布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

「建国記念の日」を祝ったこと

2009-02-15 07:48:19 | 日本
2月11日、千葉駅から近い京葉銀行文化プラザホール(「ぱ・る・るホール」)で行われた「建国記念の日を祝う千葉県民の集い」に行ってみました。
たまたまネットでフライヤーを見つけて、地元で有志がこういうイベントを続けているというのを知り、しかも今年は今上陛下の在位20年もあわせて記念するとのこと。
第一部式典
第ニ部天皇陛下御即位ニ十年奉祝映画
第三部記念講演

人からはよく「右寄り」と言われる私ですが、ちゃんとした右翼に比べたら、自分が生まれた国を愛する気持ちがあるというだけですからいわば「気分だけ右翼」というところですが、そんな私にとってはこのプログラムは「建国記念の日に奉祝イベントがあるなら、行ってぜひお祝いしよう」という気にさせるものでした。
(「天皇誕生日に一般参賀に行ってる時点で右翼だ」と言われたことが何度かありますが、「天皇誕生日に一般参賀に行くのは右翼、行かないのは左翼」という二元論なんでしょうかね。)

ところが始まってみると、集いの冒頭、来賓挨拶で壇上に上がった人の多くが、日本の国柄を思うことをしない人々に対して物申すという調子のことを言うんですね。
まあ、言っていることはみな同意できることばかりだし、訴えたいのもわかるのだけど、聴衆は、というか少なくとも私は、祖国の建国をしのび、わたしたち国民の統合の象徴である天皇を奉祝したいと思って来ているので、決起集会のつもりじゃなかったのだけど。
前に書きましたが、天皇誕生日の一般参賀の時に、退出門ヘの道すがら、大声で「誰それはけしからん」と訴えていた老翁がいました。言ってることが正しいとしても、奉祝気分に水を差すなあと思ったものですが、あの時と同じような気分で挨拶を眺めていました。

まあ、それも始めだけ。                        ‐
式典の部では、国歌や、紀元節の歌を歌いました。特に紀元節の歌は、私は初めてだったのだけど、これ、いい歌ですね。

「日本の心を歌う」として、ピアノ伴奏によるバリトンとテノールのプログラムがあったのですが、その一曲目が「海ゆかば」。
この曲が戦時中に、特に玉砕を伝えるラジオ放送の冒頭で使われ「天皇のために死ぬことの美化」に資した、という評価は私も聞いています。ただ、社会も教育も「大事なのは自分」「(自分の)命以上に大事なものはない」と言う現代の空気の中で、キリスト者の端くれとして「自分が信念を置くもののためなら命も顧みない」という価値観を知ってはいる(自分ができるかはわかりませんが)者としては、こういう歌には心を打たれる、というか、心を撃たれました。

第二部では、DVD「平成のご巡幸第2巻『鎮魂と平和ヘの祈り』」が上映されました。人によっては、これをしも「美化」の一言で片付けるかもしれませんが、むしろこれは反戦意識にこそ資するものだと思います。「英霊の言の葉」を読んだときもそうでしたが、このDVDも「戦争と言い、特に原爆といい、二度と誰もこんな思いをしてはいけない」と感じさせるものでした。

第三部の記念公演は、あの新田均教授による「日本の建国の理想と現代的意養」と題した公演。多岐にわたる内容でしたが特に印象に残ったのは、当たり前すぎて感謝しようとも思わないことだけど「国がある」というのはありがたいことなのだということを、ハワイ王国の滅亡や、チベット人やウイグル人の悲哀という実例を引いて説明されたこと。
これは、ユダヤ人の歴史を思う私にはリアルにわかる話でした。ヤハウェとの契約を破ったためとはいえ国を失った彼らが、どれだけの苦しみを味わってきたか。ユダヤ教の超正統派には「神が為すはずだったイスラエル再建を人が為すべきではなかった」という考えから独立を祝わない人もいますが、そういう人でも「ホロコーストから守れられるようになった」という意義を再建国に見出していると聞きます。核を持ち空母の開発にも手をつける中国、日本人の漁船を拿捕し船長を殺した韓国、日本人を拉致し落命させた北朝鮮(死亡というのは、何一つ信用ならない北朝鮮が発表しただけのことですが)。。。戦後日本の環境はそのまま「平和を愛する諸国民」というのがどれほどフィクションかという話ですが、国があってさえこうだと思うと、(キリストの再臨によって平和が成るまでは)「国があること」を感謝し祝い奉らないではいられないなと思わされます。

こうした感慨と同時に、「単なる日本人」でも「単なるキリスト者」でもない「日本人キリスト者」であり続けることの難しさも考えさせられた日でもあったのですが、長くなったので今日はこの辺りで。

靖国神社に行ってきました

2008-10-04 22:43:00 | 日本
これもバックログ消化ですが、それにしても9月2日のことだからもう1ヶ月前のことを今さらBLOGにあげています。タイムリーでなさすぎですが、その日、靖国神社に行ってきました。
ちなみに画像は、境内の売店で売っていたおみやげです。前夜に福田氏が首相を辞任する意向を表明したばかりというタイミングで、店先で写メしてると店のおばちゃんが「割引はじめたよ」と。思わず記念に買って帰ろうかと思いました。

