布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

メルマガ配信

2009-03-10 02:01:19 | 聖書
メールマガジン「聖書を読んでみよう」の通算179号を先ほど配信予約。
やっと士師記の最終回となりました。

士師記の後半は本当にしんどかった。
けど、こういう記録が聖書に残されているというのはおもしろい。「聖書なんて、長い歴史の間に改竄されてきたに決まっている」というような意見に出会うことがあるけれど、改竄がありえるとしたら士師記後半は絶対に削除されているはずと思うから。

メルマガ執筆中

2008-10-29 00:13:34 | 聖書
前号の配信から間があいてるメールマガジン「聖書を読んでみよう」ですが、ただいま鋭意執筆中です。というか、やっと次号に手を付けました。
実は前号までで扱ったサムソンについてどうも気になることがあり、それをまとめるのに時間がかかってました。…実はもう少しかかりそうなので、区切ってメルマガに戻ったところです。サムソンのことはまとまったら、、、でもメルマガ向きじゃないなぁ。ブログか、サイトの「聖書を遊ぶ」あたりで公開します。

で、メルマガですけど。こっちもてこずってます。サムソンで士師は12人終わって、次号から士師記の後半なのだけど。イスラエルめちゃくちゃすぎ!「王政が待たれる混沌時代」といえばそれまでだけど、あまりにひどい。いったいどう読めばいいのやら。

休日出勤がなければ次の週末には配信したいと思ってます(でも出勤ありそう)。

死んだペットと天国で会えるの?

2008-07-11 07:11:18 | 聖書
かなり前のことだけど、教会学校に来ていた中学生に、死んだペットに天国で会えるのかと質問されたことがあります。
今朝、身内が長く飼っていた犬が死んだとの連絡があって、上の問いともう一度むきあわなきゃと思いました。
このテーマにはたぶん神学的な議論がある程度なされていると思うのですが、ここではあくまで「私の聖書理解」として書きます。

まず、聖書は「生きている人が、生きているうちに、イエスをキリストであると信じるためのもの」であるということなのか、動物が死んだあとのことはぜんぜん書いてない(少なくとも私は見つけていない)です。だいたい、人間が死んだあとのことも、ほとんど書かれていません。
ただしこれは、「動物は天国に行けない」とも明確には書かれてはいない、ということでもあります。

で、じゃあどっちなの?ということですが。
今の時点での私の結論としては、どっちだかわかりません。わからないということは、「愛するペットと天国で再会できるように」と祈るのは、神様の心に反する祈りとはいえない、ということだと思います。だったら、そう祈っていいはずだし、「祈ってよいこと」というのは「積極的に祈るべきこと」です。そして聖書には、イエスの名で祈ったことはすでにかなえられたと信じなさい、とも書かれています。

動物は天国には入れないと考えるとしたら、その根拠はなんでしょうか。
これは坂井がかってに推測することですが、動物が天国に入れないと考えるならその理由の一つは次のようなものでしょうか。
「天国に入るためには、罪をゆるされなければならない」
→「罪をゆるされるただ一つの方法は、『イエス様の十字架は、私を罪から救うためだった』ということを、心で信じ、口で言いあらわすこと」
→「動物はイエスを信じることも、信仰を言い表すこともできないから、罪をゆるされて天国に入ることはない」

でもよく考えると、動物は罪を犯してはいないですよね。肉食動物が生きるために草食動物の命を奪うのは、殺人とは違います。
ノアの洪水のときには動物たちも(箱舟に乗ったオスメスのペア以外は)しに増したけど、それだって動物が人間と一緒になって罪を犯したわけではなくて、人間が罪を犯したので、人間とともに、人間の支配下にある動物たちも死ぬことになったわけです。(経営陣の違法行為が裁かれて倒産し、違法行為を犯してもいない末端の社員も失業した、というようなものでしょうか。ちょっと無理があるたとえかな。)

