靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

子育てノート、感謝の気持ちを養う

2013-05-19 09:13:00 | 子育てノート
子供たちの内に育んでいきたい「心の持ち方」を考えるときに、やはり最も重要に思うのが、「感謝の気持ちを持つこと」です。

といって、「ほら、何ていうの?」と、何かをもらう度に「ありがとうございます」を相手に伝えるよう促していくことも大切ですが、形や礼儀だけでなく、感謝の気持ちを、心から感じられるように教えていきたいです。

 感謝の気持ちとは、「どれほど与えられているか」を思い出すことで、心から湧き上がるものではないでしょうか。目の前に湯気をあげる白米も、ただ空腹を満たすものとして口の中にかきいれてしまえばそれでおしまいですが、少し立ち止まり、その白米が目の前に現れるまでの過程を想像してみます。すると、どれほど多くの条件の重なりと、どれほど様々な人々の働きのおかげでこうしていただくことができるかを思い出すでしょう。

 一つ一つ出会う物事を前に、少し立ち止まり、その物事が目の前の形になるまでの過程に目を向けてみること、その繰り返しが、「どれほど与えられているか」を思い出させ、感謝の気持ちを養うことを助けます。手に入れた可愛らしい洋服も、自分のことを思ってくれる親がいて、買うことのできる経済的な条件がそろい、そのお店にその洋服がたどり着くまでにも、デザインした人々、はるか遠くの国々の工場で働く人々、商品を流通させる人々といった様々な働きが必要です。

回りを見回しても、何一つとして、自分一人で作りあげたものなどありません。こうして暮らしていられるのも、
「与えられているからこそ」、普段の生活から、そう思い出させていきたいです。

 また、あの人はあんなに、私はこれだけ、そう「もっと持っているように見える」他人と比べてばかりでは、自分がどれほど与えられているかが見えなくなってしまいます。まずは、自分の目の前にある自分専用にカスタマイズされた「恵み」を、丁寧に一つずつ見つめてみる姿勢を教えていきたいです。


「どれほど与えられているか」を思い出す

 長男が十一歳の時、崖から落ち、手首を複雑骨折したことがあります。アラスカ州スワード市の夏の風物詩「マウンテンマラソン」に、「参加してみたい!」という長男のたっての希望で、マラソンコースを下見にいった時の出来事でした。

麓の駐車場で下の子達と待っていたところ、真っ青な顔をし、夫に肩を抱えられた長男が下りてきました。ただ事ではないと長男と夫の表情から分かりました。これからすぐに病院へ行くと車に乗り込む夫。腕をジャケットで覆いながら、それでもしっかりとした足取りで歩いていた長男に少しほっとしながら、すぐにそこから一分もかからないところにある救急病院に駆け込みました。応急処置を受け、見た目は元の形に戻った手首でしたが、「改めて翌日大きな病院で手術をする必要がある、手術が成功しても、腕がこれ以上伸びない可能性がある」と説明されました。

その日から二日間キャンプする予定だったのを切り上げ、帰途につきました。麻酔がきき車の中で眠る長男。楽しいキャンプの旅になるはずだったのに、なぜこんなことに? 思い描いていた旅とのギャップに、まるで半分現実ではないような気持ちでした。

 明日は全身麻酔の手術で、その後も腕が伸びない可能性もある。何て災難なんだろう。何て不幸なんだろう。長男の寝顔を見ながら、目の前が真っ暗になり、胸が押し潰されました。

 それでも、崖から落ちた時の様子を詳しく知るにつれ、手首の複雑骨折だけですんだことが、奇跡のような状況だったのが、分かり始めました。夫によると、長男は三十メートル近くある急斜面を転げ落ち、あげく木にぶつかり止ったそうです。レントゲンを眺める医師が、「かなりの衝撃が加わったようだ」と言っていたのを思い出しました。

 もしその衝撃が頭や首や背中にかかっていたら、もし激突した木が切り立った岩だったら、もし尖った岩や木々が突き出す崖だったら、もし麓からすぐ近くの崖でなかったら、もし救急病院がすぐ近くになかったら、そう想像すると、「ありがたい」という気持ちがとめどなく溢れ出しました。今度は感謝の気持ちで、胸が苦しくなるほどでした。アンカレッジまで三時間の車窓に、夕焼けに染まる山々が、ぽろぽろと流れ落ちる嬉し涙で、一層大きく膨らんで見えました。もし腕が伸びなかったとしても、こうして命を救われたことに、一生感謝して共に生きていこう、そう心に決めました。