閑話休題。

靖国には以前に二度来たことがあります。初めては、日本武道館で「皇室の伝統を守る一万人集会」に参加した帰りに、せっかく近くまで来たのだし一度のぞいてみようと境内をぶらぶらしました。ほとんど観光というか野次馬というか。二度目は日本バプテスト連盟が主催した見学会。昇殿こそしませんでしたが、詳しいクリスチャンに境内のあちこちと、遊就館を案内していただきました。
今回は、観光や見学という一歩距離を置いたアプローチではなく、「9月2日に靖国に行きたい」と思ってのことです。
8月15日は、ポツダム宣言を受諾する意思を日本政府がトルーマンに打電し、それを昭和天皇が玉音放送で国内向けに発表した日、つまり「敗戦を受け入れた日」ではあるけれど、終戦は昭和天皇が「降伏文書調印に関する詔書」を発して日本政府がミズーリ号上で降伏文書に調印した9月2日です。実際、国連(当時の訳では連合国)側では9月2日が対日戦勝記念日になってますし、だから「日本軍が矛を収めた8月15日」よりも「公式な終戦の日である9月2日」に靖国に行きたい、と思っていたのです。
政治にたずさわる人たちも、政治的に戦争が終結した9月2日に、参拝したいならすればいいと思うのだけど。「8月15日」は、死んでいった人たちに遺族が静かに語りかける日にできないがろうかなぁ。

ところで、私の祖父も靖国神社の霊璽簿に名前があります。でも、靖国神社で「戦死者である祖父個人」のことを思うという感覚はほとんどありません(墓参の時には、遺影でしか知らない祖父のことも思うけれど)。それに祖父が死んだのはわりと初期だし、銀行員だった祖父は軍で経理をしていて、戦闘員というより事務方だったのが戦闘にまきこまれて命を落としたと聞いています。だから、どこまで死を覚悟していたか、「靖国に会いに来い」と思っていたかはわからない。
しばらく前に亡くなった祖母も、生前に靖国に行ったという話しは聞いていない。幼い頃に一度、浅草寺の参道だったと思うけれど、軍服を着て片腕や片足のない人が物乞いをしていたのを見たとき、祖母が「あの人たちは生きているだけ幸せなんだよ」と行ったのが今も強烈な印象を残しているだけです。だから、私が靖国に行きたいと思うのは、戦死者の身内だからということではない。
それだから8月15日へのこだわりもないのかもしれない。そうでなくても8月15日の靖国神社周辺は静かに戦死者に思いをいたすという空気じゃなさそうだし。8月15日ではない日に靖国に行くなら、やっぱ9月2日だよなと。たまたまその日は茅場町で仕事をしていたので、少し早めに上がらせてもらって地下鉄東西線で九段下へ。そういえば「東京メトロ」は少し前まで「帝都高速度交通営団」だったっけ。

静かでした。静謐というのかな。いつかニュースで見た8月15日の喧騒とは別世界のような参道を歩きました。
本殿の前で、一礼。こういうときにいつも日本人にとっての「おじぎ」の意味を考えますが、クリスチャンの坂井はもちろん宗教行為としての「拝礼」ではなく、敬意を表す礼です。もし自分が、敬礼の所作を持つ職業であったならそうしたいところですが、そうではないので、戦死者への礼を表明するには一礼しかないわけ。
本殿の前を下手に折れて、鎮霊社へ。ここは本殿に合祀されていない日本人も含めて「諸外国の戦没者の御霊」が祭神とされている社(坂井にとってはすべての戦死者を記念する場)です。特にどうするつもりもなかったのですが来てみるとやっぱり、平和の主キリストの再臨のすみやかならんことを祈らずにいられなくなりました。(今にして思うと、二礼二拍手一礼もせずに黙祷していたのは、人が見たら奇異だったかも)。

私個人の思いとしては、坂井はヤハウェのみがGodであると信じる者であるから、靖国神社で英霊という神を拝もうとはしないし、だから「参拝」したいとも思わない。(これは「教理的にできない/するべきでない」という教条主義的な「考え」ではなく、信仰から来る「思い」です。)
けれどそれとは別に、戦死者への思いがあります。戦死者の慰霊。戦死者への感謝。戦死者の顕彰。戦死者を誇る誇り。戦死者に誓う平和。そういったものがまぜこぜになった感情からの、ただ戦死者に礼を尽くしたいという思い。
その思いをあえてまとめるなら、「英霊の言の葉」を読んだときに感じた二つのこと、「こんな思いまでして戦ってくれた、こんな思いまでして戦地に送り出した」ということと「二度と誰もこんな思いをしちゃいけない」ということに集約できると思います。靖国神社に反対する人たちの理由の一つに「戦死者を顕彰することは次の戦争の準備だ」との意見がありますが、戦死者を顕彰しても「次の戦争」の準備になんかなりません。靖国神社が戦死者やその遺族の書いたものを社頭に掲示する限り、そしてそれを「英霊の言の葉」として出版し続ける限り、それは反戦平和にこそ資するものだと考えています。(むしろ、もし靖国神社が社頭掲示をやめたりしたらその時こそ注意が必要でしょう。)

