過去、厳しく躾ようと目くじら立て意気込んでいた時期と、孫を眺めるような気分でゆるゆるになっていた時期とあった。振り返るとどちらも何かが欠けていたように思う。全てを許す祖父祖母のような視線を持ちつつも、将来その子が一人で歩いていくために「律する」ということも教えていく必要がある。だからといって目くじらを立て肩をいからせる必要もない。穏やかに力をぬいてそれでも真摯に向き合うのなら、伝えたいことは子どもの心に届く、今はそう感じている。
子どもには「境界」という感覚がない。生まれつきしていいことよくないことという感覚が備わっているわけではない。教えなければ大人達がタブーとしている境界を無邪気に越えていく。境界があることを分からせ、境界を前に踏みとどまる姿勢をどう教えていけばいいのだろう。
「躾」「律する」という行為は、まるで子どもの自由を狭めるようにも聞こえるけれど、実は子どもがより自由にのびのびと可能性を広げていくためにこそ必要なもの。「自由にのびのびと育てたい」私もそう思う。ただ「自由」は「欲の赴くまま」ということではないのだろう。「自身を律する」ところに欲に振り回されることのない「本当の自由」があるのではないだろうか。
以下、「躾」「律する」について大切に感じること、見聞きしたことを試してみて「これいい!」と思うやり方など:
・「律する」ことを教えるときこそ、親の側に深い愛情、「律」を超え無条件に受け入れる姿勢が必要になる。無条件の愛という土台の上に「律」という条件をのせるとき初めて、子ども自身の内に「自身を律する」という姿勢が育っていく。「無条件」と「条件」、相矛盾して聞こえるけれど、「条件」の後ろにある無条件の受け入れを子どもに感じさせることは可能なのだと体験を通して思う。
・親自身が内面をよく整理しておく。この条件を満たさないからといってその子に向ける愛情が何ら損なわれるわけではない。愛情は条件によって減ったり増えたりするようなものではないと整理しておく。
・何かいけないことをしてしまったことで親の愛情が減る、と子どもが感じないようにする。してはいけないと伝え落ち着いたら抱っこしたり抱きしめたりするなど。「うっとうしがられている」「近くに来ないでと思われている」というようなことを子どもに感じさせないようにする。
・その子に合った律し方を。「いい子」という型にはめ込むのでなく、その子のよいところを引き出すように「律する」。頑固ならばその頑固さをうまく生かす方向へ。目標を持たせ目標を貫徹するよう励ましたり、興味のありそうな課題を与え貫徹させたり。
・1歳くらいから「大切」ということを教えていく。地面に咲く小さな花や地面に動く小さな虫、いただいたもの、周りの人が一生懸命作ったもの大切にしているもの、赤ちゃん(人形でも)、「大事大事」とそっとなでながら触るようにしてみる。自分の周りには「そっと大切にするべきもの」というものがあるのだな、と小さいなりに学んでいく。
・小さな頃は、なるべく「あれだめ」「これだめ」と言わなくていい環境を作っておく。危険なものや壊れやすいものは手の届かないところにおき、疲れたりお腹がすいたりの状態で公のルールがたくさんあるような場に連れて行くのを避けるなど。「してはいけない」をここぞというときに用いられるよう。
・「してもよい」ことのなかにワクワクと楽しいことがたくさんあるのだと感じさせる。独り占めして遊ぶよりも皆で遊ぶ楽しさを、物を投げ壊すより物を作り上げる楽しさを、テレビを見続けるよりも雪の上を転げまわって遊ぶ楽しさを、身体にしみ込ませる。「してもよい」中で工夫して無限の可能性を広げられるよう。
・「怒り」を静めてから向き合う。声のトーンや言い方に常に最大限気をつける。子どもが癇癪状態になっているのに引きずられてこちらも癇癪で答える、そしてますます互いにヒートアップとならないよう(何度繰り返してきたか・・・笑)。 子どもも親自身も落ち着いた状態で話す。「怒り」での「躾」は長い目でみてその子が「主体的に自身を律する」という姿勢には結びつきにくい。
・「躾がなってない」「ああいう子こういう子」「いい子よくない子」というような周りの視線に振り回されない。その子の将来にとって何が一番ためになるのかにフォーカスする。押し時引き時、その子の親が分かっているはず。周りの親子のやりとりも尊重する。