それとも「人に罪が入ったために、この世そのものが罪に定められたので、動物も救われる必要がある」ということでしょうか。
だとしても、動物たちがイエスを信じていないとか、動物たちが信仰を告白していないなどとは、言えないと思います。
たとえば、イエスは「人が賛美の声を黙らされるなら、代わりに道ばたの石が(賛美を)叫ぶ」と言っています。無生物である石が神を賛美できるのなら、まして動物が信仰を告白できないはずがありません。石も動物も、今は人間の言葉を使わないというだけでしょう。聖書には、神がロバの口を開かせるとロバが人間語をしゃべったという記録が実際にあるのです(民数記22章22)。

「動物は天国に行けない」という考えの理由になりそうな聖書箇所は、他にもあります。
パウロは、人間は霊と魂と体から成ると書いています(第一テサロニケ5章23)。坂井は、霊と魂がどうちがうのか(何度教えてもらってもいまだに)よくわかっていないのですが、とりあえず霊については、創造の時に他の動物と違って人間(アダム)だけが、鼻に「命の息(霊と同じ言葉)」を吹き入れられて「生きるものとなった」と書かれています(創世記2章7)。
たぶん、「霊を持っているのは人間だけだ」
→「復活とは、死んで体から離れた霊が、新しい体を与えられてよみがえることだ」
→「霊を持っていない動物は復活することはなく、死んで体が朽ちることで全存在が無になる」
ということでしょうか。

しかし本当に動物には霊がないのでしょうか。
実は今「命の息」を聖書ソフトで検索してはじめて気づいたのですが、創世記7章22に「乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるもの」とあります。前後(7章21~23)で見ると、これは人間だけでなくすべての生き物(少なくとも陸上生物)についてのことと理解できる文章です。
それに、「生きている人間」と「人間の死体」の違いが「霊と魂と体が一つになっているか、離れてしまったか」にあるなら、動物には霊がないとしたら「生きている動物」と「動物の死体」の違いは何もないということになってしまいますものね。つまり「生きている動物」というのは「動物の死体が動き回っている」というのと同じということになってしまう。
あるいは、「人間は霊と魂と体(物質)だけど、動物は体(物質)だけ」というのであれば、動物を愛するというのは、命のないモノ(宝石とか家屋敷とか)を愛するのと変わらないことになってしまう。

何かおかしいですよね。
仮説を立て、その仮説にそって論説を組み立てた結果がおかしくなったとしたら、話の組み立て方がおかしいか、仮説自体がおかしいか、どちらかでしょう。「動物には霊がない」「死とは、体と霊が離れたことをいう」のどちらか、あるいは両方が間違っているのではないでしょうか。

もう一度、なぜ人は死ぬのか、なぜ救われたら「永遠の命」に入れるのか、このあたりを考えて見ます。
一人の人(アダム)によって世に罪が入り、そのために人は死ぬことになり、人の支配下にある動物も死ぬことになったのだとすると。
一人の人(キリスト)によって救いが世にあらわされ、そのために人が永遠の命に与るようになった時、人の支配下にある動物も永遠の命に与るようになったはずではないでしょうか。
(このあたり、ローマの信徒への手紙5章12,15,19あたりを参照。)

最初に書いたとおり、以上のことは坂井の聖書理解でしかありません。
「動物は天国に行けない」の根拠についても「こういう解釈をしてそういう結論を出しているんじゃないかなぁ」と想像で言っているだけなので、いずれちゃんとそうした意見(「動物は天国に行けない」の神学的根拠)について勉強した上でもう一度この問題に取り組みたいと思います。

トマスと他の弟子たち

2008-04-21 13:44:38 | 聖書
昨日の千葉バプテスト教会の礼拝メッセージは、ヨハネ福音書20章の、復活のイエスがトマスに顕れる箇所からでした。
この箇所を読むたびにいつも思うのは、トマスに「わたしたちは主を見た」と証しした「ほかの弟子たち」(25節)つまりトマスとユダ・イスカリオテを除く10人のことです。この場面では脇役なのですが(だからメッセージでも特に取り上げられはしなかったけど)、気になるのです。