帰りに遊就館の売店で「英霊の言の葉」の第5集を購入。バプ連の見学会の時に第4集まで買っていたので。

ところで、カトリック信者である麻生太郎氏が内閣総理大臣に就任しましたが、氏は首相在任中に靖国神社に参拝してくれるでしょうか。氏の公式ホームページに2006年8月8日付けで公開している論文「靖国に弥栄(いやさか)あれ」では、戦死者追悼事業を国の責任で行うべきとしてそのための現実的かつ冷静な案を提示していて、ヒステリックで感情的な反対論や、反日勢力と妥協できれば筋などどうでもいいような解決策とは無縁な、冷静で現実的な考え方をしている人物に思えます(氏の論に私がもろ手を挙げて賛成という意味ではありません)。
これは私の漠然とした感覚ですが、日本のカトリックは、マッカーサーにビッター神父が「靖国神社を存続すべき」と答申したときから、少なくとも昭和天皇が崩御された頃まではまともだったのが、この20年で左傾化・反日化の傾向が出てきているように感じています。一方で三浦朱門氏のような方もいるのが救いですが、キリスト教が宣教地に乗り込んでいっては改宗しない王を殺したり国を滅ぼしたりしたのと同じ態度を、この現代に、しかも私の生まれ育った国に対してやるのは(同じキリストを信じる者としても)勘弁してほしいなあと。

竹島問題、日本政府は何を遠慮しているの?

2008-05-28 23:18:49 | 日本
文科省が新学習指導要領の中学校社会科の解説書に、竹島を「我が国固有の領土」と盛り込むことを検討している件で、日本政府は韓国政府の照会に対し「記述内容は未定。方針を決めた事実はない」などと回答していると。

何を遠慮しているの?
せめて「記述内容は未定。方針を決めた事実はない。しかし解説書に書くかどうかに関わらず、竹島が日本国の固有の領土であることに代わりはない。そもそも貴国に照会されるいわれがない」くらい言えないものかね。

「衆院解散して民意を問え」は自虐的じゃないかな

2008-05-18 03:44:34 | 日本
最近思うのだけど、民主党にしろ、街頭インタビューに答える有権者にしろ、「衆議院を解散して民意を問え」って言うのはよく考えるとおかしいような気がしてきた。

だってさ、前回2005年9月の衆議院選挙で投票した人はすべて、「衆議院議員の任期である4年間、国政をまかせられる人物・政党」を選択したはずだよね。
言い方をかえると「この人物・政党に、今後4年間の国政をまかせたい」という覚悟を持って投票したはずだよね。
棄権した人なんかは、「今後4年間、今のままの与党でいい」と考えたわけだよね。

なのに任期に満たないのに「解散して民意を問え」っていうのは。
有権者がそう言うのは「いや、そんな覚悟なんかしてなかったよ」ってこと?じゃあ仮に衆院解散があっても、そのあとの選挙では「気に入らなくなったらまた解散してもらえばいいや」っていう程度で投票するの?(そんなだから「日本は民主主義が未成熟」って言われるんだよ、という気がするのは私だけ?)
まして民主党がそう言うのは「国民はもっと気楽に投票してるんだし」と有権者を馬鹿にしていることじゃないか。それに、そんな無責任な有権者の選択によって(解散もなく任期が6年もある)参議院で当面(半数が改選されるまでの3年間)の過半数を与えられたからって、何の価値もないじゃないか。

民意で選ばれた政権党が必ずしも民意に沿った政治をするとは限らないから、「衆議院を解散して総選挙を」って言いたくなる気持ちはわかるけど、実際にそういってしまうのは、有権者にとっても民主党にとっても、自身をおとしめることにしかならない気がするのだけど。

え?社民党はどうかって?
あそこは昔から「解散しろ」しか言わないし。逆にいま解散総選挙があったらさらに議席を民主党にとられるだけじゃないかな。少なくとも社民党が、与党が議席を減らす分の受け皿になるとは思えないけどね。

新渡戸稲造が伝える、伊藤博文の朝鮮人観

2008-05-18 02:10:27 | 日本
伊藤博文公爵といえば、日帝による韓国蹂躙の一番の悪玉というイメージ(があるらしい)。
一方、新渡戸稲造博士といえば、日米間で「太平洋の架け橋」ならんと奔走した人格者というイメージ(があるらしい)。

ところが、新渡戸博士が伊藤公に「朝鮮の植民地化」を提案して却下された、という噂があります。

たとえば、渡部昇一が八木秀次との対談で次のように発言しています。
韓国統監府の初代統監に就いた伊藤博文は、朝鮮の植民地化を意図していなかった事実をどれほどの日本人、コリア人が知っているか。台湾経営に当たった植民地政策の専門家、新渡戸稲造が伊藤博文に植民地政策案を出したところ、「これは要らない。日本は朝鮮植民地経営のようなことをやる気はない」と突き返されたと新渡戸自身が書き残しています。
(渡部昇一、新田均、八木秀次共著「日本を貶める人々」p87より引用)

この渡部の発言は、前野徹も「亡国日本への怒りの直言」のP94でも引用しています。
ネット上でこの件について書いている人も、だいたいこの両書をもとにしているんじゃないかと思います。

となると次は、渡部はどこで「新渡戸自身が書き残している」のを読んだのかということですが、残念ながら前掲書には出典の記載がありません。
で、新渡戸稲造全集を調べることにしました。ボリュームがあるのと、市内の図書館には蔵書がないので県立図書館から取り寄せてもらわなきゃららない手間がかかるのとで、手を出したくないなとも(ちょっとだけ)思っていたのだけど、ネットではこれ以上調べるのが難しくて。