・人格と行動を常に分けて捉える。「もうあなたはなんてだめなの」「どうしてあなたはいつもこうなの」でなく「そういうことをしてはいけない」と言う。『あなたがいけない』のでなく、『したことがいけない』のだと伝える。
・「サンドイッチ」で接する。いいことで始めて、よくないと思うことを伝え、またいいことに触れたり抱きしめるなどで終わる。メッセージが子どもの心にすっと入る。
・一貫性。あのときはよかったけれど今度はだめ、とならないよう。確固とした境界を設ける。子どもも常に予想できるので取り乱すことが減る。
・言葉に気をつける。辱めるような言葉や皮肉を用いない。「何であんたはそんなにのろいの」「なんでそんなことも分からないわけ」などと言わない。他者に対しても「この子は馬鹿でね」「できが悪くて」などと本人の前で言わない。公の場で辱めることをしない。
・癇癪、泣き顔、不満顔、居心地悪さ、その場一時の反応を恐れて境界線を引くことをやめてしまわない。長い目で本当にその子のためになるのは何かを考える。静かに穏やかに真摯に一貫して。一時のべそかきしかめつらも、後の何倍もの笑顔に繋がっている。
・頭ごなしに時と場合構わず、でなく伝えるのに最適なタイミングを見る。何かに熱中している最中に「何でこんなことしでかしたの!」などと突然言われてもすんなりと受け入れられない。「話があるからそれ終わったらこちらに来てね」などと伝える。
・漠然とでなくどうしたらよいかを特定して告げる。「きちんとしなさい」より「その二番目のボタンをしめてシャツをズボンに入れて」、「行儀よくしなさい」より「ひじをついて食べない口にものが入っている時に話さない」など。
・「比較」を「律する」ことに用いない。「あの子もそうしてるんだからあなたもしなさい」というように。皆がするから、でなく自身で主体的に律するという姿勢を育てるために。
・過去に終わったことを何度も引き出さない。いつまでもイメージを引きずらないでリセットする。子どもは「よくない」と想って接し続ければ本当にそうなっていくもの。
昔の社会は宗教が説く様々な「律」に従うことで秩序が保たれていたようなところがある。していいことよくないことの境界がはっきりと引かれ、人々の選択肢も限られていた。宗教が力を失いつつある現代、溢れる選択肢を前に、欲の赴くまま欲を貪り続けることだってできてしまう。
一人一人が内に自身を律する力を備えていくこと、子育てを通して思い出していきたいことの一つ。
子どもには「境界」という感覚がない。生まれつきしていいことよくないことという感覚が備わっているわけではない。教えなければ大人達がタブーとしている境界を無邪気に越えていく。境界があることを分からせ、境界を前に踏みとどまる姿勢をどう教えていけばいいのだろう。
「躾」「律する」という行為は、まるで子どもの自由を狭めるようにも聞こえるけれど、実は子どもがより自由にのびのびと可能性を広げていくためにこそ必要なもの。「自由にのびのびと育てたい」私もそう思う。ただ「自由」は「欲の赴くまま」ということではないのだろう。「自身を律する」ところに欲に振り回されることのない「本当の自由」があるのではないだろうか。
以下、「躾」「律する」について大切に感じること、見聞きしたことを試してみて「これいい!」と思うやり方など:
・「律する」ことを教えるときこそ、親の側に深い愛情、「律」を超え無条件に受け入れる姿勢が必要になる。無条件の愛という土台の上に「律」という条件をのせるとき初めて、子ども自身の内に「自身を律する」という姿勢が育っていく。「無条件」と「条件」、相矛盾して聞こえるけれど、「条件」の後ろにある無条件の受け入れを子どもに感じさせることは可能なのだと体験を通して思う。
・親自身が内面をよく整理しておく。この条件を満たさないからといってその子に向ける愛情が何ら損なわれるわけではない。愛情は条件によって減ったり増えたりするようなものではないと整理しておく。
・何かいけないことをしてしまったことで親の愛情が減る、と子どもが感じないようにする。してはいけないと伝え落ち着いたら抱っこしたり抱きしめたりするなど。「うっとうしがられている」「近くに来ないでと思われている」というようなことを子どもに感じさせないようにする。
・その子に合った律し方を。「いい子」という型にはめ込むのでなく、その子のよいところを引き出すように「律する」。頑固ならばその頑固さをうまく生かす方向へ。目標を持たせ目標を貫徹するよう励ましたり、興味のありそうな課題を与え貫徹させたり。
