布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

運動会

2005-05-28 20:44:42 | 日記
小学校の運動会。天気よし、というか砂埃がひどかった。水くらい撒けばいいのに。組体操で地面に寝転がる5,6年生が気の毒なくらいだった。

開会式で全学年が整列して入場しても、少ない。児童数が少ないということは保護者も少ないということで、校庭が広すぎることもあって全体的に閑散としたというか寂しい感じ。拍手もパラパラだし。
国旗校旗掲揚では、気がついたら起立して脱帽していた。入学式では日章旗は正面に掲げられたままだったわけだけけど、国旗が高くあげられていくのを見上げるというのは、何というか、いいもんだ。クリスチャンモードで言っても、「俺たちの旗を高く掲げる」という光景を自分の中に持っていると、「主の旗」に対する印象がぐっと具体的になるように思う。

プログラム開始。何年生だかの徒競走で、「マケルモンカー!」と叫びながらコーナーを通過していった男子児童がいた。漫画の吹き出しかアニメの影響なんだろうな。

何かのプログラムの入場行進では、宇宙戦艦ヤマトがBGMに。やっぱり名曲だ。イントロを聞いただけで「全力を尽くす者たちの出陣」という印象を与える。番組を知っているからそう思うのかもしれないけど。

結果は、ほとんどの種目を制した白組が赤組に圧勝。運動会でこんなにワンサイドになることがあるのかというくらいだった。

「香港の反日デモ」報道は誤り

2005-05-21 13:23:00 | ニュース
MSNより引用
テレビ朝日:
「香港の反日デモ」報道は誤りと訂正、謝罪


 テレビ朝日は20日のニュース番組「報道ステーション」で、18日の番組で「香港の反日デモが暴徒化した」などと報道したのは深センの誤りだったと、訂正し、謝罪した。テレ朝によると、「番組担当者の勘違いで深センの映像が流れているのに、ナレーションや表示で香港と伝えてしまった。20日午後、香港特別行政区政府駐東京経済貿易代表部から指摘があり誤りに気づいた。大変申し訳ない」と話している。【油井雅和】

テレビ朝日だけに「わざとやったに決まってる」と私が思っても当然だよね。

昭和天皇と高松宮

2005-05-16 06:34:23 | 天皇・皇室
「高松宮日記」を読んでいるところに「昭和天皇独白録」も読んだのは、とてもおもしろかった。
高松宮について天皇は、昭和20年8月12日の皇族会議に関連して各皇族について述べる際に「高松宮はいつでも当局者の意見には余り賛成せられず、周囲の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日独同盟以来、戦争を謳歌し乍ら、東条内閣では戦争防止の意見となり、其后は海軍の意見に従はれた、開戦后は悲観論で、陸軍に対する反感が強かつた。」と述べておられる。

昭和天皇と高松宮については、兄弟不仲だったとも言われており、それだけ考えると昭和天皇の高松宮に対するこの評価も「陛下の主観におけるこの気持ちもわからないでもない」という気がしてしまうが、高松宮日記を読んでくると、この評価は実はほぼ客観的であること、そしてそう評価される高松宮の言動にも理由があってのこととわかってくる。

おそらく、高松宮が戦争を謳歌していたというのは、殿下が艦隊勤務にこだわり、前線に出ることを要望し続けたことを言っておられるのだろう。殿下が艦隊勤務にこだわったのは、政策的な都合であろうとも皇族が海軍に入った以上は特別扱いされるべきではないと考えていたからだったことが御日記に記されている。前線に出ることを要望したのも好戦的だったからではなく、皇族の一人でも戦死してみせ、あるいはせめて負傷でもしてみせなければ、天皇の軍隊として戦っている兵たちやその家族に対して説明がつかないという思いからであったこと、にも関わらず、秩父宮が病気であったために「天皇陛下に万一」の場合の代打のために殿下を安全なところにおくことばかり考えている上層部への腹立ちも、御日記に吐露されている。

