布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

私見:なぜクリスマスを祝うの?

2008-05-24 16:40:24 | 教会
ある方から、次のような質問をいただきました。
まず端的に言って、イースター・クリスマス・そして日曜礼拝と称する現在の多くの「キリスト教会」の「習慣?」は、そのどこに「聖書からの明白な根拠」があるのでしょうか。
(中略)
何の根拠もない人間的習慣を守るくらいだったら、まだ旧約聖書に明白な根拠のある「過ぎ越しの祭り」や「仮庵の祭り」を祝った方がはるかに論理的整合性があるのではないかと思えてなりません。


例によって以下は、坂井信生の個人的な考えですが。
イースターの日付、クリスマスの日付、そして日曜礼拝といったものに、聖書からの明白な根拠はありません。

復活祭つまり「キリストであるイエスが死からよみがえった日」は、聖書の記述どおりであれば、過ぎ越し祭の安息日の翌日となります。
ところで、キリスト教の考え方では「キリスト教はユダヤ教を完成したもの」と言えますし、だからユダヤ教はキリスト教の前身だとも言えるのですが、奇妙なことに現在「キリスト教の復活祭」は「ユダヤ教の過ぎ越し祭」の日付と連動していません。

もっと奇妙なのが聖霊降臨日です。
ペンテコステとも呼ばれますが、このギリシャ語は「50日目」の意味で「聖霊降臨」などという意味はなく、過ぎ越し祭から50日目(49日後)に来る「七週の祭り」の日を表しています。(「ペンテコステというのは聖霊降臨日のことで」などと説明されることがありますが、これは誤り。「ペンテコステの日に聖霊降臨があった」というべきです。)イースターが過ぎ越し祭と無関係に日付が決まるため、聖霊降臨日も「七週の祭り」とは無関係に日付が決まっています。なのに名称はユダヤ教的というか聖書的な「ペンテコステ(50日目の祭り)」のまま。しかし意味は「過ぎ越しから50日目」を「復活から50日目」に変更。換骨奪胎というやつでしょうか。

なぜキリスト教の復活祭とユダヤ教の過ぎ越し祭の日付がずれてしまったのか。どちらかが正しいのであれば、間違っているのはどちらなのか。
キリスト教の暦は5,6世紀に大きく変更されています。それまで使用していた、復活祭の日付を決定する「復活祭暦表」が怪しくなってきたために、ウィトクリウスが457年に改暦し、それも怪しいということで525年にエクシグウスが改暦しています。なお、現在のいわゆるグレゴリオ暦は、エクシグウスの改暦を改善したものです。この辺りのことは拙文「西暦の話し」も参照していただければと思います。
ウィトクリウス以前の「復活祭暦表」がどういうものだったのか、その時点で復活祭が過ぎ越し祭と連動していたのかは、興味あるのですがまだ調べていません。また、ユダヤ教の暦が連綿と続いてきたものであるのかも調べていませんが、少なくともキリスト教の暦は途中で意図的に変更されているのは事実です。

次にクリスマスですが、まず12月25日(24日の日没~25日の日没)という日付自体が異教の風習です。これはキリスト教徒でなくても雑学ファンや薀蓄ファンなら知っているというくらいですが、キリスト教が欧州に伝わったのちに、地元の宗教の冬至祭と習合したものと言われています。
そもそも、聖書の記録によれば、キリストであるイエスがこの世に生まれた時には羊飼いたちが野宿していたとありますが、いくらイスラエルでも羊飼いは冬には野宿しません。「イスラエル→中東→暑そう→一年中でも野宿できそう」という連想かもしれませんが、内陸の荒野では夏でも昼夜の寒暖の差が激しいし、ましてイスラエルでも冬には雪が降るのです。ということで、「クリスマス」は少なくとも冬ではなかっただろうと思われます。

このように、聖書を基準にすると「復活祭は日付が怪しい(過ぎ越し祭とずれすぎていて、しかも復活祭の日付のほうがうさんくさい)」「クリスマスの日付はまったくでたらめ」ということになります。しかしこのことは、「キリストの復活という事実」「キリストの受肉(神であるキリストが肉体を持って世に生まれたことを指すキリスト教用語)という事実」には何の影響もありません。
私の考えでは、キリストの復活もキリストの受肉も「聖書からの明白な根拠」があり、ただその日付が今はおかしくなっているだけだと思います。


不孝なたとえになりますが、坂井信生が拾われっ子で実は本当の誕生日もわからないとします。しかし、仮に私の誕生日がわからないとしても、私という人間がこの世に生まれていることには何の影響もありません。
誕生日がわからない、記念してもらえる日が実は違う、ということは、誕生したという事実とは関係がないのです。同様に、「イエスが生まれた日」がわからないということは、「救い主が世に臨まれた」という事実をゆるがすものではありません。
なお、Christmasとは「キリスト礼拝」の意味であって「キリスト誕生日」の意味ではありません。

もしかすると、記念するということは「記念される人や物事」にとってよりもむしろ「記念する側の人」にとって意味があることなのかもしれません。(「記念される人」にとってだけ大事なら、たとえば脳死状態の人の誕生日を祝うことは愚かなことです。命日に故人を思うというのも滑稽です。)