結局、翌日の手術も成功し、その後おかげさまで腕も無事伸び続けています。この体験を思い出すたび、五人笑顔で、普通に暮らしていることへの感謝の気持ちが、心の底から湧き上がります。嵐のような日々に、くったくたになっていても、「ありがたい」という気持ちでいっぱいになるのです。長男も、事故から二年たちましたが、毎晩眠る前に感謝の言葉を言い合う際、手首が無事治ったことについて、崖から落ち命拾いをしたことについて、「ありがとう」と言います。

 事故や災難にあう可能性は、キャンプや山に出かけずともいくらだってあります。毎日の学校の送り迎え、放課中の校庭、近所の公園、習い事のダンス、走り回る家の中、それら日常的な風景の中にも、事故の可能性は常に潜んでいます。雪道を隣斜線の車が曲がりきれず突っ込んでくることだってあり得ます、校庭の遊具から落ち脳震盪を起こすことだってあるでしょう、持っていた小枝が目に刺さってしまったり、公園のブランコから飛び降りたところ衝突し歯が折れてしまったり、ダンス教室で転んで骨を折ってしまったり、寝る前に追いかけあっこをしていて玩具につまづきドアの蝶番で額を切ってしまうことだってあります。これらは全て、身近な周りに実際に起こったことです。

こうして普通に暮らせることも、いつだって、「こうして普通に暮らせない」可能性と隣り合わせにあります。もしあそこであの人に会わなかったら、もしあの時あの電車に乗っていたら、もしあの時あの情報を耳にしなかったら、もしあの時病院で検査しなかったら、そう振り返ってみるとき、「今の状況ではない」可能性など、いくらでもあったと見えてきます。

雨風をしのぐ家、柔らかい毛布、温かいお風呂、子供達の笑い声、身の回りにある見慣れた風景も、水面上に現れた氷山の先っぽのようなものです。水面下では、それらを可能にする膨大な条件や、様々な人々の助けが支えているのです。今の自分が置かれた状態というのは、想像もつかないほど多くの条件の積み重ねの上に、築かれているのです。

 また、事故や災難にあったとしても、もしあの時助手席に乗っていたら、もしもっと勢いよくあの遊具から飛び降りていたら、もしあの手に持って走っていた小枝がもう少し長かったら、もしもっと勢いよくブランコから飛び降りていたら、もしダンス教室でもっと高くジャンプしていたら、もし寝る前にぶつかったのが蝶番でなく家具の尖った角だったら、ぶつけたのが額でなく目だったら、そう「もっと悪くなり得た可能性」も、いくらだってあります。

 失って初めて、「どれほど与えられていたか」を思い知ることがあります。病気になって健康の、事件事故災害にあって普段の何気ない生活の、戦争になって平和の有難さに気がつくのです。失ってからではなく、普段からこの見慣れた風景を前に、「どれほど与えられているか」を思い出していきたいです。
 
 アラスカに移住したての頃、ワンベッドルームの小さなアパートに暮らしていました。低所得者専用のアパートで、周りには世界各地からの移民がひしめき合っていました。そのアパートのある道の名前は、質素な建物が立ち並ぶ風景とは対照的に、「ハリウッド・ドライブ」と言いました。

「私達、ハリウッドに住んでるのよね」

近所の人々とアクセントの強い英語で言い合っては、笑ったものです。
妊娠七ヶ月で移住し、最初にしたことは、このアパートの地下にあるコインランドリーに洗濯物の山を運ぶための、大きなバッグを縫うことでした。紫色に緑色のポケットという、今思うととんでもない色合いのそのバックを担いで、階段を上り下りするのが私の日課でした。

貧しい暮らしでしたが、豊かな日本に生まれ育った後では、現実であって現実でないようなままごとを楽しんでいるような気分だったのを覚えています。貧しく命の危険もある国からの移民とは違い、日本に帰ればまた豊かで平和な生活が手に入ると信じていたからでしょう。