つまり御日記を読む限り、殿下は戦争を謳歌してはおらず一貫して「戦争防止の意見」だった。というかそもそも海軍は開戦反対であり、伝統的に親英だった。
「海軍の意見に従はれた」のも、自分は皇族であると同時に(あるいはそれ以前に)海軍軍人との一人と見ていた殿下には当然であり、そして海軍は開戦前から悲観論というか「無理だ」と言っていたのを陸軍が押し通したのであり、海軍伝統の親英路線を踏みにじって日独同盟に至らせた陸軍に対する反感は、殿下のみならず海軍に蔓延していたのではないだろうか。

昭和天皇独白録 寺崎秀成御用掛日記

2005-05-16 06:28:47 | 読書
編著:寺崎秀成 マリコ・テラサキ・ミラー
発行:文芸春秋
初版:1991年3月

寺崎英成が記した「昭和天皇独白録」、その寺崎が書き残した「御用掛日記」、そして寺崎のひとり娘マリコ・テラサキ・ミラー「“遺産”の重み」の三部構成となっている。
第一部は、宮内大臣、宗秩寮総裁、侍従次長、内記部長、そして御用掛の寺崎英成の5人の側近が、昭和天皇から直々に、張作霖爆死事件から終戦までの経緯を、昭和21年の3月から4月にかけて4日間計5回にわたって聞いたことをまとめたものであるという。

寺崎英成の妻は米人グエン。二人の娘マリコとグエンは戦後に、寺崎が病気を患ってから、主にマリコの教育のためとしてアメリカに渡り、英成の死に目に会えなかった。のちに遺品が届けられたときも、マリコが日本語が読めないために、遺品の中にこの第一級史料が含まれていることがわかったのはごくあとになってからだったという。

それにしても、またも「図書館で借りて読んだけど、これは買って手元に史料としておくべき」と思う一冊に会ってしまった。税込み1700円かぁ。


大東亜戦争の遠因として昭和天皇は、第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる、としている。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず(国際連盟で過半数の賛同を得たにもかかわらず、議長国アメリカによって廃案にされた)、黄白の差別感が残存したこと、カナダが移民を拒否したこと、青島還附を強いられたことなどが日本国民を憤慨させたとして、「かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。」と述べられている。
A級戦犯だけが戦争をやりたがったかのように言われているが、実際には、軍縮条約を統帥権干犯だと突き上げたのも、天皇機関説の件や、さかのぼれば「君、死にたもうなかれ」の詩を詠んだ与謝野晶子をバッシングしたのも、内村鑑三の不敬事件も、上からではなく下からだった。政府は何もしなかったのに国民とマスコミが叩いたのだった。

では天皇には責任はなかったのか。
開戦について昭和天皇は「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。」また、もし内閣の開戦決定に元首として反対を表明すれば)「国内は必ず大混乱となり」、田中事件でさえ「宮中の陰謀」と言われたくらいだから「私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても(元首を倒したあとには)結局強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては(玉音によって整然と鉾をおさめたようにはいかず)終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。」と述べておられる。
もし日本が専制君主制だったなら、責任は君主にあるだろう。しかし日本は、帝国憲法下でも「立憲君主制」だった。天皇は、輔弼者である内閣が上奏するものを裁可するだけだったわけだ。この点に関連する上記「田中事件」とは、張作霖爆死事件に関連する田中内閣退陣のことだ。
田中義一総理はこの事件について天皇に「(首謀者である)河本(大作大佐)を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である」と言ったが、その後の閣議で「日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つ」てしまった。そこで「田中は再ひ私(昭和天皇)の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた」
ここで天皇は田中に「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云」い、そして田中首相は辞表をだし内閣総辞職となった。

このときに、田中首相に同情する者などが「重臣ブロック」という言葉を作り出し、宮中の陰謀などと喧伝したらしい。このため天皇は「この事件あつて以来、私は内閣の奏上する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。」という。

昭和憲法では、天皇は内閣の助言によって国事行為を行うことしかできないわけだが、帝国憲法でも天皇は内閣の輔弼によって行動する存在だった。
二二六事件についても昭和天皇は、「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆らはぬ事にしたが、この(二二六事件の)時と終戦の時の二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」と述べている。

