編著:寺崎秀成 マリコ・テラサキ・ミラー
発行:文芸春秋
初版:1991年3月
寺崎英成が記した「昭和天皇独白録」、その寺崎が書き残した「御用掛日記」、そして寺崎のひとり娘マリコ・テラサキ・ミラー「“遺産”の重み」の三部構成となっている。
第一部は、宮内大臣、宗秩寮総裁、侍従次長、内記部長、そして御用掛の寺崎英成の5人の側近が、昭和天皇から直々に、張作霖爆死事件から終戦までの経緯を、昭和21年の3月から4月にかけて4日間計5回にわたって聞いたことをまとめたものであるという。
寺崎英成の妻は米人グエン。二人の娘マリコとグエンは戦後に、寺崎が病気を患ってから、主にマリコの教育のためとしてアメリカに渡り、英成の死に目に会えなかった。のちに遺品が届けられたときも、マリコが日本語が読めないために、遺品の中にこの第一級史料が含まれていることがわかったのはごくあとになってからだったという。
それにしても、またも「図書館で借りて読んだけど、これは買って手元に史料としておくべき」と思う一冊に会ってしまった。税込み1700円かぁ。
大東亜戦争の遠因として昭和天皇は、第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる、としている。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず(国際連盟で過半数の賛同を得たにもかかわらず、議長国アメリカによって廃案にされた)、黄白の差別感が残存したこと、カナダが移民を拒否したこと、青島還附を強いられたことなどが日本国民を憤慨させたとして、「かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。」と述べられている。
A級戦犯だけが戦争をやりたがったかのように言われているが、実際には、軍縮条約を統帥権干犯だと突き上げたのも、天皇機関説の件や、さかのぼれば「君、死にたもうなかれ」の詩を詠んだ与謝野晶子をバッシングしたのも、内村鑑三の不敬事件も、上からではなく下からだった。政府は何もしなかったのに国民とマスコミが叩いたのだった。
では天皇には責任はなかったのか。
開戦について昭和天皇は「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。」また、もし内閣の開戦決定に元首として反対を表明すれば)「国内は必ず大混乱となり」、田中事件でさえ「宮中の陰謀」と言われたくらいだから「私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても(元首を倒したあとには)結局強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては(玉音によって整然と鉾をおさめたようにはいかず)終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。」と述べておられる。
もし日本が専制君主制だったなら、責任は君主にあるだろう。しかし日本は、帝国憲法下でも「立憲君主制」だった。天皇は、輔弼者である内閣が上奏するものを裁可するだけだったわけだ。この点に関連する上記「田中事件」とは、張作霖爆死事件に関連する田中内閣退陣のことだ。
田中義一総理はこの事件について天皇に「(首謀者である)河本(大作大佐)を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である」と言ったが、その後の閣議で「日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つ」てしまった。そこで「田中は再ひ私(昭和天皇)の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた」
ここで天皇は田中に「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云」い、そして田中首相は辞表をだし内閣総辞職となった。
このときに、田中首相に同情する者などが「重臣ブロック」という言葉を作り出し、宮中の陰謀などと喧伝したらしい。このため天皇は「この事件あつて以来、私は内閣の奏上する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。」という。
昭和憲法では、天皇は内閣の助言によって国事行為を行うことしかできないわけだが、帝国憲法でも天皇は内閣の輔弼によって行動する存在だった。
二二六事件についても昭和天皇は、「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆らはぬ事にしたが、この(二二六事件の)時と終戦の時の二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」と述べている。
二二六事件の際には、主だった閣僚が殺され、あるいは安否不明となった。戦争を終らせる際も、首相はじめ文民閣僚は戦争をどう終らせるかを考えているのに、陸相は継戦可能(ただし本土決戦として)という内閣不統一(しかも陸軍は陸相をひきあげるだけで倒閣できる)だった。そのような緊急事態にはやむなくみずからの考えで発言したが、それ以外は立憲君主として、輔弼者の上奏を裁可することしかするべきではないし、できない立場だったと天皇自身がお考えだったということだ。