それらしき記述を見つけたのは、新渡戸稲造全集第5巻に所収の「偉人群像」という論文というかエッセイ。1931年に実業之日本社から出したもので、その中の「第廿七章 伊藤公」から引用します。
 当時伊藤公は朝鮮の統監であり、木内君は農相工の事務担当をしてをつた。伊藤公は世間でも知る通り「朝鮮は朝鮮人のため」といふ主義で、内地人の朝鮮に入り込むことを喜ばれなかつた。その反対に木内君は日本人をもつと移したい考へであつた。ゆゑにしばしば公に日本人移住の策を献策しても採用にならなかつた
 ところが内地においては桂さんが、しきりに内地人移住を企て、東拓会社を設計されてをり、かつこの議には、我輩も少しく参加したした関係もあるため、木内君がしきりに渡鮮を促したので、我輩は出かけて行つた。
 木内君の注意に「伊藤さんといふ人は、なかなか人のいふことを聞かぬ人で、僕が幾度この問題について献策したか知れんが、いつも頭を振らるゝので、少し君の力を借りたい、明日にも統監を訪問してくれ玉へ、その時は君一人で行く方がよかろう」

引用の補足をいくつか。
「木内君」というのは、農商務省商工局長の木内重四郎のことでしょう。のちに、朝鮮統監府で農商工部長官をつとめた人です。(さらにその後、勅撰の貴族院議員、官選の京都府知事。)
「桂さん」は、首相を3度つとめた桂太郎公爵のことだと思います。で、「東拓」というのは東洋拓殖株式会社ですね。東洋拓殖は、第二次桂内閣の1908年に東洋拓殖株式会社法を根拠として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立されています。朝鮮半島に土地を買って日本人農民を移住させる、という目的だったようですが、移住が進まず、朝鮮人を小作人として雇用したらしいです。
上記引用で「東拓会社を設計」というから、新渡戸博士が統監府に伊藤公を訪ねたのは、東洋拓殖設立の1908年前後から、伊藤公がハルピンで暗殺される1909年までの間ということになりますね。などと推理遊びをしてないでそろそろ本題に戻ります。

上記の「偉人群像」からの引用に、「ゆゑにしばしば公に日本人移住の策を献策し」とありますが、主語はあいまいで、新渡戸博士自身と読めないこともありません。渡部はそう読んだのでしょうか。(ちなみに引用中「公に」は「おおやけに」ではなくて、「公爵に」のつまり伊藤博文公を指します。この時代の文書や記事では爵位を省略して書く場合があるのがややこしくて、「○○伯爵」を略して「伯」というのはまだいいのだけど、「○○子爵」を略して「○○子」とか、「○○男爵」を略して「○○男」というのは、最初は何かと思いました。おっと、また脱線。)
でも、そのあと木内の発言として「僕が幾度この問題について献策したか知れん」とありますし、となると「献策したが却下された」のは新渡戸博士ではなくて木内重四郎ですよね。東洋拓殖の計画に参加していた新渡戸博士は、木内の朝鮮植民地化策に賛成はしていても、みずから伊藤公に献策したと読むことはできないと思います。

渡部が読み間違えたのでしょうか。
それとも、渡部も「新渡戸自身がこう書いている」と誰かから聞いた伝聞情報だったのか、あるいは何かの孫引きだったのか。
それとも、まだ私が見つけていないだけで、新渡戸自身がそう書いているものがまだどこかにあるのでしょうか。でもこれ以上調べるのはしんどいなぁ。何しろ新渡戸稲造全集は、会社員がヒマを見つけて調べるには量がアレだし。まして新渡戸博士が英文で書いたものの中にあるとしたら、英語アレルギーの私には探せないし。

ということで、私の調査不足の可能性もあるというのに勝手ですが、ここでは『新渡戸稲造が伊藤博文に植民地政策案を出したところ、「これは要らない。日本は朝鮮植民地経営のようなことをやる気はない」と突き返されたと新渡戸自身が書き残してい』るという事実はない(少なくとも確認できない)と結論させてください。(って、誰に許可を求めてるのだろう)

それはそれとして、「偉人群像」を読んだこと自体が私にとって収穫でした。
たとえば、伊藤公が植民地化に反対だったという話は聞いていたけれど、実際に当時を知る新渡戸博士の証言でそれを確認できたこと。
つまり、冒頭に引用した渡部の発言中で「伊藤博文は、朝鮮の植民地化を意図していなかった事実」というところについて、当時の日本を代表する国際人であり、日本国の紙幣(5千円札)の肖像にも選ばれ、現代でも教育者としての評価が高く、ついでにキリスト教徒である新渡戸稲造が、『伊藤公は「朝鮮は朝鮮人のため」という主義であった』ということ、しかもそれが当時の日本(内地)では周知のことだったということを、証言しているということです。

さらに、上記引用の続きを紹介しましょう。新渡戸博士の「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ませうか」との問いに対して、伊藤公は次のように答えているのです。
「君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは日本より遥以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かつたのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない」