二二六事件の際には、主だった閣僚が殺され、あるいは安否不明となった。戦争を終らせる際も、首相はじめ文民閣僚は戦争をどう終らせるかを考えているのに、陸相は継戦可能(ただし本土決戦として)という内閣不統一(しかも陸軍は陸相をひきあげるだけで倒閣できる)だった。そのような緊急事態にはやむなくみずからの考えで発言したが、それ以外は立憲君主として、輔弼者の上奏を裁可することしかするべきではないし、できない立場だったと天皇自身がお考えだったということだ。
だからこそ、昭和50年までは折に触れて靖国神社に参拝していた天皇が、昭和53年にA級戦犯が合祀されてからは参拝しなくなったのではないだろうか。戦争指導者を戦争犯罪人にしたのは、法的に許されないはずの事後法によるものでそもそも東京裁判自体が違法なわけだが、戦争指導者は昭和天皇にとっては、天皇の意を帝国憲法で封じた上で、戦争を開始し遂行した者たちなのだから。

たとえば御前会議というものについても「枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であつて、多勢に無勢、如何ともなし難い。全く(天皇の裁可という権威を持たせるための)形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。」と述べておられるように、天皇には権威はあっても権限はない(なかった)のである。
脚注に、東京裁判での木戸幸一の証言も引用されている。「国務大臣の輔弼によって、国家の意思ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である。」

脚注はさらに、「西園寺公と政局」を引用しつつ、秩父宮の「憲法を停止し、天皇親政を実施してはどうか」との建議に、昭和天皇が伝統を傷つけるものとして強く反対したことを紹介している。
いずれにせよ、天皇の戦争責任を考えるときに、戦前戦中において、あるいは伝統的に日本の国体において、「天皇には何ができたか」を考える必要がある。権限のない立場に対して、責任だけを問うことはできないのではないだろうか。
日の丸や君が代の問題と同様だと思う。戦争をしたのは日本軍であり、それを望んだのは国民の大多数だった。それに反対するすべもない立憲君主や、あるいは日章旗や君が代をスケープゴートにしたてあげたがっているだけなのではないだろうか。

もっとも、この独白禄が天皇自身の言葉であるがゆえに、事実に対する客観性には注意を要するだろう。つまり、昭和天皇が自身を正当化するために言い訳しているのではないかと、疑えば疑えるということだ。時期的には昭和天皇を東京裁判の容疑者にするかどうかというときであり、この独白を書きとめた寺崎の立場(天皇の戦争責任を問うべきではないと考えていたとされるマッカーサーと、天皇との通訳を務めた)を考えれば、この独白録は、天皇には戦争責任がないことを主張するための陳述書であるとも言えるかもしれない。

しかし仮にそうだとしても、だから本人の言い分など聞くに値しないというのでは、検察側の証人と証拠は(ろくな検証もなく)採用しながら、弁護側の証拠や証人は片っ端から却下した東京裁判と同様、不公正だろう。クリスチャンにしか通じない言い方をするなら、ファリサイ人でさえ「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と考えるのが普通だったではないか。(ヨハネ福音書7章45~51)

クリスチャンに話を振ったついでに、天皇機関説と天皇現神(あきつかみ=現人神)説について。
現人神についてはいまだに日本のキリスト教界(とくにプロテスタントの一部)には「天皇を神とする天皇制は云々」と言う輩が少なくないが、昭和天皇自身は「現神の問題であるが、本庄(武官長)だつたか、宇佐美だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。」と述べておられる。(人間である天皇を神格化したのが現人神と考えるなら、人体の構造が普通の人間だろうと「神ではない」ことにはならないが、日本の神々とは「気配」の存在であって、肉体をもった存在ではない。その証拠に、神仏習合の例を除けば、日本には神の像はない。この点で神道は、イエスの像があふれるキリスト教以上に、十戒に近い。)

美濃部達吉の「天皇は国家最高の機関なり」という学説に対し軍部や右翼が「国体に反する」とバッシングしたとき、天皇が「機関でよいではないか」と言ったとは伝えられている。これについて天皇は「機関と云ふ代わりに(日本という国家を人体に見立てて)器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ないではないか」と武官長に話して、右翼の親玉である真崎教育総監に伝へさしたと述べておられる。