そんな生活の中、毎日のように六歳と一歳半くらいの兄と妹を見かけました。旧東欧から戦乱を逃れて移民した家族でした。お兄ちゃんは妹を抱っこし、時にはベビーカーに乗せてアパートの周りを散歩します。妹をのぞき込み、何度も話しかけながら。毎日毎日何時間もの間妹の世話をするお兄ちゃん。妹を思いやる仕草、笑顔で寄り添う姿が目に焼きついています。その兄と妹の母親は、「食べ物に不自由なく平和に暮らせることがどんなにありがたいか」そう静かに笑っていました。

今こうして一軒家に住み、子供達も毎日習い事に宿題にと忙しく、周りは物に溢れ、あの子だけこんないい思いをして、私だけこんなに損をしてる、そんな兄姉妹弟間の諍いもしょっちゅうです。ふと、あの「ハリウッド・ドライブ」に何を置き忘れてきたのだろう、そう思うことがあります。あのお兄ちゃんと妹の姿が、我に返してくれます。溢れる物に埋め尽くされ、忘れかけていた感謝の気持ちを思い出させてくれるのです。

 明日の食べ物に困ることなく、日々命の危険にさらされることもない状況で暮らせるのは、世界でほんの一握りの人々です。そして世界の飢餓人口は、ますます増えているとも言われています。国連食糧農業機関(FAO)が2002年に実施した調査では、世界人口の七・八人に一人の割合(八億五千二百万人)が飢えており、毎日、二万五千人が飢餓や栄養失調などで死亡しているといいます。そしてその四分の三までが 五歳未満の子どもです。想像してみて下さい、目の前の暖かい毛布に包まれ眠る子供と、ちょうど同じくらいの年恰好をした子供達が、毎日二万人近くも「食べる物がない」という理由で亡くなっているのです。またギャロップ・インターナショナル(スイス)という世論調査機関が、世界六十六カ国で五万人を対象に「過去一年間で、自分や家族が食べ物に困ったことがあるかどうか」と尋ねた結果、「ときどき」「ひんぱん」と答えた人が四十六%もいたといいます。

 また日本や「先進国」といわれる国々でも、五十年ほど遡れば貧しい暮らしをしていたものです。長い歴史を振り返るのなら、今のように物質的に恵まれた状況になったのはつい最近のことです。遠く離れた地域のこと、古い昔の人々のことと身近には感じられないかもしれません、それでも同じ地球に暮らす人々、そして今ある自分たちの土台となってきた人々のことなのです。 

 今目の前にあるそのプラスティックの器も、明日の食料にも困る人々の働きの上に、安価に手に入れることができたのかもしれません。バケーションに出かけ豪華なホテルに泊まるその同じ島では、夕飯にありつけなかった子供達が、食べ物を夢見て眠っているかもしれません。そして過去を振り返るのならば、戦争で亡くなった方達の上に、こうして今の平和な日本があり、敗戦から立ち上がりがむしゃらに働き続けた人々のおかげで、物に溢れた豊かな日本があるのです。

 今の自分が置かれた状況が、とてつもなく多くの人々や条件によって支えられていると、心の底から自覚するとき、今ここでの状況に感謝しつつ、自身が助けられてきたように、今大変な状況にある人々に何をすることができるのか、そう思えてくるのではないでしょうか。

 まずは、家の中、慣れ親しんだ町、生まれ育った国、身近な隣国、世界中の様々な地域、そう周りを見回し、そして今日、昨日、一週間前、一年前、五年前、五十年前、百年前と過去を振り返ってみることです。すると、今自分がどれほど与えられているかが見え始めます。バケーションも、差し出されたキャンディーも、新車も、新居も、新しい仕事も、そういったものを手に入れることができるのは、世界中で一握りの人々。今目の前に見ているものは、水面にちょこっと顔を出した、氷山の先っぽでしかないのだということを思い出します。
 
 物質的に恵まれた地域に暮らす子供達は、周りに溢れる物があることが、「当たり前」になっています。コンビニへ行けばあらゆる種類の菓子が並び、新しい機器が売り出されたら手に入れるのが当然、友達が持っているのならば自分も持つのが当たり前。次から次へと新しい製品が生み出され、メディアからは購買欲をそそるコミカルなコマーシャルが流れ続けます。物に溢れ、次から次へと手に入れることが当たり前となった現代の子供達に、「どれほど与えられているか」を思い出させるのは、難しいことです。

