布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

聖書の音楽史

2005-03-30 23:01:11 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルの水曜集会は、3回シリーズの「聖書の音楽史」の最終回として、新約聖書の音楽史。

・新約聖書では、音楽についての言及はほとんどない。
・ただ、イエスも弟子たちも賛美を歌ったことは、マタイ福音書26:30に記録されている。
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

・捕囚以降、神殿での(祭司主導の)礼拝と、シナゴーグ=集会での(信徒主導の)礼拝が両輪となっていって、イエスや弟子たちも神殿に詣でる一方で、安息日には会堂に入ったことが記録されている。
・イエスと弟子たちが賛美を歌ったのも、シナゴーグでの礼拝様式とあまり違わないスタイルの中での賛美だろう。

・一方、パウロはコロサイ書3:16で、神に向かって歌うべきだと教えている。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

・この中で、詩、賛美、霊の歌とは以下のようになる。
詩篇、つまり(旧約)聖書の中に記されている賛美を指す
賛美実際に歌われている賛美。たとえば使徒16:25でパウロとシラスが歌ったような。
霊の歌聖霊がうながすままに内面からあふれ出る賛美


さて。

初代教会時代に聖書といえば旧約聖書のことだったけど、現代から見れば新約聖書の中の詩(たとえばマリアの賛歌など)も「詩」に入るのだろう。

現に歌われている「賛美」とは、旧賛美歌、賛美歌21、聖歌、こどもさんびかなどはもちろん、歌声運動も懐かしいゴスペルフォーク、「天使にラブソングを」なブラックゴスペル、ミクタムなワーシップソング、などなど、神を賛美して歌われるすべての歌による賛美だろう。

「霊の歌」は、まず異言で歌う賛美がそれで、福音派育ちの坂井には、いまだに異言というのがよくわかっていないので難しいのだけど、市原シャローム教会いのちの泉キリスト教会でも異言で賛美する兄姉を見てきたし、東京チャペルでも今日あった。


ただ、聖霊によって歌があふれるということでは、異言に限らないと思う。
だって、バッハやモーツァルトに、聖霊の働きはなかったとは言えないだろう。
山内修一や小坂忠が、聖霊の導きで歌を紡いでいるのではない、とは言えないだろう。
本田路津子森祐理やレーナ・マリアの唇に聖霊が触れていない、とも言えないだろう。
(異言による賛美を否定してるんじゃなくてね。「異言ばかりだと(自分の信仰にはよくても)周りがドン引きするよ」と書いたパウロだから、異言だけにフォーカスして「霊の歌」と言ったわけじゃないだろうなと。)

ところで、「詩と賛美と霊の歌と」には、「過去・現在・未来」という構図もあるんじゃないかと思った。つまり、
、旧新約聖書の時代に歌われていた賛美
賛美現在、私たちが実際に歌っている賛美
霊の歌聖霊の導きによって今もこれからもあふれ出す賛美

というように。

としたら、「伝統賛美orワーシップ」ではなく「伝統賛美andワーシップ」が聖書の答えになるのかなと。
あまりいないと思うけど、もしワーシップ好きなクリスチャンが「旧来の賛美歌は古臭くて、とても心をこめた賛美はできない」と思っているとしたら、「でも、もっと古い詩篇は読むでしょ?」と答えよう。
時々いるような気がするけど、もしワーシップに否定的なクリスチャンが「『新しい歌を主に向かって』と言っても、新しきゃいいってもんじゃない」と思っているとしたら、「でも伝統的な賛美歌も、初めて歌われた時には革新的な『新しい歌』だったんじゃないの?」と答えよう。

それに、新しいものといっても100%新しいということはない。必ずそれまでの潮流があって、その上に新しいものがうまれてくる。だから、古さが新しかったり、新しいと思ったものが実は昔もあったものだったりする。

