭などの任にあたっておられたが、終戦により現役軍人が逐次予備役に編入されて行った過程で、昭和20年12月1日に「今日より浪人」とある。

以下、興味をもった記述について。なお表記は、旧仮名使いによる「漢字+カナ」を現代
仮名使いにしている(布忠のわかる範囲で)

昭和20年1月19日「状況判断等を総長上奏のとき、計画はよく立てるが、従来実行が伴わぬがその点、今回は如何と御下問あり。」と。計画の際には天皇を「裁可権者」として利用し、数多の無駄な作戦や玉砕という結果になっていたということか。

昭和20年2月28日「米内大臣に少時久しぶりにて面談。(中略)国民玉砕と云ってお上を独りぼっちに残すわけにゆくものでなく、」

昭和20年8月15日、玉音が放送された日については、殿下の移動の記録のみ記されていて、特段の記述はない。

昭和20年9月3日の記述がおもしろい。「マックアーサーは天岩戸開きの手力男命の処をつとめるものだと云う見方あり。(中略)米国の燃料で日本の自動車をはしらして不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でも・・・でもよいわけなり。」

昭和20年9月28日「北鮮 強姦(南下の途中ソ連兵に一日数回姦せらる。一人は妊娠、一人は罹病せる二人娘を伴い辛くも京城に着せる母あり)。くぢ引で性交提供、日本内地人のみ強制。せつ元(清津と元山?)にて女はすべて換金、十人中すでに四人死、「平壌」女六十人慰安婦として空輸、幼児死亡数十人。」
昭和20年10月23日「北鮮に侵入せる「ソ」兵(ソ連兵のこと)は白昼街道にて通行中の婦女を犯す。汽車の通らぬため歩いて来る途中、一日数度強姦せらる。二人の娘を伴う老婦人はかくして上娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。元山か清津(いずれも朝鮮半島北部の都市)にては慰安婦を提供を強いられ人数不足せるをくじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。強要せられ自殺せるものも少なからず。」
現在、韓国や東南アジアのいわゆる従軍慰安婦問題とやらのために奔走している日本人がいる。しかしこの人たちは、たとえばインドネシアでは慰安婦被害者をでっちあげるまでするのに、自分たちと同じ日本人がこのような悲惨を通ってきたことはすべて無視して調査しようともしない。

昭和20年10月25日「蜂が窓から入って手にとまる。弱っている。払いおとしてふみ殺す。之が蝶ならほったらかしておくものを。さすほど力なき蜂でもさされると云う観念は、恐怖心をおこさせて力なき蜂は殺される。米国は武装国家として戦勝国として残る以上、実力をもたなければ蜂の運命をたどる。蝶となるか蜂となるか。」
戦後60年の現在の世界情勢を予見していたかのようだ。

昭和20年11月15日「関西行幸に沿道の百姓が耕作をやめて藁の上に坐って拝したり、(中略)こうした光景を見て国民の陛下に対する態度は安心なりと云う報告を閣議にしたとか。それは戦争に対し反感が高いであろう予想した考え、直訴もあろうと予期した人に相対的に感じたことであろう。私には当然のことと思える。今まで御警衛が田畠の人をしいて一列に並んで奉迎させたり、通行人の人を遠くへおしのかせたりしたのを止めたからの自然の趣で、変わらぬことと思う。」
国民が天皇を取り戻したようだ。

昭和21年4月30日「米側は憲法はドンドン改正してやってゆけばよい、今はこう云うのでやれと云うつもりなり」
つまり昭和憲法はあくまでも暫定的なものとしてGHQ指導により作られたわけだが、それが60年も改正も放置されてきたわけだ。


しかし第1巻からここまで読むのに、途中、特に戦況の電報ばかりの部分はかなり斜め読みにしたわりに、ずいぶんかかった。
殿下は昭和62(1987)年1月27日に、82歳で薨去なされた。できれば戦後の部分についてもう少し御日記を読みたかった。
ともかく、日記というのは読んでいてかなりおもしろい。ある時代についての研究書というのはとても参考にはなるが、しょせんは後代の人間がその時代を「解釈」したものだから、著者の史観やイデオロギーに大きく影響される。あるいは当時を経験した人の著書であっても、なんらかのフィルターがかかる。時代物の小説やマンガではよく「評価は後世の歴史家にまかせる」というセリフがあるが、結局のところ後世の歴史家にできることは、歴史に自分の色をつけて紹介することでしかないんじゃないだろうか。そういういみで、当事者が当時に、しかも発表の予定もなく私的につづった日記にこそ、歴史が記されているんじゃないかと思う。ただしその時代を知らない読者にとっては脚注が頼りの部分が大きく、そして脚注はまたフィルターがかかっているということになるのだが。

高松宮日記 第七巻

2005-12-02 23:53:32 | 読書
今年読んだ本。

高松宮宣仁親王 著
中央公論社
1997年7月25日 初版
ISBN 4-12-403397-4

昭和18年10月1日から19年12月31日までの御日記を収録。
全8巻の御日記もようやく7巻まできた。といっても電報の写しなど戦況記録の部分は斜め読みに飛ばしてきたけど。
その戦況記録を、宮は昭和19年6月24日でやめておられる。で、軍令部に在籍しておられたのが、昭和19年8月に横須賀砲術学校の教頭に転任しておられる。