 だからこそ、こんな今の時代だからこそ、感謝をする習慣を、日常生活で意識的に持つことが大切ではないでしょうか。今の時代ほど、一つ一つの物事を前に立ち止まり、どれほど与えられているかを思い出し、感謝する習慣を、故意に日常生活に取り入れることが必要とされる時代はないのかもしれません。

 砂漠では、水の貴さありがたさが身にしみて分かります、それでも水に溢れた地では、水があるのが当たり前で捨てるように使ってしまうもの。砂漠で水を与えられた喜びの感覚を、この水に溢れた普段の生活に浸透させましょう。日々砂漠に立ち返り、水一滴のありがたさを思い出すことを、習慣にしていきたいです。


過程に目を向けさせる

照りつける太陽、聳え立つ山々、雪に覆われた木々、氷道を行く車、暗闇を照らす街灯、玄関の明かり、暖炉の温もり、湯気の立ち上るココア、スピーカーから流れるギターの音色、窓の外の星、周りを見回せば、自分一人で作りあげたものなど、何一つないことに気がつきます。食卓に並ぶ新鮮な野菜、獲れたての魚、ほかほかのご飯、鮮やかに色とりどりのフルーツ、こうして手に取るためには、どれほどの条件が合わさり、どれほど多くの人々の働きが必要だったでしょう。

一昔前は、野菜も果物も自分で作ったり採集したり、肉や魚は自分の手で育てたり狩猟していたものです。身の周りには自ら手をかけ作り出した物が圧倒的に多かったでしょう。昔はそうして自ら作り自ら手に入れることで、目の前に置かれるまでの過程の大変さを、生々しく体験することができました。

 それでも今は、それらの過程をそぎ落とし、出来上がった完成品を手に取るだけのことがほとんどです。そしてそんな環境に育った子供達は、目の前のあらゆる事物を、過程の繋がりから切り離し、どこからか降って沸いてきたかのように捕らえがちです。

我が家でも、今、その口に入れようとしている照り焼きチキンは、あの空を飛ぶトリと同類なのだと、喉を潤すその真っ白なミルクは、牛の乳から搾られたのだと、皮を剥いたとたん甘酸っぱい匂いの広がるそのみかんは、緑の木々に実っていたのだと、元の様子を子供達に説明しても、きょとんと不思議そうな顔をします。目の前の完成したものと、そうなるまでの過程や元の形が、なかなか繋がらないのです。

「どれほど与えられているか」を実感させるには、物事が目の前に現れるまでの、「過程」に目を向けさせることです。辺りに降り注ぐ太陽の光は、星や惑星の誕生を可能にした壮大な宇宙の仕組みがあるからこそです、山々の隆起は膨大な年月を経て地球が大変動を繰り返したため、目の前の木々は、何十年何百年というもの間、光と水と土の栄養分がバランスよく注がれたからこそ、こうしてあるのです。氷道を行く車も、長い距離をより安全快適迅速に移動する手段はないものかという長い間かけての、様々な人々の発明改良の末、そしてそのアイデアを実際に形にして大量生産する工場労働者の働きのおかげでこうしてあります、暗闇を照らす明かりも、電気を起こし家庭に届けるということが実現するまでには、技術を進歩させてきた人々、そし今安全に行き渡っているかと点検する人々など、多くの働きが必要です。

 過程に目を向けることで、今こうして当たり前に見える風景も、膨大な条件の重なりや、様々な人々の働きによって可能となっているのだと、見え始めます。手に取るどんなものにも、膨大な量の働きが注がれているのだと分かり始めます。

 普段の生活でも、なるべく過程を体験できるような機会を作ってやります。食事も、切り刻んだ野菜を鍋に入れさせたり、人参の皮を剥かせ一緒に用意し、ぬいぐるみや人形、玩具なども、一緒に作ってみます。すると、それらは降って沸いたように目の前にあるのではなく、口に入れる一つ一つの食物も、手に取るぬいぐるみの一つ一つの縫い目にも、多くの人の働きが注がれているという視点が育ちます。

掃除も自分でさせることで、その大変さが分かり、普段から汚さないようにと、より注意を払うようになります。我が家でも、トイレ掃除や車の掃除、親がしていた頃は、汚れ方もひどかったものですが、子供達が交代でするようになって以来、普段からの気をつけ方が違ってきました。洗濯も、家では小学校高学年になれば、自分達ですることになっているのですが、靴下が裏返っていたり、シャツとセーターがくっついたままではきれいにならないと、洗濯物かごへの入れ方も変わりました。家事を日常的に体験することで、身の回りをきれいに保つための大変さ、普段誰かが時間と労力を注いでいるから、こうして整った部屋にいられるのだという気持ちも、頭だけでなく実感として分かるようになったようです。

