布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

年越しのこと

2009-01-01 23:31:16 | 教会
年末ぎりぎりまでバタバタして迎えた、大晦日の夜。防寒装備を着込んで自転車にまたがり、カトリック五井教会へ。
去年は遅刻して「新年最初にしたことは、真夜中のサイクリング」になってしまったのだけど、今年は0時からの新年ミサに間に合って無事「新年最初にしたことは礼拝」となりました。
カトリックには不案内な上、プログラムの半分以上が英語で進行して(一年前はそんな感じじゃなかったような気が)、実はキョトンとしてる時間がわりとあったのだけど、一年を礼拝で始められたこと自体が恵まれたという思いになる。

それにしても、やっぱり教会が好きなんだな私は。

クリスマス礼拝

2008-12-24 22:51:03 | 教会
12月24日、ご他聞に洩れず千葉バプテスト教会でもキャンドルサービスがありました。

のっけから脱線だけど、ここでいうサービスとは礼拝のことです。来日した英語圏の人はたいてい、喫茶店などで「Morning Service」と書いてあるのを「午前の礼拝」の意味だと勘違いするとか。

話を戻すと、キャンドルを灯してクリスマス礼拝をしたわけです。
そのあと、教会として初めてのキャロリングに出発。最寄り駅の前で、クリスマスキャロルを賛美しました。
いろいろあったのだけど省略して、一点だけ。短い時間だったけど、通りかかった人たちのうちから、最終的には合計7,8人が加わって、一緒に「もろびとこぞりて」や「きよしこの夜」などの賛美歌を歌いました。
「この前、結婚式でこんなの歌ったんだけど、あれ、いい歌だったな」というリクエスト?で「いつくしみ深き」なども。

あの一人一人に、クリスマスの主なる神からの祝福がありますように。

いよいよ明日

2008-12-05 08:46:16 | 教会
小坂忠。職業・牧師。
1968年、ロックグループ「ザ・フローラル」で日本コロンビアよりメジャーデビュー。
1969年、細野晴臣らと「エイプリル・フール」結成。
1976年にクリスチャンとなり、1978年頃からゴスペルシンガーに転身。
2001年、25年振りに細野晴臣プロデュースによるアルバムをリリース。
(以上wikipedia「小坂忠」より)

日本のゴスペルシーン(ゴスペラーズのような「ゴスペル風アカペラ」ではなく)をリードする一人である小坂忠が、今年の「市民クリスマスin千葉2008」の音楽ゲストです。
明日12月6日、千葉駅ちかくの、もとの「ぱ・る・るホール」(現在は京葉銀行文化プラザ)で、13:30開場、14:00開演。入場無料。

しかし、すごいよな。
去年の音楽ゲストがユーオーディアアンサンブルで、その前が確かベアンテ・ボーマンだろ。来年は?

季節の賛美歌のことなど

2008-12-02 22:59:39 | 教会
「この賛美歌、大好きなのだけどクリスマスの時期しか歌えないのよね~」というのはよくある話。けど、よく考えるとおかしなことなんじゃないだろうか。
私たちが賛美を捧げる相手は、時を支配される神であって、時にしばられる方ではない。一方「季節の賛美歌」というのは、つまり時にしばられるということになるんじゃないだろうか。
でも待てよ、賛美される神は時の外にいても、賛美する私たちは時の中にいるわけで。

というかそれ以前に、賛美歌と言いながら「神を賛美」してはいない曲がけっこうあるんだよな。信仰の歌、証しの歌ではあるけど、賛美の歌ではないやつ。
たとえば、母の日の定番である「幻の影を追いて」は私の好きな歌の一つだけど、「母の信仰を顕彰する歌」であって「神を賛美する歌」ではなかった。

実は、クリスマス礼拝のプログラム案づくりをまかされていて、「賛美歌」の選曲で苦労しているのです。
考え出すと「もろびとこそりて」さえ、人に向かって(いわば水平指向で)よびかける歌で、神に向かって(いわば垂直指向で)歌う歌詞ではないわけで。あ、でも、たとえば「礼を言う」と言えばそれ以上お礼の言葉(ありがとう等)を言わなくても礼を言ったことになるのと似たようなもので「迎え奉れ」で迎え奉る意味になっているのだろうか。
難しいよぉ。考えすぎてわけわこからなくなってる。