だからこそ、昭和50年までは折に触れて靖国神社に参拝していた天皇が、昭和53年にA級戦犯が合祀されてからは参拝しなくなったのではないだろうか。戦争指導者を戦争犯罪人にしたのは、法的に許されないはずの事後法によるものでそもそも東京裁判自体が違法なわけだが、戦争指導者は昭和天皇にとっては、天皇の意を帝国憲法で封じた上で、戦争を開始し遂行した者たちなのだから。
たとえば御前会議というものについても「枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であつて、多勢に無勢、如何ともなし難い。全く(天皇の裁可という権威を持たせるための)形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。」と述べておられるように、天皇には権威はあっても権限はない(なかった)のである。
脚注に、東京裁判での木戸幸一の証言も引用されている。「国務大臣の輔弼によって、国家の意思ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である。」
脚注はさらに、「西園寺公と政局」を引用しつつ、秩父宮の「憲法を停止し、天皇親政を実施してはどうか」との建議に、昭和天皇が伝統を傷つけるものとして強く反対したことを紹介している。
いずれにせよ、天皇の戦争責任を考えるときに、戦前戦中において、あるいは伝統的に日本の国体において、「天皇には何ができたか」を考える必要がある。権限のない立場に対して、責任だけを問うことはできないのではないだろうか。
日の丸や君が代の問題と同様だと思う。戦争をしたのは日本軍であり、それを望んだのは国民の大多数だった。それに反対するすべもない立憲君主や、あるいは日章旗や君が代をスケープゴートにしたてあげたがっているだけなのではないだろうか。
もっとも、この独白禄が天皇自身の言葉であるがゆえに、事実に対する客観性には注意を要するだろう。つまり、昭和天皇が自身を正当化するために言い訳しているのではないかと、疑えば疑えるということだ。時期的には昭和天皇を東京裁判の容疑者にするかどうかというときであり、この独白を書きとめた寺崎の立場(天皇の戦争責任を問うべきではないと考えていたとされるマッカーサーと、天皇との通訳を務めた)を考えれば、この独白録は、天皇には戦争責任がないことを主張するための陳述書であるとも言えるかもしれない。
しかし仮にそうだとしても、だから本人の言い分など聞くに値しないというのでは、検察側の証人と証拠は(ろくな検証もなく)採用しながら、弁護側の証拠や証人は片っ端から却下した東京裁判と同様、不公正だろう。クリスチャンにしか通じない言い方をするなら、ファリサイ人でさえ「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と考えるのが普通だったではないか。(ヨハネ福音書7章45~51)
クリスチャンに話を振ったついでに、天皇機関説と天皇現神(あきつかみ=現人神)説について。
現人神についてはいまだに日本のキリスト教界(とくにプロテスタントの一部)には「天皇を神とする天皇制は云々」と言う輩が少なくないが、昭和天皇自身は「現神の問題であるが、本庄(武官長)だつたか、宇佐美だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。」と述べておられる。(人間である天皇を神格化したのが現人神と考えるなら、人体の構造が普通の人間だろうと「神ではない」ことにはならないが、日本の神々とは「気配」の存在であって、肉体をもった存在ではない。その証拠に、神仏習合の例を除けば、日本には神の像はない。この点で神道は、イエスの像があふれるキリスト教以上に、十戒に近い。)
美濃部達吉の「天皇は国家最高の機関なり」という学説に対し軍部や右翼が「国体に反する」とバッシングしたとき、天皇が「機関でよいではないか」と言ったとは伝えられている。これについて天皇は「機関と云ふ代わりに(日本という国家を人体に見立てて)器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ないではないか」と武官長に話して、右翼の親玉である真崎教育総監に伝へさしたと述べておられる。
ただし、昭和7年の上海事件において白川義則大将が3月3日に停戦したことについては、「あれは(天皇の裁可を受けて参謀総長が発する)奉勅命令に依つたのではなく、私が白川に事件の不拡大を命じて置いたからである」と述べておられる。
また脚注は「西園寺公と政局」より引用して、昭和13年7月11日の満州国境での日ソ衝突の際に「元来陸軍のやり方はけしからん。(中略)中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばである。まことにけしからん話であると思う。このたびはそのようなことがあってはならんが……。今後は朕の命令なくして一兵でも動かす事はならん。」と明確な統帥命令を下したことを紹介している。
しかしこれらは、微妙ではあるが、元首としての政策への介入というよりは、軍の最高指揮官としてのものとも言えるだろう。
開戦に関連して脚注は、「失われし政治-近衛文麿の手記」から以下を引用している。
