靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「ギフテッド」と呼ばれる人々整理

2013-11-16 00:22:31 | 「ギフテッド」教育について
「ギフテッドチャイルド育児」カテゴリーの皆さんの記事を読ませていただき、私の中で少しこんがらがっていたことを整理してみました。



Ⅰ.「ギフト」について

「ギフトは全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられたギフトを伸ばしていこう」

という言い回しで浮かぶのは、こんな図です。


ところが、特に教育現場では「際立ったギフトAを持つ者(緑色部分)」のみが「ギフトテッド」として言及されることが多いため、

上の言い回しは、
「『際立ったギフトA』は全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられた『際立ったギフトA』を伸ばしていこう」とも捉えられてしまう。

ここから、「いやいや『際立ったギフトAを持つ集団』とは万人を含むものでなく特殊なんです」と、「食い違い」が出てくるように思います。

この「ギフテッド」という言葉が難しいですね。なにかいい名称はないものかと思いますが、何十年もの研究の積み重ねのある「ギフテッド」という名称を今更どうこうというわけにもいかないでしょう。

ただ用いる場合はその言葉の「意味の層」を意識する必要があるのだと、心に留めていきます。




Ⅱ:種類そして程度の様々な「ギフト」

図1を眺めている者としては、「なぜ『際立ったギフトAを持っている者』だけが、教育現場では『ギフテッド』と呼ばれるのだろう? 語義的にはBCDを際立って持っている人だって『ギフテッド』ではないか」という疑問が湧いてきます。そしてここに、私自身、学校で子ども達が「ギフテッド」という名称でくくられることへの「違和感」があります。

その問いへの答えは、「ギフトA」とは、現代の学問や知性の中心とされる「言語知能」や「論理数学的知能」を指しており、現代の学校は主にギフトAを磨くための場だからということになるのでしょう。

それでもなあ、と思うのです、そういった能力だけでない「知のあり方」にも価値が置かれることで、世界はもっと豊かになるのではないか。例えば多重知能理論(Multiple Intelligence)を提唱した心理学者のハワード・ガードナー(Howard Gardner)博士の言う、「音楽的知能」、「身体運動的知能」、「空間知能」、「対人的知能」、「内省的知能」、「博物的知能」、「霊的知能」、「実存的知能」など、または、相手の心を読む能力、共感する能力、無私の能力、心遣い能力など(「音楽的」や「身体的運動的」能力は、通常の学校外で「ギフテッド」や「タレンティッド」として捉えられますが)。

また、普通学級で「ギフテッド」のカリキュラムを用いることにより、より多くの生徒が「『ギフテッド』とみなされる結果を出すようになった」といった実験結果もあるように(Duke大学にて)、「ギフテッド」と線引きするだけでなく、「ギフテッド」と認識されている子ども達以外の「ギフトA」の可能性を、引き出し伸ばす教育も重要です。


こういった意味から、教育とは、子供達『それぞれの(種類も程度も含め)』ギフトを伸ばすものであってほしいと願っています。





Ⅲ .「ギフテッド」と呼ばれる人々

現在「ギフテッド」と呼ばれる人々というのは、以下の二つあるように思います。

1.IQ優秀者もしくは学力優秀者 (図1「ギフトA」の緑色部分)

2.より深く、もしくは特殊な角度から世界を認知する人々
対象に極端にのめり込む傾向などが見られる。専門家によって定義も様々。




・2は1の部分を含み、1より大きな集団。

一昔前までは(60年代以前)、もっぱら1のみが「ギフテッド」とされてきた。現在ギフテッド専門家の研究は2まで進んでいるが、最もギフテッドについての研究が進んでいるとされる米国でも、実際の教育現場では、今でも結局ほとんどの場合1しか掬い取られていない。
 それは2をはかるのが難しいという理由によるところが大きい。2をはかる今のところの唯一の手段は、専門家による観察や主観