なんか、伊藤博文が「日本の韓国植民地化の親玉」だなんて言ってるのは誰ですか、と小一時間問い詰めたくなります。

ここでちょっと歴史を整理しておきます。
1905年11月、「第二次日韓協約」によって韓国が日本の保護国となる。
1906年2月、韓国統監府が設置され、伊藤公が初代統監として赴任する。
1908年12月、前述の東洋拓殖会社が設立される。
1909年10月、ハルピン駅頭で伊藤公が暗殺される。(ちなみに品川区にある墓所を私が訪ねたときの写真をこちらで公開しています)。
1910年8月、「韓国併合に関する条約」により日韓併合が成立する。同月、朝鮮総督府が設置される。


新渡戸の証言によれば、伊藤公は朝鮮人に対してこの上ない敬意を持っていて、しかも「植民地化すべし」との動きからの防波堤となっていたわけです。
それを安重根が暗殺した結果、その翌年に日韓併合となったわけです。日韓併合を仮に植民地化と呼ぶなら、「安重根が伊藤博文を暗殺したことにより、韓国の植民地化が実現した。安重根は『植民地化に邪魔な伊藤公』を取り除いた、植民地化の功労者だ」ということになるわけですね。
修学旅行などで韓国に行く日本の生徒は、以上の歴史をふまえた上で、事前学習でこの『新渡戸稲造著「偉人群像」第廿七章「伊藤公」』を必読としてほしいです。正直に言うと私自身、このBLOGを書くのにいろいろ調べていて「俺、けっこう勘違いしてたな」ということが少なくありませんでした。
(ちなみに「仮に植民地化と呼ぶなら」というのは、私は日韓併合を「日本による韓国の植民地化」とは考えていないからです。もう少し正確に言うと、キリスト教徒が植民地でやったことに比べたら、日本が韓国や台湾でやったことは恥ずかしくて植民地だなどと自慢できるものではありません。
他の日本人はともかく、日本人キリスト教徒が「日本が韓国を植民地化した」というのは、「歴史上、キリスト教徒が植民地でどんな残虐非道なことをしたか」を「日本がやった程度のこと」にまで印象薄くしようとしているようにしか思えません。)

私は、安重根だけでなくすべての「テロにより自分の信条を表現する者」の手法に反対しますが、安重根の愛国心を否定することはできません。民族のために行動し、母からの「控訴すれば命乞いになる」という手紙によって粛々と死刑判決に服した彼は、少なくとも「この世で大切なのは自分の命だけ」としか言わないし教えない連中よりはるかに、人間として上等だったと思います。
結果的に安重根は、祖国を日本の植民地にしてしまった(少なくともその最後の引き金を引いた)わけですが、それは結果論でしょう。ただ、安重根が生まれてくるのが遅すぎたことを惜しみます。せめて日露戦争前、あるいは日清戦争前に、彼の祖国を保護国にした者に向かってではなく、他国に保護されなければならないような祖国にした者に向かって行動していれば。それが成功していれば。

民主党を応援するの、やぁめた

2008-03-20 17:49:21 | 日本
私は支持政党はありませんが、民主党を応援してはいました。自民党のやり方は、将来の日本を考えるとタメにならないし、二大政党制ってのはうさんくさいけど他党にも政権を担当する経験をつませないと、と思って。だから、まだ支持というほど頼りにしてないけど、とりあえず応援はしてきました。

けどね。「ガソリン値下げ隊」のパフォーマンスとかでポピュリズムを目指してるってのが見え見えになってきて、ちょっとこれはどうかなと思ってきたとこへ、今回の日銀総裁の騒ぎでしょ。

政府与党を揺さぶるのは、手段だと思ってたら実は目的だったんだね。
だとしても、そのためなら現在の世界の経済情勢下で中央銀行のトップが不在になったほうが有利ということかよ。「日本がどうなっても、党に利すればいい」というのは、政権党どころか野党第一党にもしたくない!
っていうか、こんなことやってて与党になれると思ってるんだったら、有権者を馬鹿にしてる。

それともまさか、中央銀行がトップ不在になっても大したことじゃないとでも思ってるのか?あるいは、今の世界の経済情勢を認識してないのか?
だとしたら。自分達で理解してないのに、政権とったら官僚に耳を貸しそうにない人たちに、いっときだって国の舵取りを任せたくないよ。

こりゃ早いとこ自民党に立ち直ってもらわないと。
というわけで、自民党の応援に回ることにする。

え?ほかにも政党あるだろって?
…ありましたっけ?

富士山はイイ!

2008-01-08 22:05:47 | 日本
正月早々、富士山ていいなぁと思うことが二度あった。

一度目は二日に京葉線の車窓から見た、朝の富士山。
千葉方面から見た雄姿は、晴れ渡った冬の青空を背景に正面から朝の陽を浴びて白く光り輝き、まるで絵葉書のようだった。悠然と構えていて、それでいて精悍でもある。円熟の役者が見栄を切ったかのようなポーズだ。
たとえ近付けばゴミだらけだとしても、この遠景だけで世界遺産ものなんじゃないだろうか。