私たちキリスト者は、すでに主を知った者として、世に証しする中で「この真実をどうしてわかってくれないのだろう、どう伝えればいいのだろう」と感じることがあります。
同じように、いえ何十倍ものもどかしさを、このとき10人は感じていたはず。彼らが復活のイエスに会ったという「実体験」は、私たちの主に対する「確信」とは比較にならない確かさだし。しかも、イエスをまったく知らない隣人に伝えるのと違って、彼らはイエスを知っているトマスに伝えているのに、信じてくれないのです。
八日後にイエスが再度顕れるまでの間、10人はトマスの顔を見るたびに証しして、しかし「どうして信じてくれない、どうして信じられない、どう言えば伝わる」と煩悶し続けたに違いありません。

実はこの煩悶を味わったのは、この10人が最初ではありませんでした。以前に書いたものと重複しますが、先にマグダラのマリアが弟子たちに「わたしは(復活した)主を見ました」と証ししたのに、彼ら自身が信じなかったのです。
きっと彼らは、トマスに証ししながら「俺たちも信じられなかったものなぁ。マリアの気持ちが今はよくわかるよ」という思いだったことでしょう。

で、結局トマスは、弟子たちの証しによって信じることはできず、イエス自身によってやっと信じるのです。これは10人も一緒でした。どちらも、人の証しによってでなく、主ご自身のアプローチによって。百万言の証しによってでなく、主の「シャロームがあるように」という挨拶の一言によって。

トマスだけでなく10人も「見なくては信じられない者」でした。「見ないのに信じる人は、幸いである」ということばは「イエスはトマスに言われた」と記録されているけれど、これは10人に向けても言われた言葉だったのではないでしょうか(イエスがペトロに「サタンよ引き下がれ」と叱った時もペトロだけでなく人々に言ったし)

結論めいたことを言うなら、これらの記録から「言葉による証しだけで実を結ぶことはない」ということが言えるのではないでしょうか。もちろん、言葉の証しがむなしいというわけではありません。やっぱり「実を結ばせる主」に期待する祈りの熱心がともなってこその証しだよね、ということです。

メールマガジンを発行

2008-02-10 06:53:53 | 聖書
久しぶりで、メールマガジン「聖書を読んでみよう」を配信。
旧約聖書第7巻「士師記」の解説の、ようやく第3回。
(バックナンバーはこちらにアップ済み

前号の発行は12月だから、1ヶ月以上ぶり。週刊のはずなんだけどなぁ。
まあ、ここまでが前フリで次号からは士師それぞれを具体的にとりあげていくことになるからあまり考え込まずに執筆できるんじゃないかなぁ。

ヘロデ王について

2008-01-08 22:08:13 | 聖書
子供の頃から教会に行っていて、クリスマスには必ず福音書のクリスマス物語にふれてきた。そのせいか、ヘロデ王というと「悪役」「敵」というイメージが私の中にできあがっている。
けど、誰にとって敵なのだろう。ヘロデにとっては、新しく「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」は敵だろうけど、神にとってヘロデは敵なんだろうか。
天使が羊飼いに「すべての民」へのしらせと言ったその「すべて」に、ヘロデだろうと「こいつは除く」なんて但し書きがつくことがあるとは思えないのだけど。

そう、キリストはまさにヘロデ王のためにも世にきたのだ。
彼も今はおそらくは黄泉にいて、終わりの時に主の玉座の前に出て来るのだろう。黄泉でどのようにして福音に触れるのかは聖書にないことだからわからないけど、彼も含めて一人も滅びないことを願う神は、彼が黄泉に床をもうけてもそこにおられる。
でなくてどうして「ヘロデ以上に悪役」「ヘロデ以上に神の敵」でないとは決して言いえない私が御国に入れるだろう。
「み恵みを受けし罪人にすぎず」だ。彼と我との違いは、すでに受けたか、これから受けるかの違いでしかない。