女性牧師という恵み

2008-11-25 22:54:48 | 教会
先日、お世話になっいる女性牧師の結婚式がありました。
パーティーで祝辞がわりに述べさせていただいたことでもあるのだけど、これは新郎新婦やご両家にとって祝福のできごとであるだけでなく、教会にとっても大きな祝福のできごとだと思うのです。
というのも、私は男性として聖書を読んでいて、「ここは女性でないと本当にはわからないのだろうな」と思うことがちょくちょくあるんですね。
たとえば大艱難時代についての予言で「その日には、身重の女と幼子を持つ女とは不幸である」とあるけど、男としてはどんなに想像しても「大変だろうな」にしかならない。母親というものがこの言葉から受け止めるであろう緊迫感は、どんなにすぐれた男性牧師でも感じることはできないと思うのです。
同じように、「花婿のために着飾った花嫁のように」という比喩も、これは花嫁を経験した既婚女性、あるいは花嫁にあこがれる独身女性と、男性とでは、感じ方が絶対に違うだろうと思う。うまく言えないのだけど、女が男のためにドレスアップするのと、男が女のためにそうするのとでは、何かが決定的に違うような気がするのです。
まして「キリストの花嫁」なんて言われても男性は牧師も信徒も「こういう心持ちなんだろうな」としか想像できない、悪くすると「花嫁はこういう思いであってほしい、あるべきだ」にしかならないんじゃないかと思うのです。

だから今回、女性牧師が花嫁を経験したこと、それを男性信徒に伝えられるかは別として「花嫁とはこういう心持ちなんだ」ということを体験として知った牧師が御言葉を取り次ぎ、「キリストの花嫁」たる教会をリードしていくということは、教会にとって祝福のできごとだと思うのです。
聖書には逆に「これは男性にしか本当にはわからないよ」と思えるところもあるわけですが、男性牧師による説き明かしはいくらでも聞く機会があるし(まして私が礼拝をささげている教会にはこの女性牧師の他に二人の男性の名誉牧師なる職分と、一人の男性の協力牧師がいるという、規模からはずいぶんと贅沢な教師陣なのです)。

国を問わず教派によっては「女性牧師」に否定的なところもあります。私の出身教会の教団でも、女性牧師はかなり少ない上に、結婚すると職を続けるのが難しいようです。規定があるわけではないようですが、女性献身者は実質的に、牧師夫人になるか生涯独身かということになっいる。もったいない気がするなぁ。

縁は異なもの味なもの

2008-10-28 22:37:19 | 教会
これも先週の話だけど。10月から勤務地が変わったので、例によって、帰宅途中に出席できる平日夜の集会がある教会をネットで検索。アルファコースでお世話になっている境福音教会東京チャペルにとも考えたのだけど、京葉線通勤になったのでチトきつい。
意外と京葉線沿線にはなかなか見つからない。教会がないということはないだろうけど、ホームページを開設してなかったり(それとも私の検索の仕方が悪いのか)、ヒットしても平日夜の集会がなかったり。そんな中、新浦安駅周辺で3軒の該当を発見。さっそく先週、行ってみたわけです。ただ、見つけた中で駅から一番近かった教会は、ホームページで案内していた曜日と時刻にも関わらず、施錠され人の気配なくノックにも反応なし。急な休会か。それとも「集会をやめたのにホームページをメンテしてない」ということか(これは本当にありがちな話で、何度か無駄足を運んだこともあります)。
で、その教会は19時からだったのだけど同じ曜日に19時半から集会がある教会もネットで見つけていたので、急ぎそちらへ。

行ってみて驚いたその一。この教会は私が今まで集ったことのないグループだったのに(教会を探す時はできるなら知らない教団教派にと考え、実際に多くの良い刺激を受けてきた)、私が籍を置いてる教会の牧師とここの牧師が知り合いだったこと。
驚いたその二。集会の出席者の一人が、何年も前に私が参加してたメーリングリストでの知り合いだったこと。祈りのリクエストを出し合ったあと「聖書のメルマガやってる坂井さんって、もしかして」と言われ、聞けば記憶にあるハンドル名。

世間は狭いとはいえ、この国にだって教会はたくさんあるのに。こりゃ、京葉線通勤になっのも、新浦安で最初にいった教会にjoinできなかったのも、偶然じゃないな。天来の導きなら、毎週はちょっと難しい(特に年内は)けど京葉線通勤のあいだだけでもはこの教会につながりたい。

礼拝のプログラム

2008-10-19 08:46:03 | 教会
私が出席している教会では、礼拝の中で子供向けのメッセージの時間があって、そのあと子供たちを送り出して大人向けのメッセージがあります(子供たちも望むなら続けて出席できます)。そして子供たち向けの「今月の賛美」と、メッセージ前の「今月の賛美」があります。交読文は新生賛美歌所載のものをローテーションしています。
というわけで、メッセージや聖書箇所と、賛美や交読文が、あまりマッチしないのが普通です。(大人メッセージ後の賛美はメッセージとリンクするものが選曲されているようです)

