布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

大井バプテスト教会・祈祷会

2006-08-02 22:58:40 | 教会
以前から、仕事でどこかに行くときには、そのあたりで平日夜に聖書の学び会や祈祷会がある教会がないか探すようにしている。
(という者もいるので、まだホームページを開設していない教会はぜひ、連絡先・地図・礼拝や集会の半内のページだけでもいいから開設してほしいと思っている)
で、今日は大井バプテスト教会に行ってみた。普段お世話になっている千葉バプテスト教会と同じグループであるらしい。

行ってみて、驚いた。で、でかい!日曜日には第一礼拝、第二礼拝、夕礼拝があるとホームページに書いてあったからそれなりの規模だろうとは思ったけど、案内されて礼拝堂に入るとこれがまた立派な。礼拝堂のわきに掲示されている先週・今週の礼拝出席者数も、桁がひとつ違う。祈祷会後に「最近は祈祷会も出席者が少なくなって」と言われたけど、千葉教会の主日礼拝の出席者数くらいはいたぞ。

祈祷会の形式は、牧師による聖書のメッセージと、祈祷課題の共有のあと数人ずつにわかれての祈りの時がある、普通のタイプ。賛美ははじめと終わりに一曲ずつ。献金の時があるのが、祈祷会としては珍しいかも。いずれも坂井の経験の中での話しだけど。

で、大谷牧師のメッセージがすごかった。

次の日曜が第一で「主の晩餐式」(聖餐式)があるからということで、ヨハネ福音書6章26~59が読まれた。イエスの「わが肉を食え、わが血を飲め」という言葉に、ユダヤ人たちが[互いに激しく議論]し、最終的には[弟子たちの多くが離れ去り]、12使徒(とおそらくは少数の弟子たち)だけが残るという場面だ。

個人的には、ユダヤ人たちが最初は議論を始めたというのが、なんとかイエスの言葉を理解しようとがんばった様子がうかがえて興味深い。がしかし、彼らは、大谷牧師の表現を使えばイエスの言葉の「真髄」を突きつけられて、ついに理解できなかった。「この真髄を前に、人間の理解ではもはや離れるしかない」のだと。
いや、この2000年というもの教会はこの真髄を理解できていない、再臨のときまで「主の晩餐」についての議論は終わることがないだろう、と大谷牧師は語る。そして「考えなければいけない、釈義しなければならないのだが、もうこのまま信じるしかない」と。
考えること、釈義することを放棄しての妄信ではなく、議論した弟子たちのように努力しながら、しかし弟子たちのように頭を抱えて離れ去るのではなく12人のように信じるということか。

もうひとつ驚いたのが、[わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。]というところから、Peace Makerつまり平和を作り出す者としての教会についても語られたこと。
教会が社会に向かって平和をつくりだそうとするのはよいとして、教会は教会の中に向かって平和を作り出しているのか、と。「私は決して追い出さない」を、教会はキリストの体として実践できるのだろうかと。

これ自体、重要なテーマだけど、大谷牧師は教会と戦争との関わりについて興味深い点を指摘した。たとえば米国の南北戦争のとき、バプテストは北軍でも南軍でももっともよく戦ったといわれているそうだ。
そういうことを、主日礼拝ではないとはいえ教会の公式の集会で聖書の説き明かしの中で牧師が語るのは、私は聞いたことがない。
常々、たとえば日本の教会が60年前の戦争について「天皇の名の下で行われた侵略」などと言うとき、私は「キリストの名の下で行われた侵略」から目をそらしているとしか思えない。あの戦争が侵略だったとしても(というのは坂井は「侵略は少なくとも目的ではなかった」と考えるからだが)、キリストの名の下での侵略は規模的にも歴史的にも犠牲者数も比較にならないというのは現実だ。「天皇の名で侵略が行われたのだから、日本は天皇を捨てるべきだ」というなら、キリストと聖書とを捨てるほうが先ということになってしまう。
しかし大谷牧師は、キリスト教が(キリストの福音がではない)歩んできた道をちゃんと見据えているように思われた。事実を事実として見据えた上で、内にも外にも平和を作り出す教会というものについて考えておられる。
感動してしまった。