年間聖句

2008-01-04 22:14:43 | 聖書
サイトのほうにも書いたことですが。

最近は毎年、個人的な年間聖句をかかげて心掛けるようにしているのだけど、今年は

「慰めよ、慰めよ、わが民を」とあなたがたの神である主は言われる。
(イザヤ書40章1)

を選びました。
左上の画像をダブルクリックすると、ヘブライ語で表示されます。

心掛けというよりも、年間の祈祷課題としてイスラエルのために祈ろうと思っています。

近年、特に教会で「日本の過ち」「日本がアジアと世界にしでかしたこと」が言われるたびに、「キリスト教徒の過ち」「キリスト教徒が世界とくに『神の民』イスラエルにしでかしたこと」はどうなんだ?と思ってきました。ただそれは、「私たち日本人」を三人称で、つまり自分も日本人でありながら「汝ら日本人」という態度でいる人たち、しかも自分たちキリスト教徒のことを棚に上げた話ししかしない人たちへの反発でしかありませんでした。
けれど実際にイスラエルのために祈り、活動している人たちもいる。少数だけど日本にもそういうクリスチャンがいる。そう知ったとき、「俺は何をしてるんだろ」と。「汝ら日本人」と言ってる日本人と同様に「汝らクリスチャン」と言ってるだけじゃないかと。

まず、イスラエルのために祈ろう。ユダヤ人の救いのために祈ろう。
彼らアブラハムの子孫によって諸国民が祝福に入るのだから、これは日本のためにとりなすことと同じでもあるし。
そして、ユダヤ人の王として来られる方が「王の王」となられるのだから、再臨の日のためにも彼らの回復を祈るべきと思うし。
しかもイスラエルを祝福する者は主から祝福されるという約束がついてくるし。
というわけで、今年はこれを意識していこうと思います。

ところで「選んだ」というのは、よりクリスチャン的にいうと「この御言葉が与えられた」なんだろうけど、この感覚はよくわからないので。
まあ、上に書いたようになんだかんだ考えてた時に目の前にこの聖句が書かれていたので、「示された」くらいは感じてるかも。

とりあえず祈っとけ(癒される条件について)

2007-12-20 20:43:07 | 聖書
「祈っても、癒されなかったらどうしよう」と思ってしまうと、祈れない。
でもよく聖書を読むと、聖霊の癒しのわざと、癒されたい本人の信仰とは、関係ない場合が少なくない。

たとえば、ヤイロの娘、ツロの女の娘、百人隊長のしもべなどは、本人の信仰ではなく親や上司の信仰の執り成しで癒された。
面白いのは異邦人ナアマン将軍で、預言者から「皮膚病をいやすにはヨルダン川で七回体を洗え」と言われ、「そんなことで治るもんか」とキレかけるが、妻から「そんなこと、と思うなら(ダメもとで)試してみたら」と言われ、おそらくは納得いかないまま勧めに従ったら治ってしまった。
ラザロの復活に至っては、周囲の誰も信じず当の本人は死んでいるのに、奇跡が行われた。

「この祈りはかなえられた」と信じて祈れば、神はかなえる。これはキリストの確かな宣言だ。信仰によって神の奇跡が起こされる。
しかし、人の信仰に関係なくても、神の栄光が表されるために奇跡が行われることもある。だったら、たとえ信じられない時でもとりあえず祈っとこうじゃないか。

新作オリジナル聖書劇を公開

2007-12-05 01:09:50 | 聖書
オリジナル聖書劇「天使たちのクリスマス」を公開しました。
www.nunochu.com/work/angels_hymn_2007.html