ところが、また1週遅れのBLOGになるのですが、先週10/12の礼拝プログラムはおもしろかったのです。

メッセージはヨナ書3,4章から。
で、大人の「今月の賛美」は、新生賛美歌379。1,3,4節をリフレインなしで引用します。
(1)行きて告げよあまねく いずこの民にも
心をば変えて 新たにせよと 新たにせよと
(3)語れ 人を罪より 滅びの中より 救わんがために
降りしイェスを 降りしイェスを
(4)示せ 救いの君を
苦しみたまいし このイェスの他に 救いはあらじ 救いはあらじ
これ、曲はいわゆる「教団賛美歌」の453番、私の愛唱歌でもある「聞けや愛の言葉を」で、私としては教団賛美歌のほうが歌として好きなのですが(どうも好きな賛美歌の歌詞違いというのは、好きな歌を「替え歌」で歌うことを無理強いされているような気になる)、ヨナ書のあとで賛美するとなると新生賛美歌の歌詞はとてもGood。ヨナは時代的に、イエス・キリストによる救いは宣教できなかったはずですが、しかしこの歌詞はニネベに宣教したヨナにぴったりじゃないですか、これがたまたま「今月の賛美」だったわけ。

しかも交読文が、たまたま新生賛美歌3番「詩編8篇」でした。神の主権をたたえ、神に刃向かう者は滅ぼされると宣言し、しかし「人の子は何ものなのでしょう、あなたがかえりみてくださるとは」と歌うこの詩編、大いなる都ニネベの十二万人以上のアッシリア人を神は惜しまれたというヨナ書のテーマにぴったりじゃないですか。

思わず礼拝後に牧師と「今日のプログラムすばらしかったよね」と感動をわかちあいました。まさに「神によって整えられた礼拝」という感じ。
もちろん、偶然と解釈してもいいことです。でも神に礼拝を捧げるとき、その礼拝を神ご自身が整えてくださっていると感じられるのは、すごい喜びがありました。
ただ、ちょっと複雑ではあるのだけど。というのも、今年度からのこの「今月の賛美」というやり方には、前述の通り賛美と聖書箇所がリンクしがたいという難点があって、私は常々不満だったわけです。でも、私たち人間が設計した礼拝プログラムでは「今日のプログラムはよくできてるな」と担当者を評価することはあっても、今回のように礼拝プログラム自体を通して神を感動するということはなかったんじゃないだろうか。
だからといって、全部神様まかせにしてしまうのも、私たちが神様にプレゼントする礼拝としてどうなんだろうと思うし。(これは昔ある人から聞いたことなのだけど、その人の知っている牧師は礼拝で使う讃美歌を事前に奏楽者に伝えないのだそうです。プログラムにも載せない。奏楽者が「練習する時間がほしいので事前に教えてください」と言ったら「礼拝の中で『この賛美歌だ』と示されたものを使うので、事前には決められない」と答えられたとか。そういうやり方もアリかなとは思うけど、奉仕者にとってはたいへんすぎる)

うーん、どう考えたらいいんだろう。

私見:なぜ日曜日に礼拝するのか?

2008-05-25 07:45:14 | 教会

前の記事に続いて、日曜礼拝についての私見です。

イースターやクリスマスと同様に日曜日に礼拝するのは「習慣」にすぎません。日曜日を指して「安息日」という言葉を使う教会やキリスト者もいますが、安息日が「週の七日目」から「週の初めの日」に変更されたなどとは聖書のどこにも書かれていません。

イエスをメシアと信じるユダヤ人「メシアニック・ジュー」たちは、土曜日の安息日に礼拝をささげています。
キリスト教でも、カトリックではなく東方教会のでは、土曜日を安息日としていると聞きます。また無教会主義の人たちで、紀元1世紀のキリスト者たちに倣って土曜日に集会を行う人たちもいます。
セブンスデーアドベンチスト(以下SDAと略します)の教会も、聖書のとおり土曜日に礼拝をささげているそうです。(SDAの教会のWEBサイトなどで「なぜ土曜日なのか」という説明がされているところがあります。なお、キリスト教の中にはSDAの異端性を問う声もありますが、ここでは礼拝と安息日のテーマについてだけ扱っています。)
Wikipediaによると、イスラム教はムハンマドがメッカを脱出した金曜日を安息日としているそうです。モーセ五書の土曜安息日をどうとらえているのかはよくわかりません。これは自分への宿題。)

もし、「礼拝するべき日として定められているのはいつなのか」という問いであるなら、上に上げた人々のように土曜日に礼拝するのが正解で、その他の(つまりローマカトリックの流れを汲む)教会は間違い、ということになるでしょう。
でもそれ以前に、「礼拝するべき日として定められているのは」という問い自体が不成立なのではないでしょうか。

律法には、十戒の安息日規定も含めて613の戒律があるのだそうですが、使徒言行録(使徒行伝)15章に記録されている使徒たちの論争(以下「エルサレム会議」と呼びます)において、異邦人キリスト者が守らなければならない戒律は「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」だけになったからです。