今回とくに気を引いたのは、18年12月20日の記述。
「タラワ、マキン、アパママ」の守備隊、設営隊の死守、討死の発表あり。「玉砕」と云う語、無暗に書きたて、二十一日朝の新聞は柴崎司令官の記事で一杯なり。「玉砕」はもう沢山。そうした重圧をやいのやいのと云われることは国民の緊張した感情にも早や耐えられぬと云う程度と推察せらる。山崎部隊長の「アッツ」の玉砕に対抗して海軍のを書くと云う報道部の気持ちは余りに軽薄なり。[中略]国民は素り今「玉砕」を否定はしない、併し何んとかならぬかと云うことは常に考える。[中略]次には撤退作戦成功を喜び聞く気持ちになるであろう。そのようになるべく宣伝をすることは下手の下なるものである。子供に「タラワ」玉砕の話をしたら「もう沢山」と云って聞くのをいやがるとのこと、之は全く「死を厭う」のではなく、張り切った小さな気持ちに苦しい重荷となるのであろう。やがて銃後の大人にも重荷となる。それをこれでもかこれでもか、重荷を圧へつける様な宣伝は全くこまったものなり。[以上、旧カナを現代表記に改めている]

いったい、「玉砕」を「美談」にしたのは誰なのだろう。軍部か、マスコミか、教師か。もともとは東條の戦陣訓だろうが。宮のこの日記も、玉砕の報道に対する疑問ではあるが、玉砕そのものへの疑問にまではなっていない。

昭和19年3月16日。
陸軍参本[参謀本部]次長に昨日面会して、一、ウラニューム原子核分裂エネルギー発生利用[原爆開発のことか]、ニ、Z電波発生及利用[強力電磁波により航空機を落とす兵器]、三、潜水艦探知機(100号)[ソナーか?100号というのは不詳]研究促進の組織を提案せる旨話あり(海軍でやってるのがまどろこしくて駄目と云うことなりき)。

3月10日には、富嶽(米本土爆撃のための超遠距離大型爆撃機のことも出てくる。圧倒的物量に加え、レーダー測的により遠距離や夜戦でも米軍が圧倒的優位になる会戦が続いていることから、新兵器開発が急務になっていたことがうかがえるが、終戦までの歴史をすでに知っている読者からすれば、この時期になってこんなことでは勝ち目はなかったのだと。

戦況の不利ということでは、19年10月7日の(横須賀砲術学校での?)合同葬儀の記述に「英霊の名を読み上げるのを止めて「〃〃〃〃外[ほか]」と云ってしまう。」とある。戦死者が多すぎて、英霊、つまり靖国にまつられる神の名を省略するほどになっていたようだ。

個人的な趣味から目に付いたのは、19年10月8日に寝台列車を使われた際の記述。
何故か嫌いな金ピカ「スイロネフ」がついていた。

「スイロネフ」は軍用暗号ではなく、現代でもわかる人にはわかる。重量が40トンクラスの大型の、一等二等の寝台車で、車掌室が附属している、手動ブレーキつきの車両だ。

高松宮日記 第六巻

2005-12-01 23:43:18 | 読書
今年読んだ本。

高松宮宣仁親王 著
中央公論社
1997年3月25日 初版
ISBN 4-12-403396-6

第六巻は、昭和18(1943)年2月から9月の日記を収録。殿下は依然、軍令部に属され、この巻も軍用電報の書き写しを中心とする戦況記録がほとんど。

以下は7月15日の日記より。
----------
一○○○皈。一○三○近衛公来談。時局困難に伴い国内体制の問題につき談話。要するに癌は陸軍にして、その皇道派と統制派と問題なり。「近」(近衛)は…皇道派は比較的素朴であって、国体変革には無害なるも、統制派は「インテリ」であり転向者を周囲に集めてゐるので変革論者であるが、…もともと薩長の対立から進んでゐるものなり。
----------
殿下は海軍だから陸軍に批判的ということもあるだろうけれど、御日記を読んできているとどうも陸軍が悪役に思えてきてしまう。それにしてもまだ「薩長」の問題がある時代なんだなぁ。

7月22日の日記より。
----------
戦局益々困難となり、どうも東條総理では国民の心を満足して敗勢を挽回することに一致せしめることは出来ないであろう。国民は未だ勝っておるつもりでゐる。
----------
いわゆる「大本営発表」というやつが、逆に戦時政府を縛っていっている。韓国政府や中国政府が、国民を反日に誘導してきた結果引っ込みつかなくなってるのも同工異曲だな。

7月31日の日記より。
----------
戦局の困難は増大すべく、国際情勢又有利ならざるは速に改善せらるべき予想立たざる時、最悪の場合を考え其の処置を案ずるは極めて必要なるなり。即ち私として直ちに迷う問題はやはり生か死の分れ道に立つことなり。一つは都にありて陛下の側近にあることにして、一つは戦場に赴きて敵中に突撃することなり。何れも国体変革の暴動に際し皇位を守るためなり。敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けらるるとせば、私が戦死することによって感情的に慰撫すると共に国民を発奮再起を誓わしむることを得べし。
----------
殿下のこの覚悟を「国民のことなど考えていない。皇室を守ることしか考えていない」ということもできるかもしれない。しかし殿下は、戦後(敗戦後)に国民が復興に邁進するためにも、日本の芯としての国体を護持することが必要とお考えだったのであり、それはこの日の日記の最後にも現れている。
----------
皇族の立つは主として精神作興にして、之をもって国民の物質生活を恵まんとするにあらざればなり。
----------

それにしても、殿下の目には敗戦濃厚な戦況に映っていたようである。がしかし、まだ昭和18年9月。まだ戦争は終らない。
御日記は全8巻。次の第7巻は昭和18年10月から19年末までを納め、最後の第8巻は昭和20年から22年だ。

