内に無限の源があるとする
ではその源に触れることで この現実の生活にどんな変化が起こるのか
「自分のエゴを太らすため」が「自分のため」である
という「錯覚」から覚めてくるのかもしれない
エゴが自分の生存に必要だという「錯覚」から 覚めていく
エゴを太らすという方向の先にあるのは
結局は自分という肉体を存続させる環境の滅亡
すなわち自分という個の消滅である
無限の源では自分と他人という境界などない
それでも現実の世界では肉体という境界によって分けられる個が存在する
それらの個にエゴがまとわりつかないのならば
真にそれぞれの個が持つ異なる力を合わせることができ
「自分のエゴのため」や「他人のエゴのため」でなく
真に「自分のため」であり「他人のため」である環境作りが 可能となっていくのだろう
夢物語のようだけれど
ところでこの「エゴ」がまた曲者だ
善の姿をした「エゴ」もあれば
悪の姿をした「エゴなし」もある
そして油断しているといつのまにかするりと 目的地が「エゴを太らす」にすり変わっていたりする
無限の源に触れ続けること それがエゴを察知しエゴを掃除していく方法なのだろう
ではその源に触れることで この現実の生活にどんな変化が起こるのか
「自分のエゴを太らすため」が「自分のため」である
という「錯覚」から覚めてくるのかもしれない
エゴが自分の生存に必要だという「錯覚」から 覚めていく
エゴを太らすという方向の先にあるのは
結局は自分という肉体を存続させる環境の滅亡
すなわち自分という個の消滅である
無限の源では自分と他人という境界などない
それでも現実の世界では肉体という境界によって分けられる個が存在する
それらの個にエゴがまとわりつかないのならば
真にそれぞれの個が持つ異なる力を合わせることができ
「自分のエゴのため」や「他人のエゴのため」でなく
真に「自分のため」であり「他人のため」である環境作りが 可能となっていくのだろう
夢物語のようだけれど
ところでこの「エゴ」がまた曲者だ
善の姿をした「エゴ」もあれば
悪の姿をした「エゴなし」もある
そして油断しているといつのまにかするりと 目的地が「エゴを太らす」にすり変わっていたりする
無限の源に触れ続けること それがエゴを察知しエゴを掃除していく方法なのだろう
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