今年は、天使しかでてこないクリスマス劇です。

生まれてはじめての作曲にも挑戦しましたが、、、音楽の素養がある嫁さんが監修してくれて、なんとかなったという感じです。
作曲が必要になるようなことは二度とやりません。向いてません。才能ありません。身の程を知りました。

天地創造って

2007-11-05 19:54:02 | 聖書
日頃かなりお世話になっている堺福音教会東京チャペルのアルファウィークエンドに参加した。その時のことを書こうとしたら、blogで、しかも本名で公開するにしてはかなり私の内面にかかわる内容になったので、公開するのはやめておこうと思う。

ところでこのアルファウィークエンドの二泊三日のとき私は、牧師と、コースのコーディネータであるH兄と、3人部屋になった。それでちょっとした時間にいろいろ話ができて楽しかったのだけど、以下は牧師と、神の天地創造のわざについて話していたときのこと。
なぜそういう話になったのかはあまりおぼえていない。発展ということについてだっただろうか。たしか、私たち人間の音楽が発展してきたように、天使たちの賛美の音楽も発展しているのだろうかというような質問をしていたときのことだったように思う。とにかく雑談していたときに、牧師が「神が6日間で天地を創造し7日目に休まれたというのは、7日目からは、6日目までに定められた法則などにゆだねたということだ」というようなことを言われた。
地上や天上の音楽の発展も含めて、もちろん惑星の運行や、命あるものたちが命をはぐくみ続けていくことなども、神が6日目までに創造された事象の中にあり、創造のときにそれらを「よし」とされた神の御手の中に7日目以後もあるということなのだろう。

ん?これは、たとえば私が鉄道模型のレイアウトを作ったとしたらそれに似てるのでは?
つまり、こういうことだ。私は6日間かけて、大きなボードの上(もし家内が許可してくれるなら、家の一番広い部屋の床全体)に、レールを敷き、電源から配線し、風景を構築し、ストラクチャー(駅舎など)を配置し、そして車両をレールに乗せる。
ちょっと手の込んだことをして、コンピュータ制御で、車両が車庫から本線に出て行ったり戻ったり、ポイントが適切に切り替わったり、駅ごとに各駅停車が止まったり、特急や貨物列車は通過したり、夜(ということにした時間帯)には列車のライトや車内灯がともったりするようにする。
6日目に、すべてが計画していたとおりにできあがる。ボードの上のすべてのものに意味と役割があり、ひとつ残らずが重要であると同時に、全体として調和がある。私はできあがったものを喜ぶ。
そして7日目からは、私が定めたとおりにレイアウトの上が運行されていくのを私は喜ぶ。完成したときの喜びと満足は、この運行を見るたびに日々あらたにされる。「ここは、ああすればよかった」と後悔するところは何ひとつとしてない。
もちろん、模型が脱線したり、駅舎や町においた人形がたおれたり、どこかが破損したりしたら、私はこの世界に介入するだろう。

言うまでもなく、この比喩は完全なものではない。
たとえば、レイアウトの上での変化は劣化やアクシデントしか発生せず、しかもそれは私が計画しコントロールできるものではない。一方、神が創造した世界では、神の計画の中での発生や発展という変化もあの6日間のうちに組み込まれ、7日目からその計画の中で世界が運行されている。
また残念なことには、私が作った世界とその中のすべては、私にレスポンスすることはない。…と書きつつ「私の作品が私にレスポンスしたら」と想像したら、急に主を賛美したくなってきた。

イエスの救いも偉大

2007-10-27 18:49:14 | 聖書
以前から、神の偉大さを思えば思うほど、神は私にとって遠い存在になる一方だった。

悠久の昔から存在して天地万物を創造し、無限に広がる大宇宙を現に支配して星々を運行させているような存在が、この小さな銀河系の中の、小さな恒星系の中の、小さな惑星の表面にしがみついてしのいでる私ごとき存在と、どうして関わりがあるのだろうか、と。
「そんな神がこんな人類を愛し、一人残らず救いたい、取り戻したいと願っている」ということを、理解はしている。しかし感覚的にはそれを捉えきれていない。