二度目は六日に木更津の露天風呂から見た、日没間際の富士山。
上空はすでに宵闇で山際だけが夕焼けのオレンジ色という二層の空をバックに、特徴的な三角形の薄紫のシルエットが浮かぶ。ふもとはすでに暗闇の中で、街の灯がきらめく。そこから眼下までは、黒の一歩手前くらいに濃い紺色の海が波打っている。
村下孝造の「この国に生まれてよかった」の世界だ(あの歌には富士山も海もでてこないけど、日本の心象風景を花鳥風月に託した詞が通じるところがあると思う。)
上に書いた朝の富士山の時は「写真の腕があれば」という感じだったけど、この夕暮れの富士山は「絵心があればなぁぁぁ…」と強く思った。自分に絵心がないことがこんなに悔しいのは、人生でたった2回目だってくらい本気で悔しい。

それにしても。クリスチャンにあるまじき表現になるけど、富士山には本当に神々しさを感じる。これはもう否定できない。霊峰とまで呼ばれ、信仰の対象にまでなるのも(さすがに同意はしないけど)気持ちは理解できる。まして全国に、いや海外でも日系人が多いとこだと「なんとか富士」ができるのはよくわかる。
ずいぶん前だけど、新共同訳の翻訳関係者を囲む席で聞いた話。シナイ山だかピスガ山だかを「富士山」と訳す案が検討されたそうだ。いくら私でもそれはやりすぎと思うが、しかしそういうことだろう。富士山を雲の中へと登っていくモーセ。ふもとでは民が雷鳴に恐れおののく。

そう、ここにも「日本人にわかる伝え方」がある。
富士山のすばらしさを見よ。それは創造者のすばらしさなんだ。富士山の神々しさを感じよ。それは造った方の性質なんだ。被造物に現れた神にこそ目を!ハレルヤ!!

日の丸な風景

2006-05-21 20:00:00 | 日本
たとえば、子供の運動会での国旗掲揚。
誰に命じられたわけじゃなく、起立し帽を取り、
君が代の調べとともに旗がのぼるのを見守る。

高揚というのとはちょっと違う、といって平坦でもない心持ち。
これは私の内心の自由。
だから、誰にも強制しない。
だから、誰にも奪われない。

ただ子供たちには伝えたい。
赤組の一員なのだから、赤い旗があらわす君のチームを愛せ。
白組の一員なのだから、白い旗があらわす君のチームを愛せ。
この学校の一員なのだから、校旗があらわす君の母校を愛せ。
この国の一員なのだから、国旗があらわす君の母国を愛せ。
神の家族の一員なのだから、キリストが表す神を愛し隣人を愛せ。

理由はない。合理的な理由などいらない。
ただ愛すべきものを愛せ。
簡単じゃないってことは、とーちゃんもわかってる。
それでも、愛せ。

日露戦争終結100周年

2005-09-05 12:50:35 | 日本
今日は日露戦争終結100周年の日。1905年にポーツマス講和条約が調印された、記念すべき日だ。
講和にあたって、日本国内では講和反対運動が激しく、日比谷焼き打ち事件なども起きた。一部の好戦的勢力というよりも、国民の世論として終戦反対だったと言っていいだろう。確かに講和条件を見れば、これで日本が勝ったと言えるのかというところだ。でも当時の国際情勢とその後の世界史を思えば、アジアの小さな有色人の国がヨーロッパの強大な白人の国を相手に、五分の手打ちに持ち込んだだけでも勝利の名に値するだろう。

無論、戦争を美化するつもりはない。日露戦争が当時の日本にとって避けられないものだったとしても、戦争を避けられなくなったこと自体が失敗だろう。その後の世界史、とくに東洋の歴史にとって大きな影響を与えたのは事実としても、それが戦争で失われた人命とバランスがとれるかといえば誰も答えられないだろう。
といっても私は、歴史を見るのに現代の視点をもってしたくはない。「このことの是非は後世の歴史家が判断することだ」みたいな言葉を聞くことがあるが、後世の歴史家には、たとえば当時の日本人がロシアをどの程度脅威に感じていたかなどはわからないからだ。
これからの戦争には反対するけれど、過去の歴史は戦争も含めて、感情的に批判するよりも客観的に評価するようにしたいと思っている。そのためには、ほとんど知らない日露戦争についてももっと勉強したい。

読売新聞9月5日付社説

終戦後100年

2005-08-15 12:40:00 | 日本
今日の終戦記念日は、大東亜戦争敗戦60年にあたるということで、しばらく前からテレビなどでも特集番組が組まれています。

しかし大東亜戦争終戦60年ということ以上に、9月5日が日露戦争戦勝100年ということに関心を持っています。1905年9月5日午後3時47分にポーツマスで日露講和条約が調印されてから、今年はちょうど100年にあたるわけです。

「戦勝100年」という言い方が戦争美化につながると言われそうですが、「敗戦60年」という言い方とバランスをとろうと思っているだけです。(客観的にどちらも「戦後○年」と書こうかとも思いましたが、考えてみたら、大東亜戦争で日本が敗北したことも、日露戦争で日本が勝利したことも、どちらも客観的事実でした。終戦記念日を「敗戦記念日」と称する人たちの「敗戦を終戦と言うのはすりかえだ」という意見には賛成したいのですが、そのように主張する人は(全員じゃないけど)自虐史観に立っていることが多く、そこまでは賛成しかねるんだよなぁ。)