高松宮日記 第六巻

2005-09-23 13:00:00 | 読書
高松宮宣仁親王 著
中央公論社
1997年3月25日 初版
ISBN 4-12-403396-6

第六巻は、昭和18(1943)年2月から9月の日記を収録。殿下は依然、軍令部に属され、この巻も軍用電報の書き写しを中心とする戦況記録がほとんど。

以下は7月15日の日記より。
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一○○○皈。一○三○近衛公来談。時局困難に伴い国内体制の問題につき談話。要するに癌は陸軍にして、その皇道派と統制派と問題なり。「近」(近衛)は…皇道派は比較的素朴であって、国体変革には無害なるも、統制派は「インテリ」であり転向者を周囲に集めてゐるので変革論者であるが、…もともと薩長の対立から進んでゐるものなり。
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…殿下は海軍だから陸軍に批判的ということもあるだろうけれど、御日記を読んできているとどうも陸軍が悪役に思えてきてしまう。それにしてもまだ「薩長」の問題がある時代なんだなぁ。

7月22日の日記より。
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戦局益々困難となり、どうも東條総理では国民の心を満足して敗勢を挽回することに一致せしめることは出来ないであろう。国民は未だ勝っておるつもりでゐる。
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…いわゆる「大本営発表」というやつが、逆に戦時政府を縛っていっている。韓国政府や中国政府が、国民を反日に誘導してきた結果引っ込みつかなくなってるのも同工異曲だな。

7月31日の日記より。
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戦局の困難は増大すべく、国際情勢又有利ならざるは速に改善せらるべき予想立たざる時、最悪の場合を考え其の処置を案ずるは極めて必要なるなり。即ち私として直ちに迷う問題はやはり生か死の分れ道に立つことなり。一つは都にありて陛下の側近にあることにして、一つは戦場に赴きて敵中に突撃することなり。何れも国体変革の暴動に際し皇位を守るためなり。敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けらるるとせば、私が戦死することによって感情的に慰撫すると共に国民を発奮再起を誓わしむることを得べし。
----------
…殿下のこの覚悟を「国民のことなど考えていない。皇室を守ることしか考えていない」ということもできるかもしれない。しかし殿下は、戦後(敗戦後)に国民が復興に邁進するためにも、日本の芯としての国体を護持することが必要とお考えだったのであり、それはこの日の日記の最後にも現れている。
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皇族の立つは主として精神作興にして、之をもって国民の物質生活を恵まんとするにあらざればなり。
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それにしても、殿下の目には敗戦濃厚な戦況に映っていたようである。がしかし、まだ昭和18年9月。まだ戦争は終らない。
御日記は全8巻。次の第7巻は昭和18年10月から19年末までを納め、最後の第8巻は昭和20年から22年だそうだ。

大東亜戦争とスターリンの謀略 ―戦争と共産主義-

2005-09-17 21:00:00 | 読書
三田村武夫 著
自由社 発行
昭和62年1月20日 第一刷
ISBN4-915237-02-8

日本共産党は、第二次大戦の際に戦争に反対した唯一の政党などと称しているそうだが、事実はまったくそうではなかったことを各種史料から証明している。
今は護憲を叫んでいる共産党や社民党(旧社会党)が実は昭和憲法に反対していたことも知られているとおり、まあ、政党が「今の都合」のために過去を偽るのはよくある話だとは思うが。それにしてもこれは驚いた。要するに共産主義者にとって大事なのは世界革命であり、そのためには資本主義国同士が戦争して消耗するように、各国にあって共産主義者は戦争を煽動するのが任務だった事を、史料から明らかにしている。そしてゾルゲ事件の尾崎秀實はそれを代表する真のコムミニストだったと。

非常に興味深いのは、引用されている尾崎の手記は対米開戦直後の昭和17年2月か3月頃に書かれたものであったり、著者の共産主義に対する見解も戦後にまとめたものではなく昭和16年2月と18年2月に国会の委員会で政府に警告したものであったりと、戦後のフィルターをとおしてではなく当時のリアルなものであるということだ。
今の共産党や、今の反戦活動家、今のマスコミがどう取り繕っているかばかり見るのではなく、当時の史料に当たれるところが「本」というメディアの持続性だな。

日露戦争 その百年目の真実

2005-09-16 23:55:00 | 読書
産経新聞取材班 著
2004年11月20日 第一刷

あの産経新聞がこういうテーマを扱うなら、どうせ戦争美化しまくりだろ、と読まずに批判するクリスチャンや左翼もあるかもしれませんが、意図してそのような批判を受けないように気をつけているかのように、「事実」を中心に客観的に書かれた一冊。

たとえば旅順港閉塞作戦での英雄的戦死のために軍神と呼ばれるようになった広瀬少佐(死後に昇進して中佐)についても、『広瀬が杉野の捜索に時間をとったために脱出が遅れ、そのために犠牲が大きかったことは否めなかったが、』と客観的に評している。むしろ軍とマスコミと国民とがいかに広瀬中佐を軍神にしていったか、それが昭和二十年を境にどう変わったかなどに触れながら、ただ『国家の危機に際して身命を賭した軍人』の一人として冷静に取り上げている。

新聞の連載を集成したものということで、1話完結に近く、全体を通してのクライマックスというものはあまりない。冷静に淡々と、事実を伝えているという感じだ。
そんな中で個人的には、ニコライ堂で有名なロシア正教会の宣教しニコライの日記の発掘に興味を引かれた。日露戦争を含む1870年3月から1911年12月までの41年間の日記が、全5巻計約4100ページに製本され2004年にロシア語で出され全日本語訳も2006年に出版予定とのこと。