「エルサレム会議の決定は人間によるものではないか。それによって、神がさだめた旧約律法が変更されうるのか。」という疑問があがるかもしれませんが、エルサレム会議の決定の正当性については、マタイ16:19で主イエス自身が「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言っています。
この箇所は、「教会が赦した罪は天でも赦され、教会が赦さない罪は天でも赦されない」と解釈されることがありますが、「解く/つなぐ」とは律法の用語で「許可されている/禁じられている」ということを表すものです。つまりこの箇所は「赦す/赦さない」の話ではなく、「許す/許さない」の話で、主イエスは「教会が『それは許可されている』『それは禁じられている』とした判定は、天においても支持される」と言っているのです。

だから、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行い」だけがつながれており、その他のことはすべて解かれているとしたエルサレム会議の決定は、天においてすでに支持されているはずです。そうでないなら私たち異邦人も、安息日規定だけでなく割礼など613の規定をすべて守らなければならないということになるでしょう。
そしてこの中で、第4戒の安息日規定も免除されています。あれほどユダヤ人がこだわり、パリサイ派がイエスを攻撃しないわけにいかないほどだった安息日規定が、です。このようにして、礼拝しなければならない日というものはなくなっているのです。

(念のためですが、エルサレム会議の決定は「律法を守るとは、異邦人キリスト者にとっては具体的にこうすることだ」という意味であって、律法自体が変更されてはいません。)

ただ、以上は「戒律としては」です。
人の行動を縛るものとしては、法治国家においては「法」というものがあります。ですが法より以前に人は「思い」によって自分の行動を規定しています。
613の戒律の具体化としてエルサレム会議が異邦人教会に示したものは、キリスト者に対する「法」と言えますし、その中で安息日規定も免除されましたが、「安息日に礼拝しなければならない」という法が免除されたことは、「神への愛による自主的な思いとしての礼拝したい」を禁じたものではないはずということです。
本来、礼拝って「十戒やその他の律法に規定されているから、する」ではなく「たとえ迫害によって禁じられようとも、せずにはいられないから、する」ですから。

われながら回りくどい説明になりましたので、少し整理します。
「日曜日は安息日なのだから、教会に行って礼拝しなければならない」というのは誤りで、しかもそれは反ユダヤ主義であると同時に反聖書的と思います。
そうではなく「神への愛のゆえに、特定の日を神のために取り分けて、自主的に集まって礼拝をささげる」というのがキリストを信じる者の礼拝なのではないでしょうか。もちろん「取り分けて」というのは、旧約において安息日を「聖として」というのと同じ意味です。

イエスを信じるユダヤ人「メシアニック・ジュー」が、「律法の義だから」を超えて「神を愛するゆえに律法を守りたいから」ということで、他のすべての律法と同様に土曜日の安息日を大切にすることに、何か問題があるでしょうか。
同様に、イエスを信じる異邦人が、(安息日は日曜日だなどと捏造してではなく)「神への愛によって、安息日規定に縛られず」礼拝するのも問題はないはずですし、さらあに同様に「主イエスを愛するゆえにその初臨や復活を記念して日曜日に礼拝する」というのも正しいはずです。
「安息日規定の免除」とは「安息日を守ってはならない」という禁止ではありませんから、無教会主義やSDAのように、非ユダヤ人でも神への愛のゆえに土曜安息日に礼拝するのも同様に正しいはずです。
これらは、過ぎ越し祭などの旧約律法についても同じです。(ただ、ワントーラー論という議論があることを坂井はつい最近になって知りまして、これらについてはまだ勉強中です。よろしければシオンとの架け橋のサイトをどうぞ。)

(では「神を愛してはいるけれど、今週は予定があるのでまた都合がいい日に」というのもアリなのか?神を愛するから礼拝したいというなら、一度「この日をあなた(神様)にささげます」としたならそれを「自分の都合」でどうこうすることはふさわしいことではないように思います。愛する人に自分から「この日時に」とデートに誘っておいて、自分の都合で一方的に日時を変更した上に相手の同意も求めない、という人はいないでしょう。)

ところで、メシアニック・ジューたちが聖書(旧約)の戒律を大切にしつつ、それとはまったく矛盾せずにイエスを救い主として信じていることについて、キリスト教の中には彼らの「イエスによる救い」への信頼を疑う声があると聞きます。
しかしこの疑いは、私個人の考えとしては、どこまで反ユダヤ主義(反「神の民」主義)なのかと感じます。
安息日規定が免除されたのは、異邦人の兄弟たちについてです。しかもそれは、ユダヤ人教会からの「自分たちユダヤ人も苦労してきたものを、異邦人の兄弟に背負わせるのか」という愛ゆえの免除だったのに、と。(使徒15章10)

蛇足になりますが、神を愛するがゆえの自発的な行為であっても、聖書によって禁じられる場合があります。今思いつくのは次の2つですが、他にもあるかもしれません。
ひとつは、ささげすぎないこと。出エジプト記36章で、幕屋を建てるために民が必要以上の資材を奉献したとき、モーセはこれをやめさせました。
もうひとつは、新婚一年以内に従軍すること。イスラエルの戦いは神の戦いですが、申命記24章では新妻をめとった者は兵役等を一年間免除されるとあります。
どちらも、「人が神を愛する愛」にまさる、「神が人を愛するゆえの制止」であるように思います。

私見:なぜクリスマスを祝うの?