「陛下は杉山参謀総長に対し、『日米事起こらば、陸軍としてはいくばくの期間に片付ける確信ありや』と仰せられ、総長は『南洋方面だけは三ヶ月位にて片つけるつもりであります』と奉答した。陛下はさらに総長に向わせられ、『汝は支那事変勃発当時の陸相なり。その時陸相として、“支那は一ヶ月位にて片付く”と申せしことを記憶す。しかるに四ヵ年の長きにわたりまだ片付かんではないか』と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地がひらけており予定どおり作戦しえざりし事情をくどくどと弁明申し上げたところ、陛下は励声一番、総長に対せられ、『支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって三ヶ月と申すか』と仰せられ、総長はただ頭を垂れ答うるをえず……」
これも含めて、本書から「これも読んでおかなければ」と思わされた本が多いので、今後のためにメモ。
- 失われし政治-近衛文麿の手記
- 西園寺公と政局
- 聖断-天皇と鈴木貫太郎
- 時代の一面
- 東久邇日記
第二部である寺崎英成の御用掛日記、第三部のマリコ・テラサキの手記については、かいつまんで。
まず寺崎の日記だが、昭和20年9月2日。「外国人ハ日本ハ世界制覇の野望を持ってゐるという 英訳した八紘一宇から云へばそうとられても仕方がない。 而して英訳以外に彼等ハ解釈する途を持たぬのである 然し日本人にとって八紘一宇といふのハ もっと漠然としたものである 大和絵にあるお社みたいなものである 遙か山の彼方 森の蔭 春霞の裡に見え隠れするものである ハッキリとハしないが或ハ ハッキリしないが故に有難いもの、なのである」「大罪を謝して自決した陸軍大臣(阿南惟幾)の遺書中「神州不滅を信じつゝ」といふのがあるそれをニッポンタイムスは"divaine country"と訳した 之は"country of Gods"とすべきだ 日米人の考へ方の相違 それを究明する事が(夫が日本人、妻が米国人である)吾々夫婦の使命でハあるいまいか」
八紘一宇とは、言いかえれば「世界は一家、人類みな兄弟」ということだ。八紘一宇の実現のために用いたのが武力だった(あるいは武力行使のために八紘一宇の思想を利用した)としても、八紘一宇という中には世界制覇の野望などというものは含まれていない。もっとゆるやかな、「共存共栄」という言葉より以上にゆるやかな思想なのではないだろうか。しかし、八紘一宇をどのように英訳したかわからないが、欧米人の感覚にわかるように英訳するなら、確かに世界制覇のニュアンスがただよいそうではある。
country of Godsについても、先に森首相(当時)の「神の国」発言が問題となったが、あれも文脈をみれば「神々の気配がただよう鎮守の杜を中心とした社会」というニュアンスであったし、神道の感覚でいう神々の気配とはつまるところ、キリスト者がいう「見えない創造者が、被造物にあらわされている」ということであって、創造者を知らない日本人がそれを「神々の気配」と言うのは無理ないことだと思う。
もっとも、だからといって戦中のように「自分の宗教をおがむ自由はあるが、その前に天皇を拝礼しろ」ということになっては、実質的に信教の自由が保たれないというのも事実。難しいところではある。
昭和天皇が皇太子(今上天皇)の家庭教師としてヴァイニング夫人が招聘された経緯にも寺崎はかかわっていた。日記には断片的な記述しかないが脚注によれば、昭和21年3月28日に寺崎は昭和天皇の埼玉県巡幸に随行したのち、29日には米国からの教育使節団長に正式に皇太子のための英語家庭教師の送りこみを依頼しており、この時に示された条件の一つが「狂信的でないクリスチャンの夫人」だったという。これにより「非暴力主義で知られたクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニングがえらばれた」わけだが、この条件には昭和天皇自身の意向が含まれていないわけはないだろう。
寺崎自身のキリスト教に対する印象についても、彼が病を患ったあとの昭和22年7月7日が興味深い。「こんど発作が起こったら死ぬか半身不随か、である。ギリギリの処迄押しつめられたのだ。これ以上ハ神様に祈る他ハ無い。神様としたら、まだ勘へてゐないのだが、キリスト教の方が陽気だ。キリスト教の裡でハクェーカーなどに心を引かれる」
これは寺崎自身の日記ではなく脚注に関連として紹介されていることだが、秦郁彦教授が、マッカーサー記念館の「総司令官ファイル」のなかから発掘した、天皇に近い高官(寺崎と思われる)がGHQの高官に伝えたものとされている文書から引用されている。
「神道主義者が極右翼や旧軍人と結んで復活する危険があるが、宗教の自由化令で規制と監視が困難になっているので注意するべきだと、天皇は考えている。」「陛下が何度も私に言われたことだが、『昭和』という年号は平和を増進するという意味だったのに、皮肉な結果となってしまった。しかし、これから『昭和』を真に光輝ある平和の治世にしたい、とおっしゃっている。」
昨今、自由の名の下に、義務を捨て権利だけを主張する個人主義がまかりとおっているが、寺崎は昭和22年4月4日の段階で「日本は米国民主化の悪い処をにせた」と書いている。昭和23年2月3日には「日本の民主化ハ小学児童を大学に入れる様なもの」とも。