あとがきによると、『平成十六(二〇〇四)年二月三日から十月八日まで産経新聞で断続的に連載された「日露開戦から100年」(第一~第五部)とその番外編をあわせた計六十七回分の記事の集大成である。』のだそうだ。『「戦争」と聞いただけでアレルギー反応を起こし、その時代的、戦略的意味も考えずに脳死状態に陥るメディアが多い今の日本のマスコミの状況』の中で、節目の年にあって独りわが道を行く式の連載だった、と。
さらにあとがきでは、『取材班が肝に命じたのは、世界の特派員網も動員した新聞社ならではの現場主義に徹することと、それに基づく新しい事実や分析の発掘であ』ったと書いている。

この点、同じ「百年後」を扱っていても、沖縄大教授の又吉盛清編著「日露戦争百年 沖縄人と中国の戦場」が歴史の「事実」を著者の「思想」で歪曲しようとする一冊であるのとは全然違う。
こちらの本は、たとえば巻頭グラビアページの水師営の写真の説明も『「きのうの敵は、今日の友」と「天皇の大御心」と日本軍の武士道の寛大さを誇張した「小学校唱歌」にもなった旅順の水師営会見所跡』という説明をしている。著者が、旅順戦のあと米人記者が敗将ステッセルを撮影しようとしたときの事実を「なかったこと」にしたがっているのが、こんなところにもよくあらわれている。(まさか知らないということはないだろう)
ほかにも『日本海軍で始めての沖縄人兵士の戦死者(2人)が出た連合艦隊「初瀬」を沈めたロシア軍の同型の水雷。」の写真を載せているように、あくまでも「日本の中でも沖縄県民の被害者」だけが特筆されるべきであり、しかも写真として取り上げるのはその沖縄人兵士を殺した敵側兵器であるというのが、この本全体を象徴している。
なお、この本は副題のとおり、沖縄人と中国人だけに焦点をあてているので、注意が必要。(たとえば、沖縄人戦死者はあくまでも「加害者」ではなく「被害者」として扱おうとしている。)ただし、中国人がロシアから受けた被害についての論文(中国人による)の部分は参考になる。従来、同じ「東側」として中国ではロシアを批判するような言論はほとんどなかったが、「帝政ロシア」時代のことを攻撃するのは共産主義中国としても問題なしとなったのだろうか。

高松宮日記 第5巻

2005-09-15 23:55:00 | 読書
高松宮宣仁親王 著
1996年11月25日 初版
中央公論社
ISBN 4-12-403395-8

昭和17(1942)年10月から昭和18(1943)年2月までの御日記を収録。戦雲うずまく中、あいかわらず軍事電報の書き写しが中心で、戦史研究には第一級の史料だろうけれど私には猫に小判。
そんな中で興味深かったのは、昭和18年1月7日におこなわれた、近衛と東條の会食。殿下は「平泉博士ノ話ニヨツテ両派対立ノ融和策ナリ」と記しておられる。


東條いわく
「開戦について心配したことは
一、陸海軍が対立、分れ分れになること
ニ、蘇(ソ連)が攻撃してくること
三、国内混乱に陥ること
の三つが負ける因になると考え、之に対しては開戦と仝時に全国戒厳を奏請しようかとも思ったが、どうも日本では之は不適当で、」

東條「物的に資源をすでに十分にもち得ている。之をとり出せばよく、敵は石油はもっているが、その他は決して十分にないのである。」
(日本に資源があるとは、鍋釜のことか。敵は石油以外がないとは、いつの時点のどういう情報によるのか。)

東條「(独ソ和平について、駐日ドイツ大使には)少しでも日本がその様な希望をもっている様に見せてはならぬ。あくまで戦うことを云うつもりである。併し先方から申出があれば之は大いに利用して、仲介実現につとめる必要がある。」
近衛「三国同盟にもソを加えることを初めから考えていたので、之は日本に有利である。独ソ和平は大東亜戦の講和の機会と考える」
東條「ソは戦力としては60%位になっているが、崩壊するものとは思えぬ。日本が日ソ開戦をほのめかして独ソ和平に導くのは、日本として攻勢をとり得る戦力を持たねばやるべきでなく、」
(ソ連に「日本の言うことを聞いて独とのテーブルにつかなければ」と思わせる状況を作ってから、という話だが、それにしてもいわゆる「単独不講和」のために、日本もドイツもメンツと意地のために滅びるまで戦うほかなくなっているわけだ。陛下も、そうなるのではないかと懸念しながらも、一度結んだ条約は遵守しなければならないとお考えだった(とどこかで読んだ)が、20年8月15日の時点でもしドイツが継戦可能だったとしたら、玉音放送はあっただろうか。少なくとも陸軍は、玉音盤奪取どころかクーデターを起こしてでも終戦を妨害しただろう(このところ海軍側の本ばかり読んでいるので、陸軍ばかり悪者にしてしまう))

東條「大東亜戦争終末の機会は、(一)地域的に戦勢が固定して安定する場合と、(二)平和会議による場合とが考えられるが、米国の倦戦等は考えられぬ」
(それをいうなら(一)も(ニ)も考えられぬ。時間がたつほど敵が「行け行け」になるだろうことは戦前から予想されていた。その状況で(ニ)は考えられないし、膠着状態に持ちこめる可能性も時とともに低くなっている。)

東條「支那の方面を落付かせることは大切で、今度は汪政権を強化してゆくことに方針を定め、…蒋は宗一家と結んでからはとても日支の同協に向いてはこぬ。」
(日本が中国と戦ったというとき、それは中国を統一しているひとつの政府が相手だったわけではなく、戦国時代さながらに割拠しているいくつもの政府を相手に、その私兵と戦っていたのだという。これも日支講和の難しさだったというか、和平交渉の相手がいなかったというわけだ。)