幸い、この2月に、神の介入としか考えられないプロセスにより、取るに足りない症状が癒されるという経験をしたことで、
「坂井、君のこともちゃんと気にかけてるぞ。」
とは示された。がしかし、創造主との距離感は依然として私をしばしば打つ。

するとまた、これに対する回答が今週与えられた。アルファコース(キリスト教入門プログラム)でのことだ。
今週のテーマは祈るということだった。祈りを聞くのは、まさに上に書いたような偉大な存在であり、その存在に向かって「イエスの名」で祈ることだ。私にとっては、幼稚園で習ったこと、いや幼稚園に上がるより前から聞かされてきたことだ。
が、なぜか今週は、この聞き慣れた論理が胸の奥まで貫いた。

創造主は偉大だ。しかし、創造主が偉大であればあるほど、救い主も偉大なんだ。「つくりぬし」と「すくいぬし」は別個の存在じゃないんだら。つまり、創造の業が偉大であればあるほど、救いの業も偉大なんだ。
私がどんなに「神は遠すぎる」と思っても、イエスの十字架はその距離を常にぴったりと埋める。ハレルヤ!

相撲と女性知事と女系天皇問題

2005-11-18 12:46:39 | 聖書
大相撲で、確か大阪でのことだったでしょうか、表彰式の際に女性知事が土俵に上がることの是非について論争がありましたね。
賛成派は、男女同権などが論拠だったでしょうか。
反対派は、伝統性や、相撲自体が神事であることからの宗教性などを論拠としていたと思います。
かなり議論にはなったと思います。

女系天皇を認めるかどうかは、土俵に女性が上がるかどうかよりはるかに重要な問題です。

あえて言えば、相撲の土俵に女性を上げるかどうかは、相撲だけの話、というか、日本相撲協会というスポーツ団体の興行にかかわるだけの話です。
女系天皇を認めるかどうかは、日本のあり方にかかわる話、天皇を象徴とする憲法を持つ日本人全員にかかわる話です。

その割りに、あまり議論はされていません。
首相の私的な諮問機関、つまり「小泉純一郎という個人にとってのプライベートな相談役たち」は、女系天皇にすることを前提に(というかそれを目的に)、始めに結論ありきで集まっているだけで、そこには議論はありません。

変えようと思えば変えられる立場と力があったマッカーサーとGHQでさえ変えようとしなかった、逆にいえば「変えるべきでない」と判断したことが、数人の(しかも皇室や日本の文化についてはド素人の)人間たちの見解にそって変えられようとしているわけです。

今日、東京はJR中野駅ちかくのなかのZEROの大ホールで、皇室典範改悪阻止のための集会がもよおされるそうです。
私自身は仕事で行けそうにもありませんが、なんとかこの改悪法案の提出あるいは成立を阻止する方法を見つけ出してほしいです。

マルコ7章

2005-09-14 23:55:00 | 聖書
アルファコース第2回「新しい目的」に参加。

で、スモールグループ(学びの後のフリートークの時間)に、マルコ7章に出てくる異邦人女性の話しに。娘に憑いた悪霊を追い出してもらおうとイエスのところに行くと、イエスから「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 (神の民イスラエルのためにつかわされている自分が異邦人のために働くことは許されていない)と言われてしまう。けれど女が犬呼ばわりを受け止めて「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と答え、イエスからその信仰をよしとされて娘が助けられたという記事です。
この話題の時に北牧師から「イエス様は、この女性がそのように信仰を表明することをわかっていたのか、それとも女性の回答に心から驚いたか、どちらだと思う?」と。

さて難しい。
全知全能である神の位格としてのキリストは、時を越えて、女が答える前から、どのような答えがくるか知ることはできたはず。
けど、この場面でイエスは感動したと思いたいんだよなぁ。ローマ人隊長の信仰に驚かれた時のように。