たとえばロックもラップもポエトリー・リーディングも、伝統的な賛美歌より新しい音楽だろう。

ところが、詩篇の詩人はロックのようにシャウトして賛美した。
ヘブライ詩はビートも音程も自由でアクセントの強弱で歌うというラップそのものな形態だったそうだ。というかヘブライ詩は、ラップにつきもののライムからも自由なのだそうだ(音で韻を踏む代わりに、歌詞の意味で韻を踏む「平行法」というスタイルがあるのだそうだ)
ポエトリー・リーディングなんてそれこそ、中世以来のいわゆるチャントそのままなんじゃないだろうか。

「新しい音楽を、新しい表現を」と進んできたはずが、実は昔に帰っただけだったりするわけだ。


※ 聖書の引用は新改訳より。

キセル

2005-03-29 23:25:16 | 日記
参入しているプロジェクトで送別会。
お開き後に店の外でみんなを待ちながら、煙管で一服していたら、通りかかった外人さんから「タバコデスカァ?」と声をかけられた。
「タバコデェス」と答えたけど、「ジャパニーズ トラディショナル スタイル」とか言ってやればよかったかな。

「ハレルヤ」という言葉

2005-03-28 23:58:24 | 教会
「ハレルヤ」という言葉は、「アーメン」とともに、世界中どこへ行ってもそのまま使われる言葉なのだそうだ。日本へ行っても韓国へいっても、現地の言葉に翻訳されるのではなく、多少の発音やイントネーションの違いはあるもののヘブライ語のまま(アラム語ではない。)使われている。

そのハレルヤの意味だが、これは「神をほめたたえよ」とか「主をほめたたえよ」の意味であると説明される。語源として、「ハーレール」が「たたえよ」で、「ヤ」が「神、主」であるという説明だ。
父なる神に対してはもちろんのこと、キリスト教ではイエス・キリストは神であるとしているので、キリストに対してもハレルヤというし、聖霊に対してもハレルヤと言う。

がしかし、ハレルヤの「ヤ」は、父なる神の名ヤハウェ(あるいはヤーウェ)の短縮形だ。いわゆる聖四文字(テトラグラマトン:英字アルファベットのYHWHに相当)の正確な読み方は完全には解明されていないが、先頭が「ヤ」であるらしいことは、聖書の人名からも分かる。たとえば預言者エリヤは「エル(神)」+「YHWH」で、「ヤハウェこそ神」という意味の名前だ。

何が言いたいかというと、ハレルヤは「神をほめたたえよ」ではなく「ヤハウェをほめたたえよ」という意味だということだ。「神をほめたたえよ」なら「ハレルエル」になってしまうだろう(ヘブライ語の単語として正しいかはわからないが)

三位一体というのは「唯一である神は同時に、ヤハウェとキリストと聖霊である」ということだ。
「キリストが神である」とは、「キリストは、ヤハウェがエルであるのとまったく同じ意味でキリストもエルである」という意味だろう。
「キリストが主である」とは、「ヤハウェがアドナイ(ヘブライ語で「主」)であるのとまったく同じ意味で、キリストもキュリオス(ギリシャ語で「主」)だ」という意味だろう。
ヤハウェとキリストと聖霊は混同されるものではなく、それぞれが独立した人格(ペルソナ)を持ちながら、しかし唯一の神であるというのが、聖書から導かれる三位一体であるはずだ。

とすれば、主キリストや聖霊を賛美するつもりで「ハレルヤ(ヤハウェをほめたたえよ)」というのはどう考えてもおかしいんじゃないだろうか。

これはキリスト教が、ヤハウェという神名を隠してしまったことからくる誤りだろうと思う。

ユダヤ教では、主の名を「みだりに」口にしてはならないという戒律を厳守し、聖書にYHWHと書いてあるところを読む際には「アドナイ(主)」と読んだという。
「それは極端であって、十戒が禁じたのはあくまでも『みだりに口にすること』だけだ」と、十戒の講解のたびに聞かされはしないだろうか。しかし現在の邦訳聖書は、底本に聖四文字が書かれているところを「主」としている。みずからが「極端だ」とするユダヤ教と同じことをしているのだ。

口語訳以降の邦訳聖書が、文語訳で「エホバ」と「表記」していた聖四文字を「主」と「翻訳」してしまっていることに、坂井は常々不満があった。
主の祈りでも「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように」と祈りながら、しかしその御名を口にしないのだ。それであがめていることになるのだろうかと。