18年2月2日、瀬島少佐による「十八年度計画作戦」より。
「五、北方方面。対ソ情勢判断。直接本上に近く行わるる戦争で国の死命を制する大戦争なり。出来るだけ準備はやって之が日ソ戦防止の鍵となる。ソの対日関係は十七年より十八年は悪くなるが、開戦は十八年は避けられると考えるが、十九年乃至二十年には発生を予期せねばならぬ。」
(結果的に、正確な情勢判断だった。)

徹底検証●昭和天皇「独白録」

2005-06-17 23:55:00 | 読書
藤原彰,粟屋憲太郎,吉田裕,山田朗
大月書店
ISBN4-272-52022-9
1991年3月20日第1刷発行


ある意味、すごい本だった。読破しようという気にならなかったほど。
書名のとおり、昭和天皇の独白録を徹底検証しようという本なのだが。

たとえば、終戦のいきさつについて。

 天皇が終戦の決意をするのはたいへん遅い時機です。軍事情勢に非常に通じていながら、なかなか戦争をやめるために積極的に行動しません。最終的には、連合軍の本土上陸がせまり、三種の神器の保持があぶなくなったというのが、天皇に終戦決意をさせたたいへん強い理由であるということが、この「独白録」からわかります。

としている。これに関連して脚注にこうある。

「独白録」では終戦の決心をした理由として、次の二つをあげている。

 当時私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。
 第二には国体護持の事で木戸も同意見であったが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の圧政下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた。

つまり三種の神器の中の、伊勢神宮の八□鏡、熱田神宮の草薙剣を守る見込みが立たなくなったことが、終戦決意をした理由だとしている。


この論理の奇妙なこと。
独白禄の「第一に」を完全に無視し、「第二に」だけを取り上げて、鬼の首を取ったように「天皇は国民のことなど考えていなかった」という論理にしようとしているわけだ。
しかもここだけ読むと、この論者たちは「天皇はもっと早くリーダーシップをとって戦争を終らせるべきだった」と主張しているかのようだが、むしろそうではない。この本全体の論調(といってもなんとか読むことができた何割かの部分だけだが)としては、「明治憲法下では政治に直接介入するべき立場になかったずの天皇が、ここでも直接介入した、あのときも直接介入した」と攻撃しているのだ。

皇室が政治の圏外に超越しているという外見をつくることが、皇室の安泰、国体護持のためには非常にかなめになってくる、そういうことを本人がわかっているふしがあって、そうならないように、なまなましい政治への直接的介入はある程度避けようという政治的配慮がはたらいているのは事実だと思います。



上海事変の際、ソ連を牽制するための抑止力として「兵力の増加を督促」する一方で、「私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが」との一文を引用しておいて、

ここでは天皇がはっきりと兵力増強をうながして、一撃をあたえるべきだと言っています。拡大派・主戦派の一撃論にかなり近い立場にあったということがわかります。

と、引用したなかの「兵力の増加を督促」の部分だけを、また鬼の首をとったつもりであげつらい、「平和論を出せ」のあたりは無視というか黙殺している。

自分の論に都合のいい部分だけを取り出すのは、左右を問わず政治評論家の、いや、政治だけに限らず「評論家」という生き物の常套手段ではあるが、左翼は特にこの傾向が強いらしいとは以前から思っていた。
論者たち自身「まだ叩けば叩ける」と吐き捨てているし。
むかむかしてきて、とてもこれ以上は読む気になれなかった。

昭和天皇独白録 寺崎秀成御用掛日記

2005-05-16 06:28:47 | 読書
編著:寺崎秀成 マリコ・テラサキ・ミラー
発行:文芸春秋
初版:1991年3月

寺崎英成が記した「昭和天皇独白録」、その寺崎が書き残した「御用掛日記」、そして寺崎のひとり娘マリコ・テラサキ・ミラー「“遺産”の重み」の三部構成となっている。
第一部は、宮内大臣、宗秩寮総裁、侍従次長、内記部長、そして御用掛の寺崎英成の5人の側近が、昭和天皇から直々に、張作霖爆死事件から終戦までの経緯を、昭和21年の3月から4月にかけて4日間計5回にわたって聞いたことをまとめたものであるという。

寺崎英成の妻は米人グエン。二人の娘マリコとグエンは戦後に、寺崎が病気を患ってから、主にマリコの教育のためとしてアメリカに渡り、英成の死に目に会えなかった。のちに遺品が届けられたときも、マリコが日本語が読めないために、遺品の中にこの第一級史料が含まれていることがわかったのはごくあとになってからだったという。

それにしても、またも「図書館で借りて読んだけど、これは買って手元に史料としておくべき」と思う一冊に会ってしまった。税込み1700円かぁ。


大東亜戦争の遠因として昭和天皇は、第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる、としている。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず(国際連盟で過半数の賛同を得たにもかかわらず、議長国アメリカによって廃案にされた)、黄白の差別感が残存したこと、カナダが移民を拒否したこと、青島還附を強いられたことなどが日本国民を憤慨させたとして、「かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。」と述べられている。
A級戦犯だけが戦争をやりたがったかのように言われているが、実際には、軍縮条約を統帥権干犯だと突き上げたのも、天皇機関説の件や、さかのぼれば「君、死にたもうなかれ」の詩を詠んだ与謝野晶子をバッシングしたのも、内村鑑三の不敬事件も、上からではなく下からだった。政府は何もしなかったのに国民とマスコミが叩いたのだった。

