伊藤博文公爵といえば、日帝による韓国蹂躙の一番の悪玉というイメージ(があるらしい)。
一方、新渡戸稲造博士といえば、日米間で「太平洋の架け橋」ならんと奔走した人格者というイメージ(があるらしい)。
ところが、新渡戸博士が伊藤公に「朝鮮の植民地化」を提案して却下された、という噂があります。
たとえば、渡部昇一が八木秀次との対談で次のように発言しています。
この渡部の発言は、前野徹も「亡国日本への怒りの直言」のP94でも引用しています。
ネット上でこの件について書いている人も、だいたいこの両書をもとにしているんじゃないかと思います。
となると次は、渡部はどこで「新渡戸自身が書き残している」のを読んだのかということですが、残念ながら前掲書には出典の記載がありません。
で、新渡戸稲造全集を調べることにしました。ボリュームがあるのと、市内の図書館には蔵書がないので県立図書館から取り寄せてもらわなきゃららない手間がかかるのとで、手を出したくないなとも(ちょっとだけ)思っていたのだけど、ネットではこれ以上調べるのが難しくて。
それらしき記述を見つけたのは、新渡戸稲造全集第5巻に所収の「偉人群像」という論文というかエッセイ。1931年に実業之日本社から出したもので、その中の「第廿七章 伊藤公」から引用します。
引用の補足をいくつか。
「木内君」というのは、農商務省商工局長の木内重四郎のことでしょう。のちに、朝鮮統監府で農商工部長官をつとめた人です。(さらにその後、勅撰の貴族院議員、官選の京都府知事。)
「桂さん」は、首相を3度つとめた桂太郎公爵のことだと思います。で、「東拓」というのは東洋拓殖株式会社ですね。東洋拓殖は、第二次桂内閣の1908年に東洋拓殖株式会社法を根拠として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立されています。朝鮮半島に土地を買って日本人農民を移住させる、という目的だったようですが、移住が進まず、朝鮮人を小作人として雇用したらしいです。
上記引用で「東拓会社を設計」というから、新渡戸博士が統監府に伊藤公を訪ねたのは、東洋拓殖設立の1908年前後から、伊藤公がハルピンで暗殺される1909年までの間ということになりますね。などと推理遊びをしてないでそろそろ本題に戻ります。
上記の「偉人群像」からの引用に、「ゆゑにしばしば公に日本人移住の策を献策し」とありますが、主語はあいまいで、新渡戸博士自身と読めないこともありません。渡部はそう読んだのでしょうか。(ちなみに引用中「公に」は「おおやけに」ではなくて、「公爵に」のつまり伊藤博文公を指します。この時代の文書や記事では爵位を省略して書く場合があるのがややこしくて、「○○伯爵」を略して「伯」というのはまだいいのだけど、「○○子爵」を略して「○○子」とか、「○○男爵」を略して「○○男」というのは、最初は何かと思いました。おっと、また脱線。)
でも、そのあと木内の発言として「僕が幾度この問題について献策したか知れん」とありますし、となると「献策したが却下された」のは新渡戸博士ではなくて木内重四郎ですよね。東洋拓殖の計画に参加していた新渡戸博士は、木内の朝鮮植民地化策に賛成はしていても、みずから伊藤公に献策したと読むことはできないと思います。
渡部が読み間違えたのでしょうか。
それとも、渡部も「新渡戸自身がこう書いている」と誰かから聞いた伝聞情報だったのか、あるいは何かの孫引きだったのか。
それとも、まだ私が見つけていないだけで、新渡戸自身がそう書いているものがまだどこかにあるのでしょうか。でもこれ以上調べるのはしんどいなぁ。何しろ新渡戸稲造全集は、会社員がヒマを見つけて調べるには量がアレだし。まして新渡戸博士が英文で書いたものの中にあるとしたら、英語アレルギーの私には探せないし。
ということで、私の調査不足の可能性もあるというのに勝手ですが、ここでは『新渡戸稲造が伊藤博文に植民地政策案を出したところ、「これは要らない。日本は朝鮮植民地経営のようなことをやる気はない」と突き返されたと新渡戸自身が書き残してい』るという事実はない(少なくとも確認できない)と結論させてください。(って、誰に許可を求めてるのだろう)
それはそれとして、「偉人群像」を読んだこと自体が私にとって収穫でした。
たとえば、伊藤公が植民地化に反対だったという話は聞いていたけれど、実際に当時を知る新渡戸博士の証言でそれを確認できたこと。