というのは、以前にこの箇所についてうちの嫁さんから「どうして男性(男性牧師を含む)は、イエス様が女の信仰を試したみたいに解釈するんだろう。悪霊につかれた子供を持つ母親にイエス様がそんなことするだろうか」と言われて、私自身そのように読んでいたから驚いたということがあったから。嫁さんはさらに「この時点では、『イスラエルのために』というのが神様から遣わされたイエス様の職分だって言ってるわけでしょ」と。うん、そうなんだよな。

この場面はティルス(ツロ)での出来事だけど、マルコ3:8には「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」とある。
おそらくこの母親は、イエスを見てきた近所の人たちの話しを聞いただろう。そして「この人ならきっと娘を助けられる」と思ったことだろう。同時に「だけど、ティルスからガリラヤまで、こんな状態の娘を連れて旅をするのは無理だ」とも思っていたかもしれない。ところが、そのイエスがこのティルスまで来ているという。
「娘が助かるチャンスは今しかない。今を逃がしたりしたら!」というギリギリの状態でイエスのもとに来たはずだ。

これに対してイエスは、今はイスラエルのために遣わされているという「父」からの職分から逸脱することはできなかった。けれど同時に、イエスがこの母親を哀れまなかったはずがないと思う。だとすればイエスの最初の言葉には「信仰を表してくれ」という願いが込められていたんじゃないかな。
それは決して「試す」なんていうものじゃなかったと思う。むしろ、女がギリギリだったのと同じように、イエスもギリギリだったんじゃないだろうか。

そしてそんなイエスに、女は応えた。

その時イエスが「よくぞ、よくぞ答えてくれた」と感動しなかったとは思えない。
もし仮に、女がどう答えるかイエスが知っていたとしても、この感動に変わりはなかったと思う。

アフター・アルファ第1回

2005-09-07 23:55:00 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルで、アルファコースのアフタークラス「価値ある人生」の第1回、「新しい心」に参加。

今回、パウロたちが獄に入れられ鞭で打たれても信仰を捨てず神を賛美していた、という話しになって思ったこと。
もし迫害の時代になったら、根性なしの私なんかあっさり踏絵を踏むだろう。仮に自分自身に対する肉体的苦痛は耐えられたとしても、遠藤周作の「沈黙」のノリでたとえば迫害者が家族を人質に取ったりしたら、あっさり転びそうな気がする。
で、仮に私が棄教を表明したとすると、キリストが「人前で私を知らないという者を、私も父の前で知らないという」と言ったことにぶつかることになる。けれど私の中では、たとえばキリストに礼拝を捧げる行為をやめたとしても、それでキリストを信じる信仰をとめられるわけではない。そうすると私は、「主よ主よ」とキリストを呼ぶけれどもキリストからは「あなたを知らない」と言われるようになるわけだ。いわば片思いのように。

…そうなんだろうか。
キリストは、こういう弱さには目をとめてくださらないのだろうか。
聖霊をけがす以外の罪は赦される、ともキリストは言った。この言葉にすがりたい。

でも罪は赦されるとしても、棄教することは罪なのだろうか。
契約したままで契約書の条項に反することをすれば、契約違反となる。罪というのは契約違反のことだろう。聖霊をけがすという契約違反以外は赦される、とキリストは言ったわけだ。
けれど棄教することは契約を解除することだろう。としたら、罪が赦されるとか赦されないとか以前の問題になってしまうんじゃないだろうか。キリストが私を赦したいと思ったとしても、人前で(つまり公式に公開で)こちらからキリストとの関係を捨ててしまっている、ということになるんじゃないだろうか。

…よくわからない。今はただ、日本が迫害の時代になっていないことに感謝するだけ。
とはいえ、再臨は迫害のあとであると聖書に明確に書いてある以上、心から「マラナ・タ」(主よ、来てください)とは言えなくなるなぁ。