靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

日本への原爆投下について

2014-01-12 08:04:42 | 子育てノート
長男の友人のお母さんと話していて。 ○○(長男)、夏に日本へ行くって聞いたわよ、最高ね、日本のどこ? 名古屋と広島と東京の予定。えっ、広島? そうなの私の母方が広島で。そうだったの! ○○(息子君)の歴史プロジェクト(今八年生が取り組んでいる)ね、「原子爆弾についての権利と責任」がテーマなの。もう少し話聞かせてもらっていい?

そこから原爆の話になり。

母方の親戚は母も含め皆被爆手帳をもっている、伯母が一人即死、母は胎内被曝、私も三世、子供達は四世。



その夜、子供達とも話し合いました。

まず、こちら米国で主流の考え方: 一般市民の多くが無残に亡くなり痛ましいこと、それでもあの戦争を止めさせるためにはやむを得なかったんです。もしあそこで原爆を落としていなければ、日本本土決戦となり、日本米国両者により多くの死者を出すことになっていたでしょう。

子供達も、周りのこうした圧倒的な雰囲気を感じています。

日本と米国の「日本への原子爆弾投下」についてのウキペディアを見比べても愕然とするのですが、「あの大戦を終わらすためにやむを得なかった」という論の「不当性」についての言説や調査は、米国側からも出ているにも関わらず、ほとんど触れられておらず。

・連合国側からの海上封鎖などが効果をあげており、日本は当時戦力も既に随分と落ちていて、降伏は時間の問題であったこと。

・無人の地に落とすなど核の威力を見せ付けることで、もし降伏しないのならばこれを落とすとすれば十分であったこと。(「マンハッタン計画:第二次世界大戦中連合国側による原爆製造計画」の科学者もそう提案)

・「戦争を止めさせる」が目的ならば、日本への原爆投下について極秘を保つのでなく(直前までトップシークレットとされた)、日本側にも何度か警告することで十分に効果を得られたはず。

少し詳細を見ていくと、本当に「やむを得なかった」?と疑問が湧いてきます。他に理由があったんじゃない?と。

例えば、

・広島ウラン型、長崎プルトニウム型と違う種類が用いられたのですが、「トリニティ実験」(日本原爆投下約一ヶ月前の七月十六日に米国で行われた人類初の核実験)ではプルトニウム型のみが用いられ、ウラン型との比較実験データが欲しかった。

・米国の威力を世界に見せ付けるためだった。

といった説もあります。

私自身は、こうした米国の野心が大きく絡み、その上で、各地の戦線の状況から「最後の一人になるまで闘うだろう有色人種日本人」というイメージが行き渡るなど、世論を納得させられる状況が揃っていたため、ということだったのだと思っています。




そして、歴史や世論と言うのは、勝者側によって作られるとも思っています。

「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」

そうマンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラードが言うように、もし敗者側が原爆を落としていたのなら、原爆投下に関わった人々、軍上層部からエノラ・ゲイの乗組員から逐一戦争犯罪の裁きを受けていたでしょう。





こうして米国側の問題を並べましたが、同時に、世界の状況を見るとき、枢軸国であった日本も随分ひどいことをしていたのも事実であり。天皇を「神」とし(天皇の本意かどうかは別として)、「大日本帝国」を広げようと周辺諸国へ侵略し。そこでの行為のひどさの度合いについては、様々な意見もありますが、決して許されるべきではないことも多く含まれていたと思っています。




子供達には、次の三点を覚えておいて欲しいと話しました。

1.大多数の人々が「正しい」と思っていることを鵜呑みにせず、様々な方面から情報を集め、「本当のところは分からない」というスペースを残しておくこと。

2.いい面美しい面だけを見るよりも、弱く間違った部分を見、それらを良くしていくために自分にできる限りをすることこそが、その人その国を愛しているということ。

3.生身の人の温もりを決して忘れないこと。こうしてテーブルに向かい合い、こちらでは何万人の被害で、あちらは何人死傷者が出たと話しているけれど、その一人一人の流す血の赤さを痛みの大きさを想ってみる。日本であろうと米国であろうとアジアの周辺諸国であろうとヨーロッパであろうと、そこに暮らす一人一人も、愛する人々と共に、あなたたちのように全く同じ温もりを持った日々を過ごしている。