つまり、冒頭に引用した渡部の発言中で「伊藤博文は、朝鮮の植民地化を意図していなかった事実」というところについて、当時の日本を代表する国際人であり、日本国の紙幣(5千円札)の肖像にも選ばれ、現代でも教育者としての評価が高く、ついでにキリスト教徒である新渡戸稲造が、『伊藤公は「朝鮮は朝鮮人のため」という主義であった』ということ、しかもそれが当時の日本(内地)では周知のことだったということを、証言しているということです。
さらに、上記引用の続きを紹介しましょう。新渡戸博士の「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ませうか」との問いに対して、伊藤公は次のように答えているのです。
なんか、伊藤博文が「日本の韓国植民地化の親玉」だなんて言ってるのは誰ですか、と小一時間問い詰めたくなります。
ここでちょっと歴史を整理しておきます。
1905年11月、「第二次日韓協約」によって韓国が日本の保護国となる。
1906年2月、韓国統監府が設置され、伊藤公が初代統監として赴任する。
1908年12月、前述の東洋拓殖会社が設立される。
1909年10月、ハルピン駅頭で伊藤公が暗殺される。(ちなみに品川区にある墓所を私が訪ねたときの写真をこちらで公開しています)。
1910年8月、「韓国併合に関する条約」により日韓併合が成立する。同月、朝鮮総督府が設置される。
新渡戸の証言によれば、伊藤公は朝鮮人に対してこの上ない敬意を持っていて、しかも「植民地化すべし」との動きからの防波堤となっていたわけです。
それを安重根が暗殺した結果、その翌年に日韓併合となったわけです。日韓併合を仮に植民地化と呼ぶなら、「安重根が伊藤博文を暗殺したことにより、韓国の植民地化が実現した。安重根は『植民地化に邪魔な伊藤公』を取り除いた、植民地化の功労者だ」ということになるわけですね。
修学旅行などで韓国に行く日本の生徒は、以上の歴史をふまえた上で、事前学習でこの『新渡戸稲造著「偉人群像」第廿七章「伊藤公」』を必読としてほしいです。正直に言うと私自身、このBLOGを書くのにいろいろ調べていて「俺、けっこう勘違いしてたな」ということが少なくありませんでした。
(ちなみに「仮に植民地化と呼ぶなら」というのは、私は日韓併合を「日本による韓国の植民地化」とは考えていないからです。もう少し正確に言うと、キリスト教徒が植民地でやったことに比べたら、日本が韓国や台湾でやったことは恥ずかしくて植民地だなどと自慢できるものではありません。
他の日本人はともかく、日本人キリスト教徒が「日本が韓国を植民地化した」というのは、「歴史上、キリスト教徒が植民地でどんな残虐非道なことをしたか」を「日本がやった程度のこと」にまで印象薄くしようとしているようにしか思えません。)
私は、安重根だけでなくすべての「テロにより自分の信条を表現する者」の手法に反対しますが、安重根の愛国心を否定することはできません。民族のために行動し、母からの「控訴すれば命乞いになる」という手紙によって粛々と死刑判決に服した彼は、少なくとも「この世で大切なのは自分の命だけ」としか言わないし教えない連中よりはるかに、人間として上等だったと思います。
結果的に安重根は、祖国を日本の植民地にしてしまった(少なくともその最後の引き金を引いた)わけですが、それは結果論でしょう。ただ、安重根が生まれてくるのが遅すぎたことを惜しみます。せめて日露戦争前、あるいは日清戦争前に、彼の祖国を保護国にした者に向かってではなく、他国に保護されなければならないような祖国にした者に向かって行動していれば。それが成功していれば。
一方、新渡戸稲造博士といえば、日米間で「太平洋の架け橋」ならんと奔走した人格者というイメージ(があるらしい)。
ところが、新渡戸博士が伊藤公に「朝鮮の植民地化」を提案して却下された、という噂があります。
たとえば、渡部昇一が八木秀次との対談で次のように発言しています。
韓国統監府の初代統監に就いた伊藤博文は、朝鮮の植民地化を意図していなかった事実をどれほどの日本人、コリア人が知っているか。台湾経営に当たった植民地政策の専門家、新渡戸稲造が伊藤博文に植民地政策案を出したところ、「これは要らない。日本は朝鮮植民地経営のようなことをやる気はない」と突き返されたと新渡戸自身が書き残しています。
(渡部昇一、新田均、八木秀次共著「日本を貶める人々」p87より引用)