ただし、昭和7年の上海事件において白川義則大将が3月3日に停戦したことについては、「あれは(天皇の裁可を受けて参謀総長が発する)奉勅命令に依つたのではなく、私が白川に事件の不拡大を命じて置いたからである」と述べておられる。
また脚注は「西園寺公と政局」より引用して、昭和13年7月11日の満州国境での日ソ衝突の際に「元来陸軍のやり方はけしからん。(中略)中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばである。まことにけしからん話であると思う。このたびはそのようなことがあってはならんが……。今後は朕の命令なくして一兵でも動かす事はならん。」と明確な統帥命令を下したことを紹介している。
しかしこれらは、微妙ではあるが、元首としての政策への介入というよりは、軍の最高指揮官としてのものとも言えるだろう。

開戦に関連して脚注は、「失われし政治-近衛文麿の手記」から以下を引用している。

「陛下は杉山参謀総長に対し、『日米事起こらば、陸軍としてはいくばくの期間に片付ける確信ありや』と仰せられ、総長は『南洋方面だけは三ヶ月位にて片つけるつもりであります』と奉答した。陛下はさらに総長に向わせられ、『汝は支那事変勃発当時の陸相なり。その時陸相として、“支那は一ヶ月位にて片付く”と申せしことを記憶す。しかるに四ヵ年の長きにわたりまだ片付かんではないか』と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地がひらけており予定どおり作戦しえざりし事情をくどくどと弁明申し上げたところ、陛下は励声一番、総長に対せられ、『支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって三ヶ月と申すか』と仰せられ、総長はただ頭を垂れ答うるをえず……」

これも含めて、本書から「これも読んでおかなければ」と思わされた本が多いので、今後のためにメモ。
  • 失われし政治-近衛文麿の手記
  • 西園寺公と政局
  • 聖断-天皇と鈴木貫太郎
  • 時代の一面
  • 東久邇日記



第二部である寺崎英成の御用掛日記、第三部のマリコ・テラサキの手記については、かいつまんで。
まず寺崎の日記だが、昭和20年9月2日。「外国人ハ日本ハ世界制覇の野望を持ってゐるという 英訳した八紘一宇から云へばそうとられても仕方がない。 而して英訳以外に彼等ハ解釈する途を持たぬのである 然し日本人にとって八紘一宇といふのハ もっと漠然としたものである 大和絵にあるお社みたいなものである 遙か山の彼方 森の蔭 春霞の裡に見え隠れするものである ハッキリとハしないが或ハ ハッキリしないが故に有難いもの、なのである」「大罪を謝して自決した陸軍大臣(阿南惟幾)の遺書中「神州不滅を信じつゝ」といふのがあるそれをニッポンタイムスは"divaine country"と訳した 之は"country of Gods"とすべきだ 日米人の考へ方の相違 それを究明する事が(夫が日本人、妻が米国人である)吾々夫婦の使命でハあるいまいか」
八紘一宇とは、言いかえれば「世界は一家、人類みな兄弟」ということだ。八紘一宇の実現のために用いたのが武力だった(あるいは武力行使のために八紘一宇の思想を利用した)としても、八紘一宇という中には世界制覇の野望などというものは含まれていない。もっとゆるやかな、「共存共栄」という言葉より以上にゆるやかな思想なのではないだろうか。しかし、八紘一宇をどのように英訳したかわからないが、欧米人の感覚にわかるように英訳するなら、確かに世界制覇のニュアンスがただよいそうではある。
country of Godsについても、先に森首相(当時)の「神の国」発言が問題となったが、あれも文脈をみれば「神々の気配がただよう鎮守の杜を中心とした社会」というニュアンスであったし、神道の感覚でいう神々の気配とはつまるところ、キリスト者がいう「見えない創造者が、被造物にあらわされている」ということであって、創造者を知らない日本人がそれを「神々の気配」と言うのは無理ないことだと思う。
もっとも、だからといって戦中のように「自分の宗教をおがむ自由はあるが、その前に天皇を拝礼しろ」ということになっては、実質的に信教の自由が保たれないというのも事実。難しいところではある。