では天皇には責任はなかったのか。
開戦について昭和天皇は「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。」また、もし内閣の開戦決定に元首として反対を表明すれば)「国内は必ず大混乱となり」、田中事件でさえ「宮中の陰謀」と言われたくらいだから「私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても(元首を倒したあとには)結局強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては(玉音によって整然と鉾をおさめたようにはいかず)終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。」と述べておられる。
もし日本が専制君主制だったなら、責任は君主にあるだろう。しかし日本は、帝国憲法下でも「立憲君主制」だった。天皇は、輔弼者である内閣が上奏するものを裁可するだけだったわけだ。この点に関連する上記「田中事件」とは、張作霖爆死事件に関連する田中内閣退陣のことだ。
田中義一総理はこの事件について天皇に「(首謀者である)河本(大作大佐)を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である」と言ったが、その後の閣議で「日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つ」てしまった。そこで「田中は再ひ私(昭和天皇)の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた」
ここで天皇は田中に「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云」い、そして田中首相は辞表をだし内閣総辞職となった。

このときに、田中首相に同情する者などが「重臣ブロック」という言葉を作り出し、宮中の陰謀などと喧伝したらしい。このため天皇は「この事件あつて以来、私は内閣の奏上する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。」という。

昭和憲法では、天皇は内閣の助言によって国事行為を行うことしかできないわけだが、帝国憲法でも天皇は内閣の輔弼によって行動する存在だった。
二二六事件についても昭和天皇は、「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆らはぬ事にしたが、この(二二六事件の)時と終戦の時の二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」と述べている。

二二六事件の際には、主だった閣僚が殺され、あるいは安否不明となった。戦争を終らせる際も、首相はじめ文民閣僚は戦争をどう終らせるかを考えているのに、陸相は継戦可能(ただし本土決戦として)という内閣不統一(しかも陸軍は陸相をひきあげるだけで倒閣できる)だった。そのような緊急事態にはやむなくみずからの考えで発言したが、それ以外は立憲君主として、輔弼者の上奏を裁可することしかするべきではないし、できない立場だったと天皇自身がお考えだったということだ。
だからこそ、昭和50年までは折に触れて靖国神社に参拝していた天皇が、昭和53年にA級戦犯が合祀されてからは参拝しなくなったのではないだろうか。戦争指導者を戦争犯罪人にしたのは、法的に許されないはずの事後法によるものでそもそも東京裁判自体が違法なわけだが、戦争指導者は昭和天皇にとっては、天皇の意を帝国憲法で封じた上で、戦争を開始し遂行した者たちなのだから。

たとえば御前会議というものについても「枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であつて、多勢に無勢、如何ともなし難い。全く(天皇の裁可という権威を持たせるための)形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。」と述べておられるように、天皇には権威はあっても権限はない(なかった)のである。
脚注に、東京裁判での木戸幸一の証言も引用されている。「国務大臣の輔弼によって、国家の意思ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である。」

脚注はさらに、「西園寺公と政局」を引用しつつ、秩父宮の「憲法を停止し、天皇親政を実施してはどうか」との建議に、昭和天皇が伝統を傷つけるものとして強く反対したことを紹介している。
いずれにせよ、天皇の戦争責任を考えるときに、戦前戦中において、あるいは伝統的に日本の国体において、「天皇には何ができたか」を考える必要がある。権限のない立場に対して、責任だけを問うことはできないのではないだろうか。
日の丸や君が代の問題と同様だと思う。戦争をしたのは日本軍であり、それを望んだのは国民の大多数だった。それに反対するすべもない立憲君主や、あるいは日章旗や君が代をスケープゴートにしたてあげたがっているだけなのではないだろうか。

もっとも、この独白禄が天皇自身の言葉であるがゆえに、事実に対する客観性には注意を要するだろう。つまり、昭和天皇が自身を正当化するために言い訳しているのではないかと、疑えば疑えるということだ。時期的には昭和天皇を東京裁判の容疑者にするかどうかというときであり、この独白を書きとめた寺崎の立場(天皇の戦争責任を問うべきではないと考えていたとされるマッカーサーと、天皇との通訳を務めた)を考えれば、この独白録は、天皇には戦争責任がないことを主張するための陳述書であるとも言えるかもしれない。

しかし仮にそうだとしても、だから本人の言い分など聞くに値しないというのでは、検察側の証人と証拠は(ろくな検証もなく)採用しながら、弁護側の証拠や証人は片っ端から却下した東京裁判と同様、不公正だろう。クリスチャンにしか通じない言い方をするなら、ファリサイ人でさえ「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と考えるのが普通だったではないか。(ヨハネ福音書7章45~51)

クリスチャンに話を振ったついでに、天皇機関説と天皇現神(あきつかみ=現人神)説について。
現人神についてはいまだに日本のキリスト教界(とくにプロテスタントの一部)には「天皇を神とする天皇制は云々」と言う輩が少なくないが、昭和天皇自身は「現神の問題であるが、本庄(武官長)だつたか、宇佐美だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。」と述べておられる。(人間である天皇を神格化したのが現人神と考えるなら、人体の構造が普通の人間だろうと「神ではない」ことにはならないが、日本の神々とは「気配」の存在であって、肉体をもった存在ではない。その証拠に、神仏習合の例を除けば、日本には神の像はない。この点で神道は、イエスの像があふれるキリスト教以上に、十戒に近い。)

美濃部達吉の「天皇は国家最高の機関なり」という学説に対し軍部や右翼が「国体に反する」とバッシングしたとき、天皇が「機関でよいではないか」と言ったとは伝えられている。これについて天皇は「機関と云ふ代わりに(日本という国家を人体に見立てて)器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ないではないか」と武官長に話して、右翼の親玉である真崎教育総監に伝へさしたと述べておられる。