この渡部の発言は、前野徹も「亡国日本への怒りの直言」のP94でも引用しています。
ネット上でこの件について書いている人も、だいたいこの両書をもとにしているんじゃないかと思います。
となると次は、渡部はどこで「新渡戸自身が書き残している」のを読んだのかということですが、残念ながら前掲書には出典の記載がありません。
で、新渡戸稲造全集を調べることにしました。ボリュームがあるのと、市内の図書館には蔵書がないので県立図書館から取り寄せてもらわなきゃららない手間がかかるのとで、手を出したくないなとも(ちょっとだけ)思っていたのだけど、ネットではこれ以上調べるのが難しくて。
それらしき記述を見つけたのは、新渡戸稲造全集第5巻に所収の「偉人群像」という論文というかエッセイ。1931年に実業之日本社から出したもので、その中の「第廿七章 伊藤公」から引用します。
当時伊藤公は朝鮮の統監であり、木内君は農相工の事務担当をしてをつた。伊藤公は世間でも知る通り「朝鮮は朝鮮人のため」といふ主義で、内地人の朝鮮に入り込むことを喜ばれなかつた。その反対に木内君は日本人をもつと移したい考へであつた。ゆゑにしばしば公に日本人移住の策を献策しても採用にならなかつた。
ところが内地においては桂さんが、しきりに内地人移住を企て、東拓会社を設計されてをり、かつこの議には、我輩も少しく参加したした関係もあるため、木内君がしきりに渡鮮を促したので、我輩は出かけて行つた。
木内君の注意に「伊藤さんといふ人は、なかなか人のいふことを聞かぬ人で、僕が幾度この問題について献策したか知れんが、いつも頭を振らるゝので、少し君の力を借りたい、明日にも統監を訪問してくれ玉へ、その時は君一人で行く方がよかろう」
引用の補足をいくつか。
「木内君」というのは、農商務省商工局長の木内重四郎のことでしょう。のちに、朝鮮統監府で農商工部長官をつとめた人です。(さらにその後、勅撰の貴族院議員、官選の京都府知事。)
「桂さん」は、首相を3度つとめた桂太郎公爵のことだと思います。で、「東拓」というのは東洋拓殖株式会社ですね。東洋拓殖は、第二次桂内閣の1908年に東洋拓殖株式会社法を根拠として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立されています。朝鮮半島に土地を買って日本人農民を移住させる、という目的だったようですが、移住が進まず、朝鮮人を小作人として雇用したらしいです。
上記引用で「東拓会社を設計」というから、新渡戸博士が統監府に伊藤公を訪ねたのは、東洋拓殖設立の1908年前後から、伊藤公がハルピンで暗殺される1909年までの間ということになりますね。などと推理遊びをしてないでそろそろ本題に戻ります。
上記の「偉人群像」からの引用に、「ゆゑにしばしば公に日本人移住の策を献策し」とありますが、主語はあいまいで、新渡戸博士自身と読めないこともありません。渡部はそう読んだのでしょうか。(ちなみに引用中「公に」は「おおやけに」ではなくて、「公爵に」のつまり伊藤博文公を指します。この時代の文書や記事では爵位を省略して書く場合があるのがややこしくて、「○○伯爵」を略して「伯」というのはまだいいのだけど、「○○子爵」を略して「○○子」とか、「○○男爵」を略して「○○男」というのは、最初は何かと思いました。おっと、また脱線。)
でも、そのあと木内の発言として「僕が幾度この問題について献策したか知れん」とありますし、となると「献策したが却下された」のは新渡戸博士ではなくて木内重四郎ですよね。東洋拓殖の計画に参加していた新渡戸博士は、木内の朝鮮植民地化策に賛成はしていても、みずから伊藤公に献策したと読むことはできないと思います。
渡部が読み間違えたのでしょうか。
それとも、渡部も「新渡戸自身がこう書いている」と誰かから聞いた伝聞情報だったのか、あるいは何かの孫引きだったのか。
それとも、まだ私が見つけていないだけで、新渡戸自身がそう書いているものがまだどこかにあるのでしょうか。でもこれ以上調べるのはしんどいなぁ。何しろ新渡戸稲造全集は、会社員がヒマを見つけて調べるには量がアレだし。まして新渡戸博士が英文で書いたものの中にあるとしたら、英語アレルギーの私には探せないし。
ということで、私の調査不足の可能性もあるというのに勝手ですが、ここでは『新渡戸稲造が伊藤博文に植民地政策案を出したところ、「これは要らない。日本は朝鮮植民地経営のようなことをやる気はない」と突き返されたと新渡戸自身が書き残してい』るという事実はない(少なくとも確認できない)と結論させてください。(って、誰に許可を求めてるのだろう)
