布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

久間大臣を弁護するつもりはないけど

2007-07-03 01:31:33 | ニュース
別に久間防衛相を弁護する理由も義理もないのだけど、原爆についての彼の発言を責める気にもなれないんだよな。

いや、最初は「なんつーこと言うんだ?」と思ったけど、長崎県出身と聞いてね。
長崎県の人が「あれで戦争が終わったという頭の整理で、しょうがないと思っている」と思うというのはどういうことなんだろうと。

以下はすべて推測。というか想像。

もしかしたら被爆県の人には、「原爆で戦争が終わった」とでも考えないとやってらんない、というような思いが、意識しているかどうかは別として心のどこかにあるんじゃないかな。
だって被爆者たちは、原爆を落として一般市民の大量虐殺をおこなったアメリカの戦争犯罪性についてさえ沈黙させられて(言っても無視されて)きたわけじゃない。結局せいぜい、米国の非道さをではなく核そのものを非難することしかゆるされないでいるわけで(それすらも聞いてもらえなかったり)。
結局、広島でも「過ちは繰り返しません」の主語をあいまいにすることしかできないわけでしょ。「アメリカに過ちを繰り返させません」とは書けなかったわけでしょ。
たとえるなら、家族を交通事故で殺された人に「加害者を恨んではいけない。恨むなら自動車を恨め。でも『世の中から自動車を無くせ』なんて言っても何の意味も持たせないよ」と言うのと同じじゃないか。

だとしたら、せめて「原爆で戦争が終わった。被爆者は戦争終結のための礎石になった。」とでも思わなければ、じゃなきゃ「捨石になった、加害者を訴えることもできず泣き寝入りさせられた、無駄死にだった」ということになってしまうんじゃないだろうか。

無駄死にだったと思わないためには、そうとでも思わなきゃやってられない。ところが、それを言葉に出して言うと、大臣が発言したとおりにしかならない。そしてそれは「原爆のおかげです。原爆を落としてくれたアメリカよ、ありがとう」という意味になってしまう。
言葉にすると、被爆県民がもっとも認めるわけにいかない論理になってしまう。

もしかしたら、被爆県民は、「そうとでも思わないと」という無意識と「認めるわけにいかない」という意識の板ばさみになって、思いも言葉も無意識の底ふかくに沈めているんじゃないか。
だとしたら、被爆県民が久間発言に反発するのはもちろん当然ということになるけど、それは野党やナントカ協が反発するのとは意味が違ってくる。
もしかしたら久間大臣も「そうとでも思わないと」はきっと意識にはなくて、「認めるわけにいかない」は意識にあって、だからすぐに発言を撤回したんじゃないかな。被爆県民が原爆投下国を非難することもできない(しても相手にされない)でいるとしたら、まして日本を「核の傘」で守ってきた同盟国アメリカを防衛相が非難できるわけがない。もしかしたら今度のことは失言ですらなくて、なぜああいう発言をしたのか自分でもわかっていないかもしれない。

もしかしたら、右も左も関係なく日本中が被爆者をそういうところへ押し込めて置き去りにしてきたんじゃないのか。被爆という苦しみを味わった人たちに対して、私たちは苦しみを積み増しにしてるんじゃないか。

だとしたら?どうしたらいいのか私にもわかりません。最初に書いたとおり、ここに書いたことは全部が想像です。
ただ、被爆者は「アメリカに原爆を落とされたつらさ」の上に「そのつらさを加害者にぶつける手段もないつらさ」をのっけているんじゃないだろうか?
だったら、もちろん久間発言は支持できないとしても、これを政争に利用しようというのも支持できないな。