昭和天皇が皇太子(今上天皇)の家庭教師としてヴァイニング夫人が招聘された経緯にも寺崎はかかわっていた。日記には断片的な記述しかないが脚注によれば、昭和21年3月28日に寺崎は昭和天皇の埼玉県巡幸に随行したのち、29日には米国からの教育使節団長に正式に皇太子のための英語家庭教師の送りこみを依頼しており、この時に示された条件の一つが「狂信的でないクリスチャンの夫人」だったという。これにより「非暴力主義で知られたクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニングがえらばれた」わけだが、この条件には昭和天皇自身の意向が含まれていないわけはないだろう。
寺崎自身のキリスト教に対する印象についても、彼が病を患ったあとの昭和22年7月7日が興味深い。「こんど発作が起こったら死ぬか半身不随か、である。ギリギリの処迄押しつめられたのだ。これ以上ハ神様に祈る他ハ無い。神様としたら、まだ勘へてゐないのだが、キリスト教の方が陽気だ。キリスト教の裡でハクェーカーなどに心を引かれる」

これは寺崎自身の日記ではなく脚注に関連として紹介されていることだが、秦郁彦教授が、マッカーサー記念館の「総司令官ファイル」のなかから発掘した、天皇に近い高官(寺崎と思われる)がGHQの高官に伝えたものとされている文書から引用されている。
「神道主義者が極右翼や旧軍人と結んで復活する危険があるが、宗教の自由化令で規制と監視が困難になっているので注意するべきだと、天皇は考えている。」「陛下が何度も私に言われたことだが、『昭和』という年号は平和を増進するという意味だったのに、皮肉な結果となってしまった。しかし、これから『昭和』を真に光輝ある平和の治世にしたい、とおっしゃっている。」

昨今、自由の名の下に、義務を捨て権利だけを主張する個人主義がまかりとおっているが、寺崎は昭和22年4月4日の段階で「日本は米国民主化の悪い処をにせた」と書いている。昭和23年2月3日には「日本の民主化ハ小学児童を大学に入れる様なもの」とも。




高松宮日記 第四巻

2005-05-16 06:25:40 | 読書
著者:高松宮宣仁親王
発行:中央公論社
初版:1996年7月25日
ISBN4-12-403394-X

第四巻は昭和17(1942)年の1月1日から9月30日までの日記を収録している。
「海軍の宮様」こと高松宮殿下は、第三巻の時点で、昭和16年11月20日付けで艦隊勤務を解かれ軍令部の第一部第一課に配属となっていた。本巻は大部分が軍の作戦に関する機密電報の書き写しであるという重要な史料で、巻末付録に太平洋の各方面の地図もあるのでその方面に興味関心がある人にはかなり興味深い一冊と思う。が、私はその方面にはそれほど興味がないので、電報部分はほとんど斜め読み。それでも目に付いたところをいくつか。

7月6日の電報書写では、軍令部が「ここまで押し出せ」といい、聯合艦隊は「すでに消耗と補給の需給バランスが破れようとしているのに、本当に必要な作戦か」と。ナントカ署のナントカ刑事だったら「戦闘は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」とどなるところか。

1月22日の記述にこうある。
「ダバオ」邦人惨殺ノ報ハ、占領当時、日本軍ノ上陸ヲ見テ快哉ヲ呼号セルトキ、米軍ノ機銃デ掃射サレテ死ンダモノアリ。(中略)たき出しの人々カ某食堂ノ人トカ云フ数人ハ、何故カヒドク傷ツケラレテ殺サレタ。

前巻に記録されていた件の続報だが、要するに日本軍がダバオに到達したときに、現地にいた日本人が米軍に暴行・殺害されたらしい。もちろんこの「ダバオ虐殺」事件の犯人たちは戦犯として裁かれてはいないだろう。

3月1日に「銅鉄第一次回収」とあり、脚注に「資源不足を補うための不要金属類特別回収」とある。資源小国日本というか、欧州戦線に裏口から参戦したいルーズベルトの策略で資源輸入を封じられたことによる生き残りの戦いでもあったこの戦争、鍋釜まで供出させられたとは聞いた事があったけど、17年3月の時点でこんなことになってたんだな。

3月11日には、殿下は「天主公教会」で「アオスタ公」の追悼ミサに参列している。
日本はイタリアとも軍事同盟を結んでいたわけだし、終戦工作でバチカンにも働きかけたというが、戦時下に敵性宗教の葬儀に皇族が参列したと言うのは興味深い。もっとも日本は、ルーズベルトが死んだときにも米国に弔電を送ったりしているわけで、日本人らしい「敵とはいえ、礼は尽くす」という心だろうか。「戦時中の日本の教会」について考えるときには、こういう事実も忘れてはいけないだろう。