ただし、昭和7年の上海事件において白川義則大将が3月3日に停戦したことについては、「あれは(天皇の裁可を受けて参謀総長が発する)奉勅命令に依つたのではなく、私が白川に事件の不拡大を命じて置いたからである」と述べておられる。
また脚注は「西園寺公と政局」より引用して、昭和13年7月11日の満州国境での日ソ衝突の際に「元来陸軍のやり方はけしからん。(中略)中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばである。まことにけしからん話であると思う。このたびはそのようなことがあってはならんが……。今後は朕の命令なくして一兵でも動かす事はならん。」と明確な統帥命令を下したことを紹介している。
しかしこれらは、微妙ではあるが、元首としての政策への介入というよりは、軍の最高指揮官としてのものとも言えるだろう。

開戦に関連して脚注は、「失われし政治-近衛文麿の手記」から以下を引用している。

「陛下は杉山参謀総長に対し、『日米事起こらば、陸軍としてはいくばくの期間に片付ける確信ありや』と仰せられ、総長は『南洋方面だけは三ヶ月位にて片つけるつもりであります』と奉答した。陛下はさらに総長に向わせられ、『汝は支那事変勃発当時の陸相なり。その時陸相として、“支那は一ヶ月位にて片付く”と申せしことを記憶す。しかるに四ヵ年の長きにわたりまだ片付かんではないか』と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地がひらけており予定どおり作戦しえざりし事情をくどくどと弁明申し上げたところ、陛下は励声一番、総長に対せられ、『支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって三ヶ月と申すか』と仰せられ、総長はただ頭を垂れ答うるをえず……」

これも含めて、本書から「これも読んでおかなければ」と思わされた本が多いので、今後のためにメモ。
  • 失われし政治-近衛文麿の手記
  • 西園寺公と政局
  • 聖断-天皇と鈴木貫太郎
  • 時代の一面
  • 東久邇日記



第二部である寺崎英成の御用掛日記、第三部のマリコ・テラサキの手記については、かいつまんで。
まず寺崎の日記だが、昭和20年9月2日。「外国人ハ日本ハ世界制覇の野望を持ってゐるという 英訳した八紘一宇から云へばそうとられても仕方がない。 而して英訳以外に彼等ハ解釈する途を持たぬのである 然し日本人にとって八紘一宇といふのハ もっと漠然としたものである 大和絵にあるお社みたいなものである 遙か山の彼方 森の蔭 春霞の裡に見え隠れするものである ハッキリとハしないが或ハ ハッキリしないが故に有難いもの、なのである」「大罪を謝して自決した陸軍大臣(阿南惟幾)の遺書中「神州不滅を信じつゝ」といふのがあるそれをニッポンタイムスは"divaine country"と訳した 之は"country of Gods"とすべきだ 日米人の考へ方の相違 それを究明する事が(夫が日本人、妻が米国人である)吾々夫婦の使命でハあるいまいか」
八紘一宇とは、言いかえれば「世界は一家、人類みな兄弟」ということだ。八紘一宇の実現のために用いたのが武力だった(あるいは武力行使のために八紘一宇の思想を利用した)としても、八紘一宇という中には世界制覇の野望などというものは含まれていない。もっとゆるやかな、「共存共栄」という言葉より以上にゆるやかな思想なのではないだろうか。しかし、八紘一宇をどのように英訳したかわからないが、欧米人の感覚にわかるように英訳するなら、確かに世界制覇のニュアンスがただよいそうではある。
country of Godsについても、先に森首相(当時)の「神の国」発言が問題となったが、あれも文脈をみれば「神々の気配がただよう鎮守の杜を中心とした社会」というニュアンスであったし、神道の感覚でいう神々の気配とはつまるところ、キリスト者がいう「見えない創造者が、被造物にあらわされている」ということであって、創造者を知らない日本人がそれを「神々の気配」と言うのは無理ないことだと思う。
もっとも、だからといって戦中のように「自分の宗教をおがむ自由はあるが、その前に天皇を拝礼しろ」ということになっては、実質的に信教の自由が保たれないというのも事実。難しいところではある。

昭和天皇が皇太子(今上天皇)の家庭教師としてヴァイニング夫人が招聘された経緯にも寺崎はかかわっていた。日記には断片的な記述しかないが脚注によれば、昭和21年3月28日に寺崎は昭和天皇の埼玉県巡幸に随行したのち、29日には米国からの教育使節団長に正式に皇太子のための英語家庭教師の送りこみを依頼しており、この時に示された条件の一つが「狂信的でないクリスチャンの夫人」だったという。これにより「非暴力主義で知られたクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニングがえらばれた」わけだが、この条件には昭和天皇自身の意向が含まれていないわけはないだろう。
寺崎自身のキリスト教に対する印象についても、彼が病を患ったあとの昭和22年7月7日が興味深い。「こんど発作が起こったら死ぬか半身不随か、である。ギリギリの処迄押しつめられたのだ。これ以上ハ神様に祈る他ハ無い。神様としたら、まだ勘へてゐないのだが、キリスト教の方が陽気だ。キリスト教の裡でハクェーカーなどに心を引かれる」

これは寺崎自身の日記ではなく脚注に関連として紹介されていることだが、秦郁彦教授が、マッカーサー記念館の「総司令官ファイル」のなかから発掘した、天皇に近い高官(寺崎と思われる)がGHQの高官に伝えたものとされている文書から引用されている。
「神道主義者が極右翼や旧軍人と結んで復活する危険があるが、宗教の自由化令で規制と監視が困難になっているので注意するべきだと、天皇は考えている。」「陛下が何度も私に言われたことだが、『昭和』という年号は平和を増進するという意味だったのに、皮肉な結果となってしまった。しかし、これから『昭和』を真に光輝ある平和の治世にしたい、とおっしゃっている。」