・1歳くらいから「大切」ということを教えていく。地面に咲く小さな花や地面に動く小さな虫、いただいたもの、周りの人が一生懸命作ったもの大切にしているもの、赤ちゃん(人形でも)、「大事大事」とそっとなでながら触るようにしてみる。自分の周りには「そっと大切にするべきもの」というものがあるのだな、と小さいなりに学んでいく。
・小さな頃は、なるべく「あれだめ」「これだめ」と言わなくていい環境を作っておく。危険なものや壊れやすいものは手の届かないところにおき、疲れたりお腹がすいたりの状態で公のルールがたくさんあるような場に連れて行くのを避けるなど。「してはいけない」をここぞというときに用いられるよう。
・「してもよい」ことのなかにワクワクと楽しいことがたくさんあるのだと感じさせる。独り占めして遊ぶよりも皆で遊ぶ楽しさを、物を投げ壊すより物を作り上げる楽しさを、テレビを見続けるよりも雪の上を転げまわって遊ぶ楽しさを、身体にしみ込ませる。「してもよい」中で工夫して無限の可能性を広げられるよう。
・「怒り」を静めてから向き合う。声のトーンや言い方に常に最大限気をつける。子どもが癇癪状態になっているのに引きずられてこちらも癇癪で答える、そしてますます互いにヒートアップとならないよう(何度繰り返してきたか・・・笑)。 子どもも親自身も落ち着いた状態で話す。「怒り」での「躾」は長い目でみてその子が「主体的に自身を律する」という姿勢には結びつきにくい。
・「躾がなってない」「ああいう子こういう子」「いい子よくない子」というような周りの視線に振り回されない。その子の将来にとって何が一番ためになるのかにフォーカスする。押し時引き時、その子の親が分かっているはず。周りの親子のやりとりも尊重する。
・人格と行動を常に分けて捉える。「もうあなたはなんてだめなの」「どうしてあなたはいつもこうなの」でなく「そういうことをしてはいけない」と言う。『あなたがいけない』のでなく、『したことがいけない』のだと伝える。
・「サンドイッチ」で接する。いいことで始めて、よくないと思うことを伝え、またいいことに触れたり抱きしめるなどで終わる。メッセージが子どもの心にすっと入る。
・一貫性。あのときはよかったけれど今度はだめ、とならないよう。確固とした境界を設ける。子どもも常に予想できるので取り乱すことが減る。
・言葉に気をつける。辱めるような言葉や皮肉を用いない。「何であんたはそんなにのろいの」「なんでそんなことも分からないわけ」などと言わない。他者に対しても「この子は馬鹿でね」「できが悪くて」などと本人の前で言わない。公の場で辱めることをしない。
・癇癪、泣き顔、不満顔、居心地悪さ、その場一時の反応を恐れて境界線を引くことをやめてしまわない。長い目で本当にその子のためになるのは何かを考える。静かに穏やかに真摯に一貫して。一時のべそかきしかめつらも、後の何倍もの笑顔に繋がっている。
・頭ごなしに時と場合構わず、でなく伝えるのに最適なタイミングを見る。何かに熱中している最中に「何でこんなことしでかしたの!」などと突然言われてもすんなりと受け入れられない。「話があるからそれ終わったらこちらに来てね」などと伝える。
・漠然とでなくどうしたらよいかを特定して告げる。「きちんとしなさい」より「その二番目のボタンをしめてシャツをズボンに入れて」、「行儀よくしなさい」より「ひじをついて食べない口にものが入っている時に話さない」など。
・「比較」を「律する」ことに用いない。「あの子もそうしてるんだからあなたもしなさい」というように。皆がするから、でなく自身で主体的に律するという姿勢を育てるために。
・過去に終わったことを何度も引き出さない。いつまでもイメージを引きずらないでリセットする。子どもは「よくない」と想って接し続ければ本当にそうなっていくもの。
昔の社会は宗教が説く様々な「律」に従うことで秩序が保たれていたようなところがある。していいことよくないことの境界がはっきりと引かれ、人々の選択肢も限られていた。宗教が力を失いつつある現代、溢れる選択肢を前に、欲の赴くまま欲を貪り続けることだってできてしまう。
一人一人が内に自身を律する力を備えていくこと、子育てを通して思い出していきたいことの一つ。