・2の多くの人々は、学校現場で見出されることなく支援を受けられず、成人しても社会の中で苦しんでいることがある。不登校、引きこもり層にも見られるかもしれない。

・また日本では「ギフテッド」という概念が行き渡っていないため、「発達障害」と誤診されたり、2E(発達障害とギフテッドの両方を持ち合わせた人々)層の凸面への支援がなおざりにされているという問題も見られる。

・日本の場合は、「学力優秀者」ならば、よりチャレンジングな学校へ進むことで、知的面の欲求は満たされる。それでもそれは「ギフテッド」人口のほんの一部ともいえる。

・2の研究が進み、「はかる手段」が発達することで、図3のように、より「多重な知能」が組み込まれていくことにもなるのではないか。





Ⅳ.境界の意味

こうしたカテゴリー分けにどんな意味があるのか? 

一つには必要な支援を受けるため

そしてもう一つには、自分や他者をより理解するため
 これまで悩み苦しんできた理由が納得でき、今後の対処に繋がるということもあるでしょう。「ギフテッド」であるという自覚が、辛い時に自分を支えるものになる、また「より多くを持っている者」としての責任のようなものが、自分を励まし明日へと進ませることにもなるかもしれません。そして他者に「ギフテッド」な部分を見出すことで、他者の言動への理解が進む、といったこともあるかもしれません。

またカテゴリー内に入っていたとしても、カテゴリー分けには何の意味を見出さない人々もいるでしょう。私自身そんな「ギフテッド」だろうと思われる人々を周りに多く見てきました。


最後に、私自身は、2と「マジョリティー」の境界は曖昧なものだろうと思っています。人は変わる可能性がある、体験や出会いなどを通し2に流れ込む可能性もある、そしてその可能性は一生続くと。そもそも後天的なものは「ギフテッド」とは呼ばないと言うことならば、元々持っていたつぼみが後に開花する可能性は一生続くと言ってもいいでしょう。「境界は流動的」、そう感じています。





支援が必要な方々により多くの手が差し伸べられること、そしてより多様な「ギフト」が掬い取られ、生かされていくこと、願っています。

今の時点での整理はここまでですが、これからも学んでいきますね。

皆様のそれぞれ異なる「ギフト」に、エールを送りつつ!


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4 コメント

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Unknown (ユジニオンマ)
2013-11-16 10:39:27
なるほどー。非常に分かりやすい図と、整理された情報を下さって、頭がすっきりしました。ありがとうございます!
私も「ギフテッド」と言うときに、アカデミックな世界ではあまり評価されることのない「ギフト」の多様性にも目を向けたく思い、その境界線はただただ、「支援クラス」のため、便宜上、設けられているものなので、そこにあまり囚われたくないなという思いを、だんだんと持つようになりました。現在、日本には「支援クラス」などないので、境界線を意識することはあまり意味がない事だとも言えますが、ただ、そのようなカテゴリーがある事を知る事によって、『脳神経学的な違いがもたらす一つの人間のコンディション』(私の言葉ではありませんが)を持つ人々がいるという事に気が付くことができ、そのようなコンディションを有する者を育てている人、または、本人にとってそれが大きな助けにはなりますね。そういう観点から見ると、他の人と比べて、「うちの子はギフテッドか、そうでないか?」と自問してしまうのは、的外れな事でありますね。マチカさんの図で上手く表現されているように、私も「ある特殊なギフトを有している」=「ギフテッド教育が必要なギフテッド児」であることは、その人自身のアイデンティティ「自分が自分であること」を表しているわけではないということを意識し、その他多くの、アカデミックな世界ではあまり評価されない「ギフト」にも目を向けたく、「自分らしく生きること」に堂々とありたい、そんな子に育ってほしいという願いがあります。そのため、マチカさんがたびたび表現しておられたと感じているのですが、「自然」豊かな環境で育つ事もすごく大事だと感じています。「自然」の中に身を置くことによって、「知る」ことができる事柄は無限だと感じます。特に、ここソウルで暮らす私は余計にそう感じます。「自然」は、子どもの知的好奇心とエネルギーを覆って余りある遥かに大きな力で子ども達を治め、自然がない「教室」にだけ閉じ込められている子ども達が環境不適応を起こすのは、当然な事だと思います。
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Unknown (まめっちmama)
2013-11-17 02:14:52
こんにちは。今回のこの記事はとてもわかりやすく
ギフテッドというものの概念を説明していると
思います。特別な突出部分を持ったギフトAと誰もが
持っているギフトB、C, Dなどの関係が実に適切に
図解されていて、素晴らしいと思います。
ここの解釈のすれ違いがギフカテ内でも意見が分か
れるところなんだと思います。
突出部を持つ子供達だけが支援を受けるのではなく
生きづらさを抱えているギフトA以外の集団も含めて
支援ができるといいですね。境界は流動的という
言葉に強く同意します。
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ユジニオンマさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-11-17 12:42:47
読んでいただきありがとうございます! ユジニオンマ(以前私ユジンママさんとお呼びしてましたね、笑)さんが、ブログにまとめられていた「ギフテッドとは?」とても興味深かったです。いただいたコメントで申し訳ないです。