昨今、自由の名の下に、義務を捨て権利だけを主張する個人主義がまかりとおっているが、寺崎は昭和22年4月4日の段階で「日本は米国民主化の悪い処をにせた」と書いている。昭和23年2月3日には「日本の民主化ハ小学児童を大学に入れる様なもの」とも。




高松宮日記 第四巻

2005-05-16 06:25:40 | 読書
著者:高松宮宣仁親王
発行:中央公論社
初版:1996年7月25日
ISBN4-12-403394-X

第四巻は昭和17(1942)年の1月1日から9月30日までの日記を収録している。
「海軍の宮様」こと高松宮殿下は、第三巻の時点で、昭和16年11月20日付けで艦隊勤務を解かれ軍令部の第一部第一課に配属となっていた。本巻は大部分が軍の作戦に関する機密電報の書き写しであるという重要な史料で、巻末付録に太平洋の各方面の地図もあるのでその方面に興味関心がある人にはかなり興味深い一冊と思う。が、私はその方面にはそれほど興味がないので、電報部分はほとんど斜め読み。それでも目に付いたところをいくつか。

7月6日の電報書写では、軍令部が「ここまで押し出せ」といい、聯合艦隊は「すでに消耗と補給の需給バランスが破れようとしているのに、本当に必要な作戦か」と。ナントカ署のナントカ刑事だったら「戦闘は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」とどなるところか。

1月22日の記述にこうある。
「ダバオ」邦人惨殺ノ報ハ、占領当時、日本軍ノ上陸ヲ見テ快哉ヲ呼号セルトキ、米軍ノ機銃デ掃射サレテ死ンダモノアリ。(中略)たき出しの人々カ某食堂ノ人トカ云フ数人ハ、何故カヒドク傷ツケラレテ殺サレタ。

前巻に記録されていた件の続報だが、要するに日本軍がダバオに到達したときに、現地にいた日本人が米軍に暴行・殺害されたらしい。もちろんこの「ダバオ虐殺」事件の犯人たちは戦犯として裁かれてはいないだろう。

3月1日に「銅鉄第一次回収」とあり、脚注に「資源不足を補うための不要金属類特別回収」とある。資源小国日本というか、欧州戦線に裏口から参戦したいルーズベルトの策略で資源輸入を封じられたことによる生き残りの戦いでもあったこの戦争、鍋釜まで供出させられたとは聞いた事があったけど、17年3月の時点でこんなことになってたんだな。

3月11日には、殿下は「天主公教会」で「アオスタ公」の追悼ミサに参列している。
日本はイタリアとも軍事同盟を結んでいたわけだし、終戦工作でバチカンにも働きかけたというが、戦時下に敵性宗教の葬儀に皇族が参列したと言うのは興味深い。もっとも日本は、ルーズベルトが死んだときにも米国に弔電を送ったりしているわけで、日本人らしい「敵とはいえ、礼は尽くす」という心だろうか。「戦時中の日本の教会」について考えるときには、こういう事実も忘れてはいけないだろう。

8月9日に、ソロモン海戦に関する大本営発表が「デタラメ」であることについて「ケシカラヌ話ナリ。今度ノ様ナノハ実ニ甚ダシク内外トモニ日本ノ発表ノ信ジラレヌコトヲ裏書スルコトニナル。」と。

その翌日、8月10日の記述。満州建国十周年記念で行われた新京での東亜競技大会で、バスケの中国対満州の試合のこと。「中側不振トナルヤ日系審判不公平トテ小石等ガ競技場ニ投ジ試合中止トナル。」って、最近どこかで聞いたような話だな。

8月25日の記述に「陸軍デハ一木支隊ハ軍旗ヲ奉ジテ行ツテヰルノデ之ヲ全滅セシメテハ参謀本部トシテモコマル、」と。兵が死ぬことどころか兵力が減じることさえも二の次で軍旗の心配をしているような軍隊が、勝てるわけがなかったのか。

床下の小人たち

2005-04-12 12:31:06 | 読書
ずっと昔、中学生のときにクラスメートがこの本を読んでいたのを思い出して、図書館で探してみた。
大人になってから児童書を読むというのも当たりはずれがあるけれど、これは「冒険者たち」以来の当たりでした。

おばあちゃんが、弟から聞いた話として物語る、弟が住んでいた家の床下にいた、「借り暮らし」する小人たちの話し。
弟と小人たちの交流。しかし小人たちがおとなに見つかってしまって…。
これだけだと、今では「ファンタジーものにありがち」ということになるけれど、小人の少女が書いていた日記についておばあちゃんが語るオチで「やられたぁ。と思ったけど、え?」なのです。

これで完結していい、真相は読者に好きに想像させてほしい、と思ったけどシリーズとして何冊かでているとのこと。次も読まねば。

原題:The Borrowers(借りる者たち)
原著出版:1953年
カーネギー賞、ルイス・キャロル・シェルフ賞、アメリカ図書館協会賞を受賞

ベルツの日記(上)

2005-03-17 23:32:57 | 読書
明治時代に長く滞日したドイツ人医師ベルツの日記。
上巻は来日から、日露戦争直前まで。

上は交友のあった皇族や政治家から、下は巷の様子まで、また新聞報道や列強の動向も記録されていて、当時の日本の「空気」がリアルにわかる。