布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

死んだペットと天国で会えるの?

2008-07-11 07:11:18 | 聖書
かなり前のことだけど、教会学校に来ていた中学生に、死んだペットに天国で会えるのかと質問されたことがあります。
今朝、身内が長く飼っていた犬が死んだとの連絡があって、上の問いともう一度むきあわなきゃと思いました。
このテーマにはたぶん神学的な議論がある程度なされていると思うのですが、ここではあくまで「私の聖書理解」として書きます。

まず、聖書は「生きている人が、生きているうちに、イエスをキリストであると信じるためのもの」であるということなのか、動物が死んだあとのことはぜんぜん書いてない(少なくとも私は見つけていない)です。だいたい、人間が死んだあとのことも、ほとんど書かれていません。
ただしこれは、「動物は天国に行けない」とも明確には書かれてはいない、ということでもあります。

で、じゃあどっちなの?ということですが。
今の時点での私の結論としては、どっちだかわかりません。わからないということは、「愛するペットと天国で再会できるように」と祈るのは、神様の心に反する祈りとはいえない、ということだと思います。だったら、そう祈っていいはずだし、「祈ってよいこと」というのは「積極的に祈るべきこと」です。そして聖書には、イエスの名で祈ったことはすでにかなえられたと信じなさい、とも書かれています。

動物は天国には入れないと考えるとしたら、その根拠はなんでしょうか。
これは坂井がかってに推測することですが、動物が天国に入れないと考えるならその理由の一つは次のようなものでしょうか。
「天国に入るためには、罪をゆるされなければならない」
→「罪をゆるされるただ一つの方法は、『イエス様の十字架は、私を罪から救うためだった』ということを、心で信じ、口で言いあらわすこと」
→「動物はイエスを信じることも、信仰を言い表すこともできないから、罪をゆるされて天国に入ることはない」

でもよく考えると、動物は罪を犯してはいないですよね。肉食動物が生きるために草食動物の命を奪うのは、殺人とは違います。
ノアの洪水のときには動物たちも(箱舟に乗ったオスメスのペア以外は)しに増したけど、それだって動物が人間と一緒になって罪を犯したわけではなくて、人間が罪を犯したので、人間とともに、人間の支配下にある動物たちも死ぬことになったわけです。(経営陣の違法行為が裁かれて倒産し、違法行為を犯してもいない末端の社員も失業した、というようなものでしょうか。ちょっと無理があるたとえかな。)

それとも「人に罪が入ったために、この世そのものが罪に定められたので、動物も救われる必要がある」ということでしょうか。
だとしても、動物たちがイエスを信じていないとか、動物たちが信仰を告白していないなどとは、言えないと思います。
たとえば、イエスは「人が賛美の声を黙らされるなら、代わりに道ばたの石が(賛美を)叫ぶ」と言っています。無生物である石が神を賛美できるのなら、まして動物が信仰を告白できないはずがありません。石も動物も、今は人間の言葉を使わないというだけでしょう。聖書には、神がロバの口を開かせるとロバが人間語をしゃべったという記録が実際にあるのです(民数記22章22)。

「動物は天国に行けない」という考えの理由になりそうな聖書箇所は、他にもあります。
パウロは、人間は霊と魂と体から成ると書いています(第一テサロニケ5章23)。坂井は、霊と魂がどうちがうのか(何度教えてもらってもいまだに)よくわかっていないのですが、とりあえず霊については、創造の時に他の動物と違って人間(アダム)だけが、鼻に「命の息(霊と同じ言葉)」を吹き入れられて「生きるものとなった」と書かれています(創世記2章7)。
たぶん、「霊を持っているのは人間だけだ」
→「復活とは、死んで体から離れた霊が、新しい体を与えられてよみがえることだ」
→「霊を持っていない動物は復活することはなく、死んで体が朽ちることで全存在が無になる」
ということでしょうか。

しかし本当に動物には霊がないのでしょうか。
実は今「命の息」を聖書ソフトで検索してはじめて気づいたのですが、創世記7章22に「乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるもの」とあります。前後(7章21~23)で見ると、これは人間だけでなくすべての生き物(少なくとも陸上生物)についてのことと理解できる文章です。
それに、「生きている人間」と「人間の死体」の違いが「霊と魂と体が一つになっているか、離れてしまったか」にあるなら、動物には霊がないとしたら「生きている動物」と「動物の死体」の違いは何もないということになってしまいますものね。つまり「生きている動物」というのは「動物の死体が動き回っている」というのと同じということになってしまう。
あるいは、「人間は霊と魂と体(物質)だけど、動物は体(物質)だけ」というのであれば、動物を愛するというのは、命のないモノ(宝石とか家屋敷とか)を愛するのと変わらないことになってしまう。

何かおかしいですよね。
仮説を立て、その仮説にそって論説を組み立てた結果がおかしくなったとしたら、話の組み立て方がおかしいか、仮説自体がおかしいか、どちらかでしょう。「動物には霊がない」「死とは、体と霊が離れたことをいう」のどちらか、あるいは両方が間違っているのではないでしょうか。

もう一度、なぜ人は死ぬのか、なぜ救われたら「永遠の命」に入れるのか、このあたりを考えて見ます。
一人の人(アダム)によって世に罪が入り、そのために人は死ぬことになり、人の支配下にある動物も死ぬことになったのだとすると。
一人の人(キリスト)によって救いが世にあらわされ、そのために人が永遠の命に与るようになった時、人の支配下にある動物も永遠の命に与るようになったはずではないでしょうか。
(このあたり、ローマの信徒への手紙5章12,15,19あたりを参照。)

最初に書いたとおり、以上のことは坂井の聖書理解でしかありません。
「動物は天国に行けない」の根拠についても「こういう解釈をしてそういう結論を出しているんじゃないかなぁ」と想像で言っているだけなので、いずれちゃんとそうした意見(「動物は天国に行けない」の神学的根拠)について勉強した上でもう一度この問題に取り組みたいと思います。

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3 コメント

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悲・・・ (てにすむすめ)
2008-07-11 07:17:37
悲しいよね・・・
わたしなんかないたよ・・・
動物を飼うってことは、たいへん・・・
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Unknown (Unknown)
2017-02-09 15:52:19
動物にも霊があるとのご指摘を感謝いたします。さらなる聖書の研究結果を楽しみにしております。
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Unknown (ひろ)
2019-04-30 04:29:37
あなたの文章を読んで多少心が安らぎました。
私もペットロスです。
神様はどうして私の可愛がっていた猫の命を取ったのだろう、可哀相に、まだ3年も生きなかったのに。
あんなになついて私を愛してくれたのに。
と考えると、神様を愛することができなくなりそうです。というか、神様がいるかどうかさえ、確信が持てません。

私の不信仰が影響を与えてしまったら、すみません


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