現代の邦訳聖書が読者から「父」の「御名」をとりあげていることは、たとえばルツ記2:4を見ればわかる。まず文語訳でみてみよう。

時にボアズ、ベテレヘムより来たり、その刈者等(かるものども=農夫)に言ふ。「ねがはくは、エホバ、汝等とともに在せ(いませ)」と。
彼等すなはち答へて「ねがはくは、エホバ、汝を祝み給へ(めぐみたまえ)」という。
(句読点、カギかっこ、改行を補った)

これが新共同訳では次のようになっている。

ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。

エホバは誤読であるとされているが、少なくともここで農場主と農夫が普通に神名を口にして挨拶している。祝福を祈る際に神名を口にすることは、絶対に「みだりに」ではないだろう。


キリストによって贖われた者は、地上での父親を呼ぶように、天の父を呼んでいいはずだ。
キリストなどはヤハウェを「アバ」と呼んでいる。「アバ」は父親の愛称であって日本語なら「おとうちゃん」などにあたるという説明を受けるが、これは成人男性が父親を呼ぶときに使うという話しもあり、であれば日本語なら「親父」あたりに相当するだろう(オヤジではない)。
キリストはヤハウェを「親父」と呼んだのだが、キリストによって贖われた者もヤハウェを「親父」と呼んでいいのではないか。それほどの近しさが、贖われた者とヤハウェのあいだには許されているのではないか。

にもかかわらず、「名」で呼ぶことをタブー視し、「主」という称号、あるいは「神」という役職名で呼ばせる(読ませる)というのはどういうことだろうか。

「ヤハウェ」という名を取り上げ「主」「神」と呼ばせているから、ハレルヤも「神/主をたたえよ」になる。で、キリストも神であり主なのだからということで、キリストを賛美するときにもハレルヤと言う。
どう考えてもおかしい。

ヨハネ福音書15章

2005-03-28 21:05:57 | 聖書
渋谷バプテスト教会の国際朝祷会に初参加。
たまたまホームページを見つけて、月曜朝7:30-9:00にやっているというので、6:00前の電車に間に合うように早起きして家を出た。(いつもより1時間はやいのに朝食と弁当を作ってくれた嫁さんに感謝)
中野教会でも水曜朝に祈祷会をやっているのだけど、6:30からなので始発に乗っても間に合わない。

着いてみると、聖書箇所はヨハネ15章の前半、キリストがぶどうの木であって私たちは枝であり、キリストにつながっていれば豊かに実を結ぶというところ。今朝の解き明かしは画家のE兄で、美術史も交えながらの興味深い話しだった(昔は天を目指すモチーフが一般的だったのが、近代では神を無視する構図がほとんどなのだとか)

それにしても、「キリストにつながっていれば」とわかっていて、なぜ逆のことをしてしまうのか。
キリストにつながっていたいとは思う。けれど「今だけ」「ちょっとだけ」という迷いが来る。

私の弱さ、愚かさを、主が覆ってくださるように。

長患いを癒されたあの女のように、イエスの衣の背にでもつながっていたい。
イエスの衣の裾の、房の糸の一本だけでも握りしめていたい。

洗足木曜日 ヨハネ福音書13章1~20

2005-03-24 14:56:24 | 聖書
洗足木曜日記念聖餐式。
洗足木曜とは、イエスが十字架にかけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の際に、主であるイエスが弟子たちの足を洗い、「あなたがたも互いに仕えなさい」と教えた夜のこと。
多くの(たぶんほとんどの)教会で、最後の晩餐を記念して聖餐式がおこなわれる。
久しぶりに中野教会で培餐に与ることができた。

説教の中で注意を引いたのが、すでに体が清い者は足だけ洗えばよいというところ。救われても、罪から離れて生きるのは難しい。しかし、ひとたび救われた者はすでに全身が清くされているのだから、すべてを主の血であがなわれているのだから、足だけを洗えばよい、主は私の足を洗い続けてくださっている。