大東亜戦争が日本による「侵略戦争」だという意見があります。そのことの妥当性はここでは論じませんが、大東亜戦争が侵略戦争だというなら、日露戦争はロシアによる侵略戦争じゃないのか?という気がしています。(大東亜戦争も「ロシアの脅威」がなければ日本の大義名分は立たなかったと思いますが)
気がしているだけです。というのは、日露戦争についてほとんど何も知らないので、語れないのです。
防衛のために戦うことさえ認めない人たちが十把一絡げに「日露戦争も日本だけが悪者」などというのは無視しますが、だとしても日露戦争はなんだったのか。少しずつ勉強してみたいなと。

で、キリスト教徒の布忠としては、まずは内村鑑三に注目してみました。日清戦争では戦争に賛成した内村が、日露戦争ではなぜ非戦を主張したのか。そのあたりが、布忠個人に対してはヒントになりそうな気がしたので、とりあえず図書館で内村鑑三選集2「非戦論」を借りてきて、読み始めたところです。
9月3日には日露戦争勝利百周年を祝う青年の集いというイベントもあるそうで、ちょいと関心。

扶桑社版教科書

2005-07-13 23:00:00 | 日本
埼玉県大田原市で、公立中学の歴史と公民に扶桑社版教科書が採択された。
産経のサイトhttp://www.sankei.co.jp/edit/kenban/tochigi/050713/kiji01.htmlによれば、この件で大田原市役所には激励と嫌がらせの電話やメールが相次いだという。市関係者は「量的には激励の方がはるかに多く、安心した」と話しているそうだ。

この報道では、男の声で「(扶桑社の教科書採択を)やめないと、市内の子供を次々に殺す」との脅迫電話もあったとのこと。
たぶん、騒ぎを大きくしたい愉快犯だろうと思いたい。がしかし、前回の教科書改訂のときにも、市民団体の手で暴力的あるいは脅迫的な採択妨害運動が行われたことだし、左翼はそもそも「今の自分たちの目的のためなら、今までの自分たちの主義主張と矛盾してもかまわない」という考え方をする人たちなので、扶桑社版を妨害するためなら子供を人質にするような脅しぐらい平気でやりそうな気もする。

ちなみに朝日のサイトhttp://www.asahi.com/national/update/0713/TKY200507130126.htmlによると、教育委員会が開かれた会場の前では、採択に反対する住民らたったの約30人ほどが抗議集会を開き、会見後に会場を出ようとした教育長の公用車を取り囲んだという。
読売のサイトhttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050713it02.htmによると、集まった反対派は約40人で、会場の市勤労者総合福祉センターのロビー内でも抗議行動したそうで、これはやりすぎだろう。目的のためなら手段を選ばない人たちではあるけれど。ロビー内まで立ち入っての抗議行動を朝日が報じていないことからも、マスコミも「やりすぎだ」と思っていることがうかがえる。

歌うことの強制

2005-06-04 09:54:43 | 日本
布忠が卒業した大学は仏教系だった。
一年生は座禅の単位が必須だった。確か年に5回の座禅の日のうち、3回以上参禅しないと、単位が取得できなかったと思う。
やってみると座禅というのは案外おもしろかったので、私にとってはこの緩やかな「座禅の強制」はよいものだったけれど。

世には「ミッション系」とよばれる学校がある。聞くところによると、生徒は礼拝に出席しなければならないのだそうだ。神を信じていなくても礼拝をささげさせられるのだろうか。
まだ信じていない者が強制されて賛美を歌う姿を、神は喜ぶだろうか。クリスチャン教員たちはうれしいのだろうか。

賛美は強制ではないというかもしれない。だったら「歌いたくない者は歌わなくていい」とアナウンスしているのだろうか。

君が代を強制されたと訴えるクリスチャンがいる一方で、神をたたえる気持ちがなくても賛美歌を歌うことを強制するクリスチャンがいる。
日の丸に頭をさげることを強制されたというクリスチャンがいる一方で、祈りに対して「アーメン」と肯定することを強制するクリスチャンがいる。

もしミッション系の生徒が「内心の自由のため、賛美歌を拒否する」と言い出したら、クリスチャンたちはどうするのだろう。
国旗国歌は「制度」とはいえるかもしれないが、現代日本において「宗教」ではない(宗教にならないよう監視する必要はある)。客観的に見るなら、明らかに宗教である賛美歌やアーメンを強制するほうが、内心の自由とかいうものにとって悪質なんじゃないだろうか。

私は心から神をたたえる思いで神に向かって賛美の声をあげたい。だからか、神を賛美するということを知らない人が賛美歌を歌っているのを見ると、違和感を感じる。たとえばTMRが聖夜を歌ったり、スターダスト・レビューがアメージング・グレースを歌うのをTVで見たとき。あるいはファッションのようにゴスペルを歌う人たちを見たとき。カラオケで「もろびとこぞりて」を歌う人を見たとき。

そこから信仰につながることもありえるから文句はいわないが、神を賛美する心のある人にだけ、賛美歌を歌ってほしい。同じように、国を愛する心のある人にだけ、国歌を歌ってほしい。
どんなかたちでもどんな歌でも、強制があってはならないと思う。まして「強制するな」といいながら自分たちは強制する、などということは理解に苦しむ。

天皇陛下と国旗・国歌

2005-05-09 23:18:03 | 日本
以下は4月25日に行われた、ノルウェー・アイルランド訪問に先駆けての記者会見より転載。


在日外国報道協会代表質問:
 昨年の秋には天皇陛下ご自身が国歌斉唱と国旗掲揚についてご発言を述べられました。学校でこれらのことを強制的にさせることはどうお考えでしょうか。