 農場などを訪ね、農作物の流通を追ってみるのもいいです。食物が食卓にあがるまでにどれほど多くの人の働きや、自然の恵みが必要かを直に感じることができます。今こうしてブロッコリーが口の中に入るには、まずは太陽・水・大地が必要となります、そして光や温度や水加減を整える農家の方々の働き、収穫されたものを流通させる人々、スーパーに並べる人々、そしてそれらを購入するためには親がお金を稼ぐ条件も揃わなければなりません。

 私自身、子供時代に養鶏場や牧場を訪ねた後、卵や鶏肉や牛乳を口にするたび、目の前で飛び跳ねていた鶏、草を食んでいた牛の姿が目に浮かび、「いただきます」という言葉にも、気持ちのこめ方が全く変わったのを覚えています。

 そうして一つ一つの過程を丁寧に見ていくと、目に入るあらゆるものは、多くの人々の働きによって、こうした完成した形に整えられているのだと見え始めます。自分という一人が生きていくために、どれほど多くの人々の助けが必要か、そしてどれほど多くの命をいただくことで自分というものが生かされているのかを、感じ始めます。こうして日々暮らしていけるのも、多くの人々の働きやさまざまな条件が重なり合ったおかげ、子供達と共に、日々「どれほど与えられているか」を思い出し、感謝していきたいです。


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4 コメント

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Unknown (テッサー)
2013-05-19 17:30:09
そうそう、私もモノのなりたち、起源、手元に届くまでの過程、すごく大事だと思う。3才の娘も「これ、どうやってできたの?」が最近の口ぐせで、そういうの知りたいっていうのはけっこう基本的な欲求なのかなって思ったり。
「いっぽんの鉛筆の向こうに」っていう本があってね。森で木を切るところから始まり、工場で加工されて輸送してお店で販売するっていう家庭を写真で説明してくれてる。
「どうやって作るの?」っていう本も、パンや石炭、洋服、果物、電気などかわいい絵で説明してあって面白い。翻訳本だからマチカちゃんはオリジナルを読んだことあるかもね。
この領域、ほとんど私の趣味と化しています・・。
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Unknown (旅人パンダ)
2013-05-20 19:20:57
「感謝」~肝に銘じます!

将来的には可能な限り苦しむ人を救いたいです!
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テッサーさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-05-26 17:43:53
テッサーさん、コメント返事遅れてごめんね。時間調整、課題です。「ここはコメント返しの時間」と高い防壁を作っておかないと、あれよあれよという間に周りから物事が押し寄せ、ぶくぶくと溺れてしまってます。

テッサーさんの言葉、何度も思い出しながら、嬉しくなってました。私もすjごく大事だと思っているという言葉、とても励みになります。

三歳のむすめちゃんが「どうやってできたの?」という質問するというの、すごいね。まだ「これなに?」止まりくらいの時期だよね。テッサーさんの普段からの姿勢が、こうして現れてもいるんだろうね。頼もしい。

面白そうな本、紹介してくれてありがとう。

紙が木からできる、チョコレートが豆からできる、クレヨンがワックスからできる、そんな写真のついた絵本を読んだときの、子供達のまんまるな目が私も忘れられません。それ以来、紙を見るたび、チョコレートをほおばるたび、周りの子にも興奮して説明してたりして。(笑)

テッサーさんの趣味、私も仲間入りします。

ありがとう。こちらは夏休み。一週間前には雪だったのに、一気に夏らしい天気で。今日友人の一人が、アラスカの天気は、晴れ後冬、とか夏ときどき曇り後冬というんだよね、と言っていて、かなり納得してました。(笑) ここ二日ほどですっかり日焼けの子供達です。ビタミンDとっておかないとね、今のうちに。

そちらは初夏の気持ちい~時期だろうね。新緑に囲まれてすがすがしい日々でありますように! 感謝をこめて。
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旅人パンダさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-05-26 17:47:33
私も肝に銘じたいです!

パンダさんの志、頼もしいです。私も自分に今できる限りのことをしようと努力しつつ、応援してます! 感謝をこめて。
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