アーメン。

しかし、主が今日も私の足を洗いつづけてくださるからといって、だから罪を犯しても大丈夫というわけではない。
足を洗うのは奴隷の仕事だった。主が足を洗い続けてくださっていることに感謝しつつも、それは主を奴隷におとしめたままにしているということだ。

口で「愛する主よ」と祈りながら、罪を犯すたびにその主に奴隷の仕事をさせているとしたら。
イエスが足を洗おうとしたときに、ペトロが拒否しようとしたのは、あまりに恐れ多かったからだろう。

君が代強制問題

2005-03-24 13:14:08 | 日本
東京都教育委員会は、今春の卒業式で君が代斉唱時に起立しなかった都立高校教員ら約50人を懲戒処分(去年から2年連続の者は減給、その他は戒告らしい)にする方針を決めたそうだ。

公立学校の職員が国歌を歌うのは当然だと、私は思う。
がしかし、強制はしないでいただきたい。
この前の園遊会でも教育委員が天皇陛下から、強制ということでないほうがよい旨を直々に言われたでしょ。

国民として、東京都教育委員会と都知事に言いたい。
「強制されなきゃならないような者に歌わせないでください。
そんな連中に歌わせるのはもったいないです。
そんな連中に歌われたら、国歌の方で迷惑だと思いませんか。
国歌は、国歌を心から歌いたい者だけに歌わせてくさい。
歌いたくない者には退出してもらってください。」


国旗国歌法なんてつくらなくても、日本の国旗は日章旗以外ありえなかったし、日本の国歌は君が代以外ありえなかったんだよなぁ。
なのに無理やりに国旗国歌法を成立させたことは、かえって日章旗と君が代にケチをつけるものだったと思う。

春分の日

2005-03-21 15:38:02 | 教会
春分の日は、祝日法において、「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」とされている。
クリスチャンがたたえるのは自然を創造した方なのだが、創造者をさしおいて、被造物にすぎない自然をたたえよと、法律で決められているのだ。

日本のクリスチャンはこの点について何も言わないのか?

ついでに言うと、「建国記念の日は、戦前の紀元節が名前を変えただけで、紀元節とは天皇を神々の子孫として神格化するものだから、クリスチャンは祝うべきでない」という意見がある。
そういう人たちは、「春分の日は春季皇霊祭が名前を変えただけだ」と考えているのだろうか。

歴史の一時期に神扱いされたことがあったとはいえ、天皇は常に祈る者、祭司、人間だった。
ところが、「皇霊祭」とは歴代の天皇を神としてまつるもののようだ。昔は天皇や皇族ごとに皇霊祭があったらしいが、それが(おそらくお彼岸の皇室バージョンとして)春季皇霊祭と秋季皇霊祭(現在の秋分の日)にまとめられたものらしい。
(WEBで拾った断片的な情報から推測するとそうなるが、皇霊祭についてのまとまったページを見つけていないので「らしい」としか言えない)
要するに、生きている間は祀る方(人間)だが、亡くなると祀られる方(神)になるという、日本人によくある死後観と同じものがあるようだ。

いずれにせよ春分の日と秋分の日は、戦中までは「(亡くなった)天皇を神として祀る日」だったのが名前を変えただけだが、このあたりについてとやかく言うクリスチャンは見かけたことがない気がする。
なので私には、建国記念の日だけ「問題だ」と言うクリスチャンは、そこに問題があるからというより「問題視したいから問題視している」ように見えてしかたない。

ベルツの日記(上)

2005-03-17 23:32:57 | 読書
明治時代に長く滞日したドイツ人医師ベルツの日記。
上巻は来日から、日露戦争直前まで。

上は交友のあった皇族や政治家から、下は巷の様子まで、また新聞報道や列強の動向も記録されていて、当時の日本の「空気」がリアルにわかる。


祝、島根県議会で「竹島の日」条例成立

2005-03-16 23:30:29 | 日本
島根県議会で「竹島の日」制定条例案が可決された。全文は以下の通り。

第1条 県民、市町村及び県が一体となって、竹島の領土権の早期確立を目指した運動を推進し、竹島問題についての国民世論の啓発を図るため、竹島の日を定める。

第2条 竹島の日は、2月22日とする。

第3条 県は、竹島の日の趣旨にふさわしい取り組みを推進するため、必要な施策を講ずるよう努めるものとする。


「平和的解決を」と訴える県民や国民もあるが、この条文のどこにも「平和的でない手段によって」とは書いていない。もとより平和的でない解決など県議連も含めて誰も望んでいないはずで、この条文は平和的解決のためのものともいえる。
条文上、この条例が「平和的解決を阻害する」というのはつまり「必要な施策を講ずるよう努める」こと自体に反対しているわけだ。もっとも、この条例を問題視する人の中には、条文も読んでいない人も少なくないだろうと思うけれど。