8月9日に、ソロモン海戦に関する大本営発表が「デタラメ」であることについて「ケシカラヌ話ナリ。今度ノ様ナノハ実ニ甚ダシク内外トモニ日本ノ発表ノ信ジラレヌコトヲ裏書スルコトニナル。」と。

その翌日、8月10日の記述。満州建国十周年記念で行われた新京での東亜競技大会で、バスケの中国対満州の試合のこと。「中側不振トナルヤ日系審判不公平トテ小石等ガ競技場ニ投ジ試合中止トナル。」って、最近どこかで聞いたような話だな。

8月25日の記述に「陸軍デハ一木支隊ハ軍旗ヲ奉ジテ行ツテヰルノデ之ヲ全滅セシメテハ参謀本部トシテモコマル、」と。兵が死ぬことどころか兵力が減じることさえも二の次で軍旗の心配をしているような軍隊が、勝てるわけがなかったのか。

昭和の日

2005-05-12 13:08:23 | ニュース
今年4月5日に衆院を通過した祝日法改正案が、参院内閣委員会で自民、民主、公明3党の賛成多数で可決されたとのこと。
明日の参院本会議で可決されれば、再来年から4月29日を「昭和の日」、5月4日を「みどりの日」とすることになる。

<http://blog.goo.ne.jp/nunochu/d/20050429>以前にも書いたけど、うーん、どうなのかなぁ。
悪いことじゃないと思うのだけど。

「昭和の人」「昭和のギャグ」「昭和のセンス」という言葉がすでに「時代遅れ」「アナクロ」「ノスタルジック」というニュアンスで使われるようになってるくらいには「昭和は遠くなりにけり」な気がするのだけど。

ただ、大東亜戦争が時の流れとともに風化しつつある中で「語り継ぐ日」として役立つのではないかとは思う。
カレンダーの中に「昭和の日」があれば、平成世代やさらにその子供たちにも、あの時代に触れる動機になるかもしれない。
もちろんそのときに、自虐史観にも皇国史観にもとらわれてほしくない。史観ではなく史実として「あの時代に何があったか」に思いをいたし、これからを考えることができるようになれば、昭和の日も有意義になるのかもしれない。

JR西日本の事故/ドン・キホーテのCM

2005-05-10 22:03:24 | ニュース
先日の列車事故に関して、JR西日本の社員(幹部から末端まで)の質の問題が問われている。
これで思い出すのが、昨年のドン・キホーテ放火事件。
あのとき、客の安全を確認するために店員たちが炎と煙の中に飛び込み、そして3人(社員1、契約社員1、アルバイト1)が帰らなかった。

片や「民間」の、大規模とはいえたかが「お店」でありながら、客の安全のためにそこまでやれる店員を、アルバイトにいたるまで育てていた(あるいはそのような人材が集まっていた)企業。
片や「公共」の性格を持ちながら、現場に居合わせながら客の救出よりも出勤を優先する社員、報告を受けながらボーリングに興じる社員を育てていた(あるいはそのような人材が集まっていた)企業。

ところで経済ジャーナリストの内田裕子は、ビジネス道場に連載しているコラムで昨年12月20日にこう書いていた。
 被害者であるはずのドン・キホーテに対して、マスコミの報道がいやに冷たいな、と思いながらTVを見ていたら、あるコメンテーターが「この会社は摩擦が多すぎますから」と厳しい口調で話題を締めくくりました。同情の余地なし、といいたげな表情で。
 なぜだ?なぜなのか?放火の被害者で3名も従業員が亡くなっているのに、ここまで言い切るのは普通ではありえない。
(中略)
ドン・キホーテはTVのスポンサードしていませんから、ワイドショーでも全くかばってもらえず、言いたい放題言われています。

店員の教育においてドン・キホーテは賞賛されるべきなのに、CMを流していなかったばっかりに。
そのためか、最近になってドン・キホーテのCMをTVで見る。アニマル浜口と浜口京子の父娘が出てるアレ。同社のサイトで確認したが、やはり初CMだそうだ。