以上のように考えるなら、日付の根拠がないということでは「主の復活」「主の初臨」を記念するのがおかしいということにはならないと思います。そしてこれらは、聖書に記念せよと書いてあるから記念するのではなく、主を思うゆえに記念したいから記念しているのだと思います。親を慕う子が親の誕生日に祝福するように、主を愛する者が主の来られた日を記念するのはおかしいことではないと私は思うのです。(これは日曜礼拝についても同様なのですが、長くなりますので日曜礼拝については稿を改めます。)

なお、教会の子供たちには、たとえばクリスマスは「イエス様の誕生日」ではなくて「イエス様の誕生を記念する日」なんだよと話すようにしています。そのほうが正確であるということに加えて、将来「クリスマスは12月25日ではない」ということを知ったときにつまづかないでほしいからという理由もあります。

質問されたとおり、クリスマスやイースターはまさに「習慣」です。
ですが、これは「重要な、自主的な習慣」なのです。

では過ぎ越し祭りなどの聖書の祭りはどうなのかですが、それらも大事にするべきだと坂井は考えます。
私の知る教会の多くは(といっても数はそんなにありませんが)、旧約の祭りに無関心です。これは「神がイスラエルに与えた契約と祝福は、イスラエルの罪のゆえに取り上げられ、教会に与えられた。」というキリスト教の誤った考えにより、教会がユダヤ人迫害の先頭に立ち、ユダヤ教を迫害してきた過ちが残っているものだと思います。これについては、カトリックでは(少なくともトップの方針としては)先代教皇の頃からユダヤに向き合おうとし始めているようです。一方プロテスタントでは、ユダヤ人伝道を真剣に考えている人々もいますがそれはむしろ例外です。坂井はカルヴァンの「キリスト教綱要」も未読な不勉強者ですが、カルヴァンもが「律法はキリストにおいて廃棄された」と書いたとか、ルターは反ユダヤ主義だったと聞いたことがありますので、どうも「宗教改革以来の伝統」があるようです。

「イスラエルに与えられたものは、取り上げられて教会に与えられている」などということはもちろん聖書に書かれていません。私たち異邦人は「神のイスラエルへの恵み」に接ぎ木してもらっただけです。また、私の体験的なこととして、「旧約がわからないと新約はわからない」ということはあります。「旧約の祭り」を経験することは「御言葉を経験する」ことだとも思います。
というわけで、たとえばイースターには、過ぎ越し祭についても子供たちに伝えるようにしています。
ヨハネ福音書10章22に出てくる神殿奉献祭(ハヌカ祭)についても、ユダヤ暦そって子供たちに伝えています。ハヌカ祭は外典(新共同訳でいう旧約続編)のマカバイ記に由来するものですが、福音書に記録されていることから、イエスと弟子たちをはじめ1世紀のユダヤ人キリスト者もこの祭りを祝ったであろうと思うからです。
過ぎ越し祭や仮庵祭りも同様に、イエスと弟子たちもユダヤ人キリスト者たちも祝っていたはずですが、私の出席教会では今のところこれらを祝うことはしていません。これは恥ずかしながら担当している私自身の不勉強によるもので、前々から意識してはいるのですが、今は「スカ(仮庵)の建て方」「過ぎ越し祭の食卓のレシピ」などを調べている段階です。
「過ぎ越しや仮庵を祝うほうが論理的に整合」という考え方をしたことはありませんでしたが、確かにそうだと思います。

私たちの教会では他にも、エステル記9章19に由来するプリム祭も子供たちに伝えています。エステル記は確かに神のわざが働いた記録ですが、「神」「主」といった言葉は出てきませんね。これは、これは神が見えない時代にあってしかし神に守られているということを伝えるよきテキストだと思います。

これらの理由に加えて、担当奉仕者としてはこうしたことをとおして子供たちに「神の民イスラエル」を知ってほしいと願っています。
なぜなら、イスラエルは神の民、祭司の民族だからです。
「キリスト教は外国の宗教」と考える人が多いこの国で、「ぼくたち日本人も他の諸民族と一緒に、アブラハムの子孫によって神様の祝福に入れていただけるんだよ」ということを知ってほしいからです。
キリストは初臨においては、はじめから最後まで「ユダヤ人の王」だったからです。イエス誕生の折りには東方の賢者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を礼拝し、「ユダヤ人の王」と記された罪状書きの下で苦難を受けられました。

仮にイスラエルが捨てられるとするなら、神の民というオリーブに接ぎ木されたにすぎない異邦人教会などはもっと簡単に捨てられてしまうでしょう。けれど、あれほど神にそむき続けたイスラエルさえも神は捨てないということこそが、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」というローマ書11章29の証拠であり、私たち異邦人にとっての希望なのだと思うのです。

すみません、ちょっと熱くなりました。
ここで私が「教会でやっている」と書いたこと「教会の子供たちにお話している」と書いたことは、公式には教会でコンセンサスがあるというものではなく、「担当奉仕者である坂井が勝手にやっている」というものです。が、今のところ異論は出ていませんので少なくとも暗黙のうちに了解されているようですし、むしろ興味を持たれ始めているようにも感じています。