MSNによれば、韓国の潘基文外交通商相は「領土問題は韓日関係よりも上の概念」と言ったという。しかり。領土問題とはつまり両国それぞれの主権のおよぶ範囲の問題だから、これを脇においての両国関係などというものはありえないわけで、これは北方領土問題に関する日露関係も同様だろう。

拉致問題にしても北方領土問題にしても「平和的解決を」と言いつづけて何も解決していない。
「だから武力解決を」というのではない。しかし平和的解決というのは、なしくずしに相手の言いなりになったり、関係者の高齢化を待つことではないはずだし、その方が暴力的とさえ言えるだろう。

1952年に韓国軍が竹島に上陸してから半世紀以上。「36年(実際には34年半)のあいだ日本に主権を踏みつけられた」と訴えつづける韓国だが、自分たちが同じことをするのは平気だというのは不可思議だ。自分たちは徴兵制を敷いておいてベトナム戦争にも出兵しておきながら、日本の一地方自治体が「がんばろう」と宣言しただけの条例に「軍国主義的」と言ってくるお国柄だ。まさにお国柄としかいいようがないか。

サランヘヨ

2005-03-16 20:13:24 | ニュース
「ヨン様」以外にも「冬ソナ」出演者が来日したというニュースで、あちこちで「サランヘヨ」の大合唱。


愛してる 愛してる 愛してる
誰もがたやすく口にする

とモトハルが歌ったのは80年代の終わりごろだったか。
「愛」という言葉に何か高尚なニュアンスを求めるほうが時代遅れになっている日本。

それに比べれば儒教なところがまだ残っていそうな国から来た人たちは、女性から、しかも見るからに既婚と思われる女性から「サランヘヨ~」の大合唱を浴びせかけられることを、どう感じているのだろう。
彼ら(来日した役者)くらいの世代なら、あまり変わらないのだろうか。

踏み切り事故

2005-03-16 07:11:41 | 日記
昨日、東武鉄道の踏み切りで事故があった。

信じられないことに遮断機があがったから踏み切りを渡りはじめたら、電車が来て撥ねられたのだという。

なぜそんなことが起こりえるのかと思ったら、この踏み切りは係員が手動で開閉しているのだそうだ。これも信じられない。

係員は業務上過失ということで逮捕された。本人も反省の弁を述べていて、責任を認めているようだ。
がしかし、踏み切りを渡ろうとする大勢の人や車の安全を、一人の人間の判断だけにまかせていたのが、そもそもの問題だろう。安全のためのロックの仕組みがあっても、係員が自分の判断で解除できてしまうなら、ないのと同じだ。
係員個人の業務上過失ではなく、法人としての東武鉄道の業務上過失だ。

千葉県知事選挙

2005-03-14 06:41:57 | 日本
現職の堂本候補が当選したそうだ。次点の森田候補とはたった6086票差だったとか。
とりあえず、有効投票の過半数は、現職に「No.」と言ったわけだ。
が、私も含めて棄権した有権者56.72%は現職に異議無しと言ったことになるわけで。

「どの候補にも当選させたくない」と思っていたけど、こうなってみると「だったら変化を」と考えるべきだったかも。
とはいえ、負けたのに悔しがるでもなく「むしろすっきりした気持ちだ」という、まるでスポーツの試合でもやってきたかのようなコメントの森田候補。彼に投票した954,039人の有権者は、今ごろどう思っているのだろう。

しかし、公明党本部の幹部の「うちが(堂本氏を)やっていなければ負けていたな。(国政への影響は)ないと思う」というコメントをMSNが伝えていたが、またキャスティングボートを握ったつもりかな。