2008-05-24 16:40:24 | 教会
ある方から、次のような質問をいただきました。
まず端的に言って、イースター・クリスマス・そして日曜礼拝と称する現在の多くの「キリスト教会」の「習慣?」は、そのどこに「聖書からの明白な根拠」があるのでしょうか。
(中略)
何の根拠もない人間的習慣を守るくらいだったら、まだ旧約聖書に明白な根拠のある「過ぎ越しの祭り」や「仮庵の祭り」を祝った方がはるかに論理的整合性があるのではないかと思えてなりません。


例によって以下は、坂井信生の個人的な考えですが。
イースターの日付、クリスマスの日付、そして日曜礼拝といったものに、聖書からの明白な根拠はありません。

復活祭つまり「キリストであるイエスが死からよみがえった日」は、聖書の記述どおりであれば、過ぎ越し祭の安息日の翌日となります。
ところで、キリスト教の考え方では「キリスト教はユダヤ教を完成したもの」と言えますし、だからユダヤ教はキリスト教の前身だとも言えるのですが、奇妙なことに現在「キリスト教の復活祭」は「ユダヤ教の過ぎ越し祭」の日付と連動していません。

もっと奇妙なのが聖霊降臨日です。
ペンテコステとも呼ばれますが、このギリシャ語は「50日目」の意味で「聖霊降臨」などという意味はなく、過ぎ越し祭から50日目(49日後)に来る「七週の祭り」の日を表しています。(「ペンテコステというのは聖霊降臨日のことで」などと説明されることがありますが、これは誤り。「ペンテコステの日に聖霊降臨があった」というべきです。)イースターが過ぎ越し祭と無関係に日付が決まるため、聖霊降臨日も「七週の祭り」とは無関係に日付が決まっています。なのに名称はユダヤ教的というか聖書的な「ペンテコステ(50日目の祭り)」のまま。しかし意味は「過ぎ越しから50日目」を「復活から50日目」に変更。換骨奪胎というやつでしょうか。

なぜキリスト教の復活祭とユダヤ教の過ぎ越し祭の日付がずれてしまったのか。どちらかが正しいのであれば、間違っているのはどちらなのか。
キリスト教の暦は5,6世紀に大きく変更されています。それまで使用していた、復活祭の日付を決定する「復活祭暦表」が怪しくなってきたために、ウィトクリウスが457年に改暦し、それも怪しいということで525年にエクシグウスが改暦しています。なお、現在のいわゆるグレゴリオ暦は、エクシグウスの改暦を改善したものです。この辺りのことは拙文「西暦の話し」も参照していただければと思います。
ウィトクリウス以前の「復活祭暦表」がどういうものだったのか、その時点で復活祭が過ぎ越し祭と連動していたのかは、興味あるのですがまだ調べていません。また、ユダヤ教の暦が連綿と続いてきたものであるのかも調べていませんが、少なくともキリスト教の暦は途中で意図的に変更されているのは事実です。

次にクリスマスですが、まず12月25日(24日の日没~25日の日没)という日付自体が異教の風習です。これはキリスト教徒でなくても雑学ファンや薀蓄ファンなら知っているというくらいですが、キリスト教が欧州に伝わったのちに、地元の宗教の冬至祭と習合したものと言われています。
そもそも、聖書の記録によれば、キリストであるイエスがこの世に生まれた時には羊飼いたちが野宿していたとありますが、いくらイスラエルでも羊飼いは冬には野宿しません。「イスラエル→中東→暑そう→一年中でも野宿できそう」という連想かもしれませんが、内陸の荒野では夏でも昼夜の寒暖の差が激しいし、ましてイスラエルでも冬には雪が降るのです。ということで、「クリスマス」は少なくとも冬ではなかっただろうと思われます。

このように、聖書を基準にすると「復活祭は日付が怪しい(過ぎ越し祭とずれすぎていて、しかも復活祭の日付のほうがうさんくさい)」「クリスマスの日付はまったくでたらめ」ということになります。しかしこのことは、「キリストの復活という事実」「キリストの受肉(神であるキリストが肉体を持って世に生まれたことを指すキリスト教用語)という事実」には何の影響もありません。
私の考えでは、キリストの復活もキリストの受肉も「聖書からの明白な根拠」があり、ただその日付が今はおかしくなっているだけだと思います。