ドラマもそうらしいがCMというのも、実際に放映したい時期の前の季節までに撮影することが多いようだ。私自身も何度かCMに出たけど、夏向けのCMを春先に、海辺でアロハシャツで寒い思いしながら撮ったこともあった。
ドン・キホーテの初CMは、放映期間が4月~6月となっている。その3ヶ月前くらいに撮影されたとすると、事件が一段落したくらいに「やはりマスコミとの関係のためにもTVをスポンサードしよう」ということになり、それからCMを企画・製作したんじゃないだろうか。
そう思うからか、いかにも「とりあえず作ってみました」感のあるCMに見えてしまう。

両陛下のアイルランド訪問

2005-05-09 23:25:04 | 天皇・皇室
天皇陛下は皇后陛下とともに、20年ぶり(つまり皇太子時代以来)のノルウェーとアイルランドをご訪問中。

メールマガジン「世界キリスト教情報」によると、まず訪れたアイルランドで5月8日、グレンダ・ロッホにある初期キリスト教会遺跡群を約1時間視察なさったとのこと。
常々、今上天皇とキリスト教との距離について感心があったのだけど、ご出発前の記者会見でも皇后陛下が
 私の学生時代,聖心でも雙葉でも,アイルランドの修道女のお姿を見る機会は多く,直接お教えを受ける機会は少なかったのですが,どなたも魅力的で美しく,今そのお一人お一人を,お名前と共に思い出します。
等語られたのが印象的。

天皇陛下と国旗・国歌

2005-05-09 23:18:03 | 日本
以下は4月25日に行われた、ノルウェー・アイルランド訪問に先駆けての記者会見より転載。


在日外国報道協会代表質問:
 昨年の秋には天皇陛下ご自身が国歌斉唱と国旗掲揚についてご発言を述べられました。学校でこれらのことを強制的にさせることはどうお考えでしょうか。

天皇陛下:
 世界の国々が国旗,国歌を持っており,国旗,国歌を重んじることを学校で教えることは大切なことだと思います。
 国旗,国歌は国を象徴するものと考えられ,それらに対する国民の気持ちが大事にされなければなりません。
 オリンピックでは優勝選手が日章旗を持ってウィニングランをする姿が見られます。選手の喜びの表情の中には,強制された姿はありません。国旗,国歌については,国民一人一人の中で考えられていくことが望ましいと考えます。


まったく同意。
自国の国旗、国歌も、他国の国旗、国歌も重んじることを、子供たちは教えられなければならないと思う(子供たちだけではないが)。
現在の日本の民主主義では、重んじるべきことを重んじないのも「自由」ということになるらしい。それはそれでいいのかもしれないけれど、「重んじることを強制されている」と言っている教師たちが「重んじないことを子供たちに強制している」というんじゃ、自分の都合にいいように「自由」を使っているだけじゃないか。

彼らがいう「自由」を真に実現するためには、国旗を掲揚し、国歌斉唱を行事のプログラムに入れた上で、国歌を歌いたくない教師や国旗に敬意を表したくない教師は退出すればいい。
国旗と国歌に正対する教師と反対する教師、両方の姿を見せた上で、生徒一人一人の中で考えていけばいい。

だから東京都の知事も教育長も、文科省も、教師に強制はするな。

国民の休日

2005-05-04 20:00:54 | 日本
現行の祝日法では、第三条に定める「国民の休日」。
4/29を「昭和の日」とする法案が成立すると、現在は4/29である「みどりの日」が5/4になる。


「国民の休日」というのもわけわからない名称だけど、移動祝日でもないのにある年からある祝日の日付が変わるというのもなぁ。
「新郎新婦の初デートは、入社した年のみどりの日でした」と言ったときに、4/29だっけ5/4だっけなんてことになるのか。「新みどりの日」とかしておかないと、ややこしいことになりそうな。

もっとも、今も「4/29はみどりの日」と意識している人って、あまりいないと思うけど。「ゴールデンウィークの初日」くらいだよね。
祝日法では「みどりの日」は、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日なので、別に4/29でも5/4でもかまわないんだけど。