神の国と神の義を

2005-03-13 18:30:00 | 教会
千葉バプテスト教会に出席、このところ名誉牧師やゲストスピーカーの説教が3週間続いたので、調牧師の説教は久しぶり。
具体的にどこがどうというのではないのだけれど、なんか、いい説教だった。平安というか、なぐさめというか、なんだろうな。「がんばりすぎなくてもいいんだよな」という感じ。いや、それほどがんばってたわけでもないのだけど。
時々「今日のメッセージは、私だけのために語られた」って感じることがあるけど、今日はそんな感じでした。

本題はそんな感じとして、枕ではサタンの扱いの難しさについて触れておられた。アルファコースでニッキー・ガンベルも言ってたけど、サタンに無関心になればそれは無防備ということにもなるし、サタンを恐れすぎてもいけないわけで。
ただ私が思うには、サタンに触れなさ過ぎるほうが弊害が大きいような気がする。サタンがわからないと罪がわからないし、罪がわからないと救いもキリストの十字架もわからなくなるわけで。

教会立幼稚園で節分をやることの是非もあるけど、私はやればいいと思う。ただしそれは聖書的なものにアレンジして。
「罪は外、救いは内」でもいいし。
「サタンは外、マラナ・タ(主よ来たりませ)」でも・・・あいや、これはわからなくなるか。

キリスト教の伝道の歴史って、宣教地での文化との融合の歴史(ただし福音としての芯をはずさない範囲で)だと思う。
クリスマスツリーだってドイツの土着宗教から取り入れたものだし、イースターという言葉自体が異教から取り入れたものだし、多くの教会でも、七五三の頃に幼児祝福式なんてやってるわけだし。
たとえば、滝をさかのぼった鯉が龍になるという伝説から生まれた「鯉のぼり」だって、「龍はサタンの象徴だ」なんて言うよりも「艱難は忍耐を生み・・・」とやるほうがよっぽどいいと思うわけ。


今日は子供メッセージを担当。「聖書教育」の教案は範囲がJOH18:1-27と広すぎて、しかも主題が「苦しみを引き受けるイエスさま」とかなり難解というか高度な内容。
自分なりに考えてはみたがまとまらず、ペテロの否認を中心に「主の受難は私たちの弱さを覆うため」という(教案誌からやや乖離した)筋にした。

嫁さんのみならず、今週も千葉教会に出席した弟からも「声が聞こえねぇ」とダメ出し。(嫁さんからは「先週よりはマシ」と言われたが)。
礼拝堂の音響のせいか、自分では十分に声が出ているつもりになってしまうのかもしれない。

千葉県知事選挙

2005-03-11 20:07:54 | 日本
千葉県知事選挙がこの週末にある。一票を持つ県民として、これからの県民生活と、我が子の時代のために、次の県政を誰にゆだねるべきか。

現職の堂本暁子は、初当選のときは無党派層やら草の根運動やらに人気があったが、これまでの「実績」を見ると「こいつにまかせたら、悪くなることはあっても良くなることはない。」としか思えない。さっさと退場してほしい。
「上の世代が作った借金を返さなきゃいけない次の世代が元気である県」みたいなことを自身のメールマガジンで書くようなやつ(いつ頃の号か忘れたが、借金を作った世代の責任の言及もなしにこんなことを書いてきたので、反論を返信したのを覚えている)には、絶対に落選してほしい。

山田安太郎については何も知らないが、私は共産主義と社会主義には絶対反対なので、「日本共産党推薦、新社会党県本部支持」の候補者には絶対に落選してほしい。
新社会党は、社会党(現・社民党)よりは主張はマシだが、それでも左翼政党であることに変わりはない。まして共産党も加わってはね。
(それにしても、昔は「まともなことを主張しているのは共産党くらいだ」と考えていたのだから、私も成長したものだ)