天皇陛下:
 世界の国々が国旗,国歌を持っており,国旗,国歌を重んじることを学校で教えることは大切なことだと思います。
 国旗,国歌は国を象徴するものと考えられ,それらに対する国民の気持ちが大事にされなければなりません。
 オリンピックでは優勝選手が日章旗を持ってウィニングランをする姿が見られます。選手の喜びの表情の中には,強制された姿はありません。国旗,国歌については,国民一人一人の中で考えられていくことが望ましいと考えます。


まったく同意。
自国の国旗、国歌も、他国の国旗、国歌も重んじることを、子供たちは教えられなければならないと思う(子供たちだけではないが)。
現在の日本の民主主義では、重んじるべきことを重んじないのも「自由」ということになるらしい。それはそれでいいのかもしれないけれど、「重んじることを強制されている」と言っている教師たちが「重んじないことを子供たちに強制している」というんじゃ、自分の都合にいいように「自由」を使っているだけじゃないか。

彼らがいう「自由」を真に実現するためには、国旗を掲揚し、国歌斉唱を行事のプログラムに入れた上で、国歌を歌いたくない教師や国旗に敬意を表したくない教師は退出すればいい。
国旗と国歌に正対する教師と反対する教師、両方の姿を見せた上で、生徒一人一人の中で考えていけばいい。

だから東京都の知事も教育長も、文科省も、教師に強制はするな。

国民の休日

2005-05-04 20:00:54 | 日本
現行の祝日法では、第三条に定める「国民の休日」。
4/29を「昭和の日」とする法案が成立すると、現在は4/29である「みどりの日」が5/4になる。


「国民の休日」というのもわけわからない名称だけど、移動祝日でもないのにある年からある祝日の日付が変わるというのもなぁ。
「新郎新婦の初デートは、入社した年のみどりの日でした」と言ったときに、4/29だっけ5/4だっけなんてことになるのか。「新みどりの日」とかしておかないと、ややこしいことになりそうな。

もっとも、今も「4/29はみどりの日」と意識している人って、あまりいないと思うけど。「ゴールデンウィークの初日」くらいだよね。
祝日法では「みどりの日」は、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日なので、別に4/29でも5/4でもかまわないんだけど。

みどりの日

2005-04-29 20:00:07 | 日本
昔は「(昭和)天皇誕生日」
現在は「みどりの日」
平成19年からは「昭和の日」?

4/29を「昭和の日」とする法案が4/5に衆院を通過している。この法案の提出はこれで3回目で、過去2回は衆院解散により廃案となっている。
ことに平成12年の1回目の提出の際は、森喜朗首相(当時)のいわゆる「神の国」発言問題で衆院解散となっての廃案だった。


何しろ生まれてから大学の途中まで昭和時代を生きたので、昭和に愛着はあるのだけど、正直言って今さら「昭和の日」とする必要性がわからない。
昭和天皇が亡くなった時点で、「みどりの日」ではなく「昭和の日」となっていたら、何の抵抗も感じなかったと思うんだけどね。

「昭和の日」推進ネットのサイトでは
趣旨としてはおよそ「昭和天皇を偲ぶとともに、昭和の苦難とともに、昭和の苦難と復興をかへりみ、国の将来に思いをいたす」といった内容を提案します。
としている。

まず万世一系の歴代天皇のうち昭和天皇についてだけ「偲ぶ」日を作る理由がわからない。(ちなみに2月11日は神武天皇を偲ぶ日ではありません)
日本の近代化は明治天皇の御稜威のもとに進められたのだし、大正デモクラシーという言葉を学校で習うくらいだから日本の民主主義は大正天皇の御世にその萌芽がある。
明治、大正、昭和の時代を経て今の近代日本があるわけで、今上陛下の天皇誕生日をお祝いする12月23日に、三陛下の遺徳を偲びつつ今上陛下の御世が「平らかに成る」ようにと思いをいたすのが一番いいんじゃないだろうか。でなければ、4/29を昭和の日にすると同時に、8月31日を大正の日にして、11月3日を明治の日に変更してほしい。

「昭和の苦難と復興」といって、大変な時代だった、そこから私たちはがんばってきたんだ、これからもがんばっていこう、というのは悪くないけど、「がんばってきた」の結果が現在の破綻直前(経済的にも人道的にも)な日本なわけで。
そんな現状では「国の将来に思いをいたす」というのも付け足しっぽいというか、正直に書くなら「国の将来を憂う」と言うべきなんじゃないだろうか。(「国」「憂」の字を使うとなんか右翼の街宣車に書かれたコピーみたいだけど)

昭和を偲ぶのも、昭和から未来を思うのも、昭和の時代の人間だけでいいと思う。まもなく平成生まれも有権者になろうというこの時、ただでさえ昭和世代を背負っていかなきゃいけない平成世代に、さらに「昭和の苦難と復興」まで背負わせなくてもいいんじゃないかなぁ。

というわけで、「昭和の日」に対しては積極的に反対もしないけれど、積極的に賛成する意義も今のところ見つけられない。
昭和の日ができたら、左翼団体がデモをやれる日が増えて喜びそうだというところだけ、ちょっと引っかかるかも。