図にしてみることで、私自身こんがらがっていた頭が少し整いました。図1はユジニオンマさんがおっしゃった「キリスト教的世界観」に通じるものがあるようにも思います。

韓国の支援クラスでは、徹底的に言語的数学的論理的思考が鍛えられるのでしょうね。現在の知を司るそれらも大切だけれど、他の面にも重きをおいていきたいというユジニオンマさんの気持ち、分かります。

本当ですね、カテゴリーを設けることで、特殊な特性を持った人々の存在が明らかになり、他者や自分に対する理解が深まるということはありますね。

「ギフテッド」という枠組みに囚われることなく、様々な可能性を探索し、堂々と生きていって欲しい、私もユジニオンマさんのようにそう思っています。

子ども達には、「ギフト」は皆に与えられている、自分に与えられた「ギフト」を大切に磨いていくこと、「ギフト」を与えられた意味とは、少しでもこの世に還元するためにあるのだから、そんなことを話しています。

自然のある環境が大切だと感じられるんですね。おっしゃるとおり、私も自然というのは、人の意識を遥かに超えた多くのことを教えてくれるとつくづく感じています。と大きなことを言いながら、さっむ~いと暖かい部屋でぬくぬくと過ごすことの多い今日この頃なのですが。(笑)

山を眺め、森を歩き、海の匂いに包まれ、そうすることで、今までどれほど力をもらってきたか分かりません。自然には、精神、身体、様々な調整作用があるのだろうなと実感しています。韓国にも日本にも、まだまだ車を走らせればたくさんの自然がありますね。アジアの自然も細やかで本当に美しいです。

コメントありがとうございます! ソウルも冷え込んできましたか。子ども達は今雪の中、頭に懐中電灯つけて(日照時間も短くなってきましたからね)転げまわってます。(笑) 今週も良い日々をお過ごしください!





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まめっちmamaさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-11-18 00:12:23
そう思っていただけて良かったです。ありがとうございます。

一つの言葉によって、思い浮かべる意味が人によってあまりにばらばらであると、やはり話し合いもかみ合わなくなっていきますね。「ギフテッド」の定義は専門家によっても様々ですから、なかなか難しいですね。「ギフト」については、世界観の違いなども含まれますからね。

本当ですね、テストのスコアなどで簡単に選り分けてしまうのでなく、そういったものでは掬われない部分を見ていく姿勢や技術的なものがもっと行き渡っていけばいいなと思っています。

可能性は果てしない、そう思っています。子ども達の可能性を広げていくための「境界作り」であって欲しい、そう願っています。

ブログ楽しみに読ませていただいています。私自身、娘さんのように英語が突出していたというようなことはありませんが、中学高校と窒息しそうになっていましたから、そういう面で、娘さんの気持ちが私なりによく分かる様に思います。

日本も寒くなってきたと聞きます。どうぞご自愛くださいね。ありがとうございます!
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