となると残るのは森田健作か。
この人はそういえば、国会でのなんかの票決で、議場を出るなり泣きながらカメラ(国民)に向かって謝ってたことがあった。要は永田町での保身のために国民の意に反する方へ投票したということだったのだろう。「だったら違う方に投票すればいいだけじゃないか。国民の方を向かずに権力の方を向いてるだけじゃないか。それを自己フォローするためのこのパフォーマンスは、さすが役者」と思ったのを覚えている。
それ以来、私の中では「もっとも信用できない政治家」だし、そんなやつに県政をゆだねるわけにはいかない。県をダメにするということでは他の二人と一緒だが、(事実がどうあれ)見せたい自分を見せるすべを知っている役者は最悪だ。

ちょっとまて、これじゃ誰にも投票できないじゃないか。それも「投票したい候補者がいない」のではなく「投票するわけにいかない候補者しかいない」のだ。
ホームページで「政党や政治家に不満があるなら、自分が議員になればいい」などとエラソーなことを書いておいてこれでは。

フィリピの信徒への手紙4章10~23

2005-03-09 23:45:08 | 聖書
東京チャペルで聖研に出席。ピリピ書がテキストのアフターアルファ「価値ある人生」9回シリーズの第9回。

テーマは献金。

パウロは貧しさの中にいても豊かさの中にいても平気。

「与えることの三重の喜び」として、
(1)気前よく与えることは他の人の喜び(10~16節)
(2)気前よく与えることは与える人の喜び(17~18節)。蒔く量で収穫が変わるのだから、与えることは将来への投資であるという。
(3)気前よく与えることは神の喜び(18~19節)

(1)について。「イエスはヘブライ語を話したか」(ダヴィッド・ビヴィン/ロイ・ブリザード〔著〕、ミルトス出版)によれば、ヘブライ語で「目が明るい」は「気前がよい」の意味であり、「目が暗い」は「ケチ」の意味だそうだ。つまりイエスは「あなたが気前がよいなら、全身が光の中にある。あなたがケチなら、全身が闇の中にある」と言ったわけだ。

(2)は、日本人ならよくわかる。「情けは人のためならず」ってやつだ。

献金ということでは、フリートークの時間にも話したのだが、「惜しみなく、喜んで」というモーセ(を通してのヤハウェ)の言葉があるが、一方で犠牲と痛みがないならキリストの犠牲とヤハウェの痛みに応えることにはならない。献金における犠牲と痛みとは、惜しむ心だろう。とすると聖書は「惜しむ心との戦いを持ち、かつ惜しみなく」「痛みながら、かつ喜んで」と言っているわけだ。アンビバレンツというかアンチノミーというか。

以下は、フリートークの中で出た話題からいくつか。
・献金祈祷で「わずかですがお捧げします」という謙遜は正しいのか。「精一杯捧げます」でよいのではないか。
・生活が破綻するほどまで献金したとして、主はよしとされるか。
・もし急に10億円を手に入れたら、10分の1献金でよいのか、全部献金してしまおうか。
・ある教会では献金を「返金」と称している。ある教会では「献身」と称している。
・10分の1といっても、収入20万円で2万円をささげて18万円で生活するのと、もっと大きい収入で1割をささげて9割で生活するのとでは、違うのではないか。
どれもおもしろいテーマで、論じるには時間がなかったし、そもそも正解があるのかどうかもわからないが、考える意味はあるだろう。

「価値ある人生」は今日でおしまい。ゴールデンウィークあけくらいから、またアルファコースをやるそうだ。
それまでは、聖書の中の賛美について学んでいく予定とか。聖書中の詩についてだろうか、音楽についてだろうか。
詩についてなら、神学的な知識もろくにない少女が詠った「マリアの賛歌」が好きだし、「呪いの詩篇」と言われる詩篇109なんかもちゃんと学んでおきたいところ。
音楽についてならもっとフリートークが楽しみ。(オルガン&斉唱の伝統的な賛美よりも、タンバリンのごとき打楽器と竪琴のごときギターによるワーシップのほうが聖書の登場人物の賛美に近いと思うので)

来週以降も19:30スタートとのことなので、中野に行くのが難しい時には(と言い訳しながら)木場(東京チャペル)に行こう。あ、でも長原(いのちの泉キリスト教会)にもいきたいしなぁ。