 長男は七年生の時、科学のプロジェクトで「マンハッタン計画」を選んだのですが、製造に関わった多くの科学者が、原爆投下前に何とか投下を止められないかと米国政府に働きかけ続けたこと、投下後も平和運動に熱心に取り組む科学者がいたことを話してました。

 そして、日本が犠牲になることで、その後ジュネーブ条約にも核爆弾を用いてはいけないという条項が付け加えられ(「非戦闘民に手を加えてはいけない」という条項がそれ以前にもあるので米国による都市への絨毯爆撃、原子爆弾は既に違法ではあるのでしょうが)、用いられなくなった。もしあの時日本に落とされていなかったら、ベトナムか中東か朝鮮に広島長崎の何倍もの威力の核爆弾が落とされていたかもしれないよと。

 長男、夏に広島へ行く前に、引き続き話し合っていこうと思っています。


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4 コメント

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Unknown (テッサー)
2014-01-12 21:47:49
私も二世だからね、同じように考えることあるよ。
まさに「歴史は勝者側が作る」とも感じる。
マニラのアメリカ人墓地に、当時の戦況が年代別に図解してあって、どこに~丸が沈んだとか、日本の前線は何年何月どこにあったとか解説付きなんだけど、最後は「原爆投下で戦争を終わらせた」、ってくくってあり、腑に落ちない気持ちを抱えたよ。

マニラには日本との戦争で使われた地下牢や要塞が残ってて、それはそれで気分よくないんだけど、この間ね、ネット動画で「日本がわたしたちのかわりに戦ってくれたおかげで独立できた」と東南アジアの国々のコメントが入ってるのを見て、そういうのって私たちは知らされてないなって思った。それが正しいとかではなくて、そういう見方もあるってことは勝者によって消されてるというか。
書きたいことはたくさんあるけど、これくらいにしとく。
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テッサーさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2014-01-14 18:13:37
テッサーさんも広島だものね。中部地方で一緒に育って、こうして広島繋がりで、今はアジアの南の島とアラスカと離れていてそれでもこうして言葉を交し合えてて、テッサーさんとの縁て何だかすごいなあとしみじみ思ったよ。

マニラのアメリカ人墓地に、そう書いてあるんだね。米国ではとても一般的な考え方で。こちらに来てあまりにも皆が皆そういった見解なので、とても驚いたよ。

子供時代から毎年広島訪ねて、親戚から生生しい被爆体験を聞いたり、実際にどういった状況だったのか写真などの資料も頭に焼きついてるからね、「だから戦争を終わらすことができたんだよ」とさらりと言われてしまうたびに、何ともやり切れない気持ちになったよ。

といってね、もし私もこちらで育っていたら、同じようにさらりと言ってしまっていたのだろうなあと。

東南アジアでそう言っている人々もいるんだね。うん、あまり表に出てこない言説だね。

「本当のことを知る」っていうのは難しいといつも思ってます。一次情報に触れるようにする、それができないなら、できる限りいろいろな面から情報を集め自分の意見を持ちつつも、「本当のところは分からない」というスペースを残しておく。そして想像力を最大限使って、反対側の人々の立場にも立って理解してみようとする、そう気をつけていきたいよ。

フィリピン沖はね、祖父が戦死した場所でもあってね。そのアメリカ人墓地に記された、「沈めた船」というのに、ひょっとして祖父が乗っていたのかなと思ったよ。

私の父も会ったことのない祖父(胎児の時に戦死してね)、宮司でありつつ軍を率いた祖父。「神に仕える」ということが、どうしてこういうことになってしまうのか、では何を信じるのか、考えさせられ続けています。

ありがとう。またテッサーさんの話、聞きたいです。今度いつ会えるだろうね。その日を楽しみにしてるから!
マニラのまぶしい太陽を想いつつ。
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Unknown (カレーライス兄弟)
2014-01-15 02:17:