不孝なたとえになりますが、坂井信生が拾われっ子で実は本当の誕生日もわからないとします。しかし、仮に私の誕生日がわからないとしても、私という人間がこの世に生まれていることには何の影響もありません。
誕生日がわからない、記念してもらえる日が実は違う、ということは、誕生したという事実とは関係がないのです。同様に、「イエスが生まれた日」がわからないということは、「救い主が世に臨まれた」という事実をゆるがすものではありません。
なお、Christmasとは「キリスト礼拝」の意味であって「キリスト誕生日」の意味ではありません。

もしかすると、記念するということは「記念される人や物事」にとってよりもむしろ「記念する側の人」にとって意味があることなのかもしれません。(「記念される人」にとってだけ大事なら、たとえば脳死状態の人の誕生日を祝うことは愚かなことです。命日に故人を思うというのも滑稽です。)

以上のように考えるなら、日付の根拠がないということでは「主の復活」「主の初臨」を記念するのがおかしいということにはならないと思います。そしてこれらは、聖書に記念せよと書いてあるから記念するのではなく、主を思うゆえに記念したいから記念しているのだと思います。親を慕う子が親の誕生日に祝福するように、主を愛する者が主の来られた日を記念するのはおかしいことではないと私は思うのです。(これは日曜礼拝についても同様なのですが、長くなりますので日曜礼拝については稿を改めます。)

なお、教会の子供たちには、たとえばクリスマスは「イエス様の誕生日」ではなくて「イエス様の誕生を記念する日」なんだよと話すようにしています。そのほうが正確であるということに加えて、将来「クリスマスは12月25日ではない」ということを知ったときにつまづかないでほしいからという理由もあります。

質問されたとおり、クリスマスやイースターはまさに「習慣」です。
ですが、これは「重要な、自主的な習慣」なのです。

では過ぎ越し祭りなどの聖書の祭りはどうなのかですが、それらも大事にするべきだと坂井は考えます。
私の知る教会の多くは(といっても数はそんなにありませんが)、旧約の祭りに無関心です。これは「神がイスラエルに与えた契約と祝福は、イスラエルの罪のゆえに取り上げられ、教会に与えられた。」というキリスト教の誤った考えにより、教会がユダヤ人迫害の先頭に立ち、ユダヤ教を迫害してきた過ちが残っているものだと思います。これについては、カトリックでは(少なくともトップの方針としては)先代教皇の頃からユダヤに向き合おうとし始めているようです。一方プロテスタントでは、ユダヤ人伝道を真剣に考えている人々もいますがそれはむしろ例外です。坂井はカルヴァンの「キリスト教綱要」も未読な不勉強者ですが、カルヴァンもが「律法はキリストにおいて廃棄された」と書いたとか、ルターは反ユダヤ主義だったと聞いたことがありますので、どうも「宗教改革以来の伝統」があるようです。

「イスラエルに与えられたものは、取り上げられて教会に与えられている」などということはもちろん聖書に書かれていません。私たち異邦人は「神のイスラエルへの恵み」に接ぎ木してもらっただけです。また、私の体験的なこととして、「旧約がわからないと新約はわからない」ということはあります。「旧約の祭り」を経験することは「御言葉を経験する」ことだとも思います。
というわけで、たとえばイースターには、過ぎ越し祭についても子供たちに伝えるようにしています。
ヨハネ福音書10章22に出てくる神殿奉献祭(ハヌカ祭)についても、ユダヤ暦そって子供たちに伝えています。ハヌカ祭は外典(新共同訳でいう旧約続編)のマカバイ記に由来するものですが、福音書に記録されていることから、イエスと弟子たちをはじめ1世紀のユダヤ人キリスト者もこの祭りを祝ったであろうと思うからです。
過ぎ越し祭や仮庵祭りも同様に、イエスと弟子たちもユダヤ人キリスト者たちも祝っていたはずですが、私の出席教会では今のところこれらを祝うことはしていません。これは恥ずかしながら担当している私自身の不勉強によるもので、前々から意識してはいるのですが、今は「スカ(仮庵)の建て方」「過ぎ越し祭の食卓のレシピ」などを調べている段階です。
「過ぎ越しや仮庵を祝うほうが論理的に整合」という考え方をしたことはありませんでしたが、確かにそうだと思います。

私たちの教会では他にも、エステル記9章19に由来するプリム祭も子供たちに伝えています。エステル記は確かに神のわざが働いた記録ですが、「神」「主」といった言葉は出てきませんね。これは、これは神が見えない時代にあってしかし神に守られているということを伝えるよきテキストだと思います。

これらの理由に加えて、担当奉仕者としてはこうしたことをとおして子供たちに「神の民イスラエル」を知ってほしいと願っています。
なぜなら、イスラエルは神の民、祭司の民族だからです。
「キリスト教は外国の宗教」と考える人が多いこの国で、「ぼくたち日本人も他の諸民族と一緒に、アブラハムの子孫によって神様の祝福に入れていただけるんだよ」ということを知ってほしいからです。
キリストは初臨においては、はじめから最後まで「ユダヤ人の王」だったからです。イエス誕生の折りには東方の賢者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を礼拝し、「ユダヤ人の王」と記された罪状書きの下で苦難を受けられました。