それはそれとして、「偉人群像」を読んだこと自体が私にとって収穫でした。
たとえば、伊藤公が植民地化に反対だったという話は聞いていたけれど、実際に当時を知る新渡戸博士の証言でそれを確認できたこと。
つまり、冒頭に引用した渡部の発言中で「伊藤博文は、朝鮮の植民地化を意図していなかった事実」というところについて、当時の日本を代表する国際人であり、日本国の紙幣(5千円札)の肖像にも選ばれ、現代でも教育者としての評価が高く、ついでにキリスト教徒である新渡戸稲造が、『伊藤公は「朝鮮は朝鮮人のため」という主義であった』ということ、しかもそれが当時の日本(内地)では周知のことだったということを、証言しているということです。
さらに、上記引用の続きを紹介しましょう。新渡戸博士の「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ませうか」との問いに対して、伊藤公は次のように答えているのです。
「君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは日本より遥以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かつたのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない」
なんか、伊藤博文が「日本の韓国植民地化の親玉」だなんて言ってるのは誰ですか、と小一時間問い詰めたくなります。
ここでちょっと歴史を整理しておきます。
1905年11月、「第二次日韓協約」によって韓国が日本の保護国となる。
1906年2月、韓国統監府が設置され、伊藤公が初代統監として赴任する。
1908年12月、前述の東洋拓殖会社が設立される。
1909年10月、ハルピン駅頭で伊藤公が暗殺される。(ちなみに品川区にある墓所を私が訪ねたときの写真をこちらで公開しています)。
1910年8月、「韓国併合に関する条約」により日韓併合が成立する。同月、朝鮮総督府が設置される。
新渡戸の証言によれば、伊藤公は朝鮮人に対してこの上ない敬意を持っていて、しかも「植民地化すべし」との動きからの防波堤となっていたわけです。
それを安重根が暗殺した結果、その翌年に日韓併合となったわけです。日韓併合を仮に植民地化と呼ぶなら、「安重根が伊藤博文を暗殺したことにより、韓国の植民地化が実現した。安重根は『植民地化に邪魔な伊藤公』を取り除いた、植民地化の功労者だ」ということになるわけですね。
修学旅行などで韓国に行く日本の生徒は、以上の歴史をふまえた上で、事前学習でこの『新渡戸稲造著「偉人群像」第廿七章「伊藤公」』を必読としてほしいです。正直に言うと私自身、このBLOGを書くのにいろいろ調べていて「俺、けっこう勘違いしてたな」ということが少なくありませんでした。
(ちなみに「仮に植民地化と呼ぶなら」というのは、私は日韓併合を「日本による韓国の植民地化」とは考えていないからです。もう少し正確に言うと、キリスト教徒が植民地でやったことに比べたら、日本が韓国や台湾でやったことは恥ずかしくて植民地だなどと自慢できるものではありません。
他の日本人はともかく、日本人キリスト教徒が「日本が韓国を植民地化した」というのは、「歴史上、キリスト教徒が植民地でどんな残虐非道なことをしたか」を「日本がやった程度のこと」にまで印象薄くしようとしているようにしか思えません。)
私は、安重根だけでなくすべての「テロにより自分の信条を表現する者」の手法に反対しますが、安重根の愛国心を否定することはできません。民族のために行動し、母からの「控訴すれば命乞いになる」という手紙によって粛々と死刑判決に服した彼は、少なくとも「この世で大切なのは自分の命だけ」としか言わないし教えない連中よりはるかに、人間として上等だったと思います。
結果的に安重根は、祖国を日本の植民地にしてしまった(少なくともその最後の引き金を引いた)わけですが、それは結果論でしょう。ただ、安重根が生まれてくるのが遅すぎたことを惜しみます。せめて日露戦争前、あるいは日清戦争前に、彼の祖国を保護国にした者に向かってではなく、他国に保護されなければならないような祖国にした者に向かって行動していれば。それが成功していれば。