職務の一つであるである「死刑執行命令書」へのサインを拒否したまま、杉浦法務大臣が小泉内閣退陣により職を辞する。
私個人も含めて国民それぞれがが死刑廃止に賛成か反対かは別として、行政機関における司法の責任者が、職務の執行を拒否してそれで済むというのはどうなんだろう。法学の素人なりに考えてみた。
個人的の意思で死刑を執行しないことが許されるというのは、他の刑も執行しないことが許されることになる。法相のサジ加減で死刑執行が行われないのなら、誰かのサジ加減で懲役刑や罰金刑も執行しないことが許されるとういことだ。
もし、死刑だけが特別に許されるというなら、「法のもとの平等」は失われるし、「どうせ罪を犯すなら、死刑判決を受けるところまでやっちまえ」という世の中になる。あるいは、死刑判決を受けた者の縁故者がワイロを使って法相にサインをさせないということもできるようになる。
そもそも、死刑という判決は裁判所つまり司法が決定したものだろう。法務大臣は内閣つまり行政だ。
司法の決定を行政が無視することが許されるわけだ。
死刑廃止論者は、杉浦法相の態度を賞賛するかもしれない。けれど以上のように考えてくると、杉浦法相のしたことは、国民にとって非常に危険な政府への道を開くものだ。
たとえば、地位やコネのある者がスピード違反など危険な運転をして、司法がそれを有罪と認めたとしても、もみ消すことができる。
たとえば、行政による土地収用などに裁判所が待ったをかけても、無視することができる。
杉浦法相は就任時に「(死刑執行命令書に)私はサインしません。私の宗教観というか哲学の問題だ」と述べたという。その直後に発言を撤回したそうだが、結局は発言のとおりに押し通した。
要するに確信犯だったのだし、同時に「閣僚が発言を撤回しても、それはかたちだけのことだ」ということを体現したということでもある。
針小棒大と思われるかもしれない。
けれど、法務大臣というのは、行政の中での法に関する責任者だろうと思うのだが、そういう人が法を無視するることがゆるされたということは、日本はやはり三権分立していなくて行政が王様だということだろう。
法相が死刑執行命令書にサインしなくてすむようになるのは、死刑制度が廃止されたあとのことだ。
私個人も含めて国民それぞれがが死刑廃止に賛成か反対かは別として、行政機関における司法の責任者が、職務の執行を拒否してそれで済むというのはどうなんだろう。法学の素人なりに考えてみた。
個人的の意思で死刑を執行しないことが許されるというのは、他の刑も執行しないことが許されることになる。法相のサジ加減で死刑執行が行われないのなら、誰かのサジ加減で懲役刑や罰金刑も執行しないことが許されるとういことだ。
もし、死刑だけが特別に許されるというなら、「法のもとの平等」は失われるし、「どうせ罪を犯すなら、死刑判決を受けるところまでやっちまえ」という世の中になる。あるいは、死刑判決を受けた者の縁故者がワイロを使って法相にサインをさせないということもできるようになる。
そもそも、死刑という判決は裁判所つまり司法が決定したものだろう。法務大臣は内閣つまり行政だ。
司法の決定を行政が無視することが許されるわけだ。
死刑廃止論者は、杉浦法相の態度を賞賛するかもしれない。けれど以上のように考えてくると、杉浦法相のしたことは、国民にとって非常に危険な政府への道を開くものだ。
たとえば、地位やコネのある者がスピード違反など危険な運転をして、司法がそれを有罪と認めたとしても、もみ消すことができる。
たとえば、行政による土地収用などに裁判所が待ったをかけても、無視することができる。
杉浦法相は就任時に「(死刑執行命令書に)私はサインしません。私の宗教観というか哲学の問題だ」と述べたという。その直後に発言を撤回したそうだが、結局は発言のとおりに押し通した。
要するに確信犯だったのだし、同時に「閣僚が発言を撤回しても、それはかたちだけのことだ」ということを体現したということでもある。
針小棒大と思われるかもしれない。
けれど、法務大臣というのは、行政の中での法に関する責任者だろうと思うのだが、そういう人が法を無視するることがゆるされたということは、日本はやはり三権分立していなくて行政が王様だということだろう。
法相が死刑執行命令書にサインしなくてすむようになるのは、死刑制度が廃止されたあとのことだ。