仮にイスラエルが捨てられるとするなら、神の民というオリーブに接ぎ木されたにすぎない異邦人教会などはもっと簡単に捨てられてしまうでしょう。けれど、あれほど神にそむき続けたイスラエルさえも神は捨てないということこそが、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」というローマ書11章29の証拠であり、私たち異邦人にとっての希望なのだと思うのです。

すみません、ちょっと熱くなりました。
ここで私が「教会でやっている」と書いたこと「教会の子供たちにお話している」と書いたことは、公式には教会でコンセンサスがあるというものではなく、「担当奉仕者である坂井が勝手にやっている」というものです。が、今のところ異論は出ていませんので少なくとも暗黙のうちに了解されているようですし、むしろ興味を持たれ始めているようにも感じています。

西船橋キリスト教会

2008-04-16 23:45:38 | 教会
仕事の帰りに西船橋で乗り換える予定があったので、「教会 西船橋」でググってみた。
いくつかヒットしたなかには、荻窪勤務時に一度祈祷会に出席した荻窪栄光教会の西船橋伝道所とか、確か友人が行ってるはずのホープチャーチなどがあったけど、西船橋キリスト教会が水曜夜に集会があるとのことでこちらに行ってみることに。

以前、友達から「坂井さんはほんとに教会が好きなんですね」と言われたことがあるけど、先週から高井戸勤務になって以来「会社帰りに教会」ができないでいたのです。なので、「どこかの教会に初めて集うときの緊張」はいつもほどじゃなかったかも。

西船橋キリスト教会の水曜集会は、賛美+聖書+祈りというオーソドックスな(?)もの。
聖書は、このところ第二コリントを読んでいるとのことで今夜はその11章。パウロの使徒職の権威を疑う声に「世の評価基準が必要というなら、自慢したくはないが私だって」という箇所。
パウロは外交官になっても有能だったろうなと思う(使徒と訳されている言葉は「大使」の意味がある)。11章前後だけでも、相手の言い分をちゃんと受けとめつつも同意できないことにはキッパリと対応、あなどらせないが居丈高にもならず、筋は通すが相手のメンツも立てる。これでは相手は、いつの間にか「そういうことなら」と承知するよなぁ。

牧師から「コリント書は、暗誦聖句や愛読聖句などにされることが多く、前後から離して部分だけ取り出しても、よい聖句が多い書簡」との説明もあった。言われてみると確かに。エフェソ書を暗誦したら、次に挑戦してみようか。

…そういうことは、エフェソ書が終わってからにしよう。今年こそと思いながら、早くも4月!しかも時間かかりすぎで、前半は忘れかけてるし。そういえばマルコ福音書もかなり忘れててきてるよなぁ。私の脳みそはDRAM(記憶保持動作が必要なRAM)らしい。

今年最初にしたこと

2008-01-01 20:36:15 | 教会
2008年1月1日0時からの、カトリック五井教会の新年ミサに出席。「今年最初にしたことが礼拝」というのはすがすがしい気分。
・・・新年早々、ウソはよくないな。1,2分遅刻したので、今年最初にしたことは正確には「真夜中に必死で自転車をこぐこと」でした。けどまあそのへんは割り引いて、と。

午後は1時から千葉バプテスト教会の元旦礼拝に出席。「元旦って、元日の朝って意味だろ」という突っ込みはしないでください。
礼拝後の茶菓の時間には、今日は抹茶が点てられ、みんなでゆっくり。
そしてそのあとはカラオケ!大人が10人くらい、子供が6人くらいで2部屋借りて大人と子供にわかれて3時間くらい盛り上がりました。もともと教会というのは世代を超えて人が集まるところなだけに、カラオケにいくと世代を超えた選曲が続いて面白い。私も普段同僚とカラオケいに行く時には選曲できないような、加藤登紀子の「百万本のバラ」なんて古い曲とか、村下孝蔵の「同窓会」なんていい曲だけどマイナーだから遠慮していた曲とか歌えて満足。

クリスマス日中ミサ

2007-12-25 12:58:10 | 教会
千葉バプテスト教会のクリスマスイベントは昨夜のキャンドルライトサービスで終わり。
ただ、前々から一度いってみたかった「カトリックのクリスマス」を味わいに、今日も休暇をとってカトリック五井教会のクリスマス日中ミサに行ってみた。

初めて行った教会、しかもカトリックはずいぶん前に一度行ったことがあるだけなので、勝手がわからない。
けれど、なんというか、「美しい礼拝」だと思った。ほとんどすべてが歌で進行するプログラム。司祭などの進退の所作。主唱者と会衆の応答は、旧約時代の詩篇の歌い方を思わせるような(って見たわけじゃないけど)。

聖体拝領のとき、私はプロテスタントなので拝領は遠慮した(「バプテスマは一つ」だし、聖書的には私も配餐を受けられると考えるのだけど、それぞれの教会にそれぞれ大切にしていることがあるわけだし)
で、未受洗者にまじって、司祭から祝福を受けたのだけど、これ、いいなぁ。
千葉バプテスト教会の礼拝では、子供メッセージのあと子供たちを送り出す賛美のうちに牧師が子供たちをひとりひとり祝福するのだけど、大人も祝福してもらえないだろうか。
もともと祝祷だいすき信徒ではあるのだけど。

立川ハイナイト

2007-12-16 22:23:38 | 教会
「ハイ」はヘブライ語の命、「ナイト」は英語の夜。
イスラエルを心に覚える夜が、毎月第三木曜日に立川駅からほど近いところで行われています。
現在、中央線沿線で勤務しているので、今週初めて行ってみたのですが、軽く興奮しました。

当夜は、先月末にBFP(Bridges For Peace)主催のイスラエルツアーに行った人が二人、旅の報告をしたのだけど、新婚旅行でイスラエルに行ったときを思い出して軽く興奮。
メインは、イスラエルのために祈ること。イスラエルの最新の情報とともに、まさにいま祈りが必要な課題が紹介され、ともに祈った。わずかな人数だけど、そして困難な課題ばかりだけど(難しすぎて「こうしてください」とも言えず「とにかく神様なんとかしてください」としか祈れないことばかりだ)、不思議と祈れたというか。
一つのことを祈るだけで、どこかに力が入ってるのか軽く疲れる。で、ちょっと一呼吸いれる。するとまた自然に次の祈りが唇を動かす。今になって思うに、聖霊に祈りをうながされ導かれていたのかもしれない。
ツアーのお土産ということでいただいた、包装にヘブライ語の書かれたチョコレート。持って帰って嫁さんに見せると、おもてには「ミニキットカット」、側面に「チョコレート」、裏面にはコーシャー(食物規定)に違反していない食べ物であることが書いてあるとのこと。

それにしても、イスラエル。
夕陽を浴びて文字どおり黄金に輝く、イスラエルストーンの城壁。
テベリア湖(ガリラヤ湖)の水面をながめていると「ペトロだったら、イエス様に呼ばれたらこの水の上くらい歩いたに違いない」と納得したっけ。
エルサレムからオリーブ山のなんと近いことか。ゲッセマネの園の近くで、溝を掘った岩が置いてあるのを嫁さんが指して、飼い葉桶だと教えてくれた。
死海の浮遊体験。
エイラート(紅海に面するリゾート地)の遊覧潜水艦。

そして聖墳墓教会だ。「イエスの亡骸が横たえられた」というのは、ありえないことに大理石の板。それでも「確かに主は、歴史のただなかに来られ、そして私のために死んだ」ということがリアルに実感された。使徒信条の「死にて葬られ」が頭の中を無限ループした。あれ以来いまだに、聖餐式のたびに感動する。

イスラエル。もう一度行きたいなぁ。もう一度と言わず何度でも行きたいなぁ。

アドベント第3日曜

2007-12-16 21:23:44 | 教会
「牧師が走るから師走」と言った人がいるけど、クリスマスの時期は牧師さんだけでなく教会の関係者は忙しい。
たまにでいいから、何もしないで静かにゆっくりクリスマスを迎えたいと思うのだけど。
でも神様は楽させてくれない。教会で何らかの役割に責任を負ってないと、教会からも離れかねないからな私の場合は。

ともかく、毎年いちばん疲れる「こどもクリスマス」が無事終了。子供たちに聖書劇をちゃんとやらせるのは、いつも大変だ。
大変なのは、大人の思い通りに都合よく動いてもらいたいのにそうは行かないからだ。特に聖書劇は、台本の作者としては場面場面にイメージがあるので、仮に大人に演じてもらうとしても思い通りに行かないとストレスになる。もっとも、大人の場合は逆にアドリブなど役者のおかげで駄作が好評をいただくほうが多いのだけど、子供たちでは!

なんとかこう、子供たち全員が、自分でやる、大人の思惑なんかコケにしてくれるくらいな方向に持っていけないかとは思うのだけど。上級生がもう少し大きくなったら、自分たちで劇をつくらせられるのだけどなぁ。

アドベント第2日曜日

2007-12-09 18:26:05 | 教会
クリスマスも近付いてきて、少し気分があわただしくなる。
ことに今回は、聖歌隊リーダーが産休(?)につき、聖歌隊経験はあるけど指導経験はない私が練習をリードしているのだけど、これがしんどい。「そこそこ歌える」ってのと「引っ張って行ける」というのはまるで違う話しなわけで。自己流で下手にいじって、リーダーが復帰したときに混乱を来たすようでもいけないし。などと悩んでるうちに教会コンサートは早くも今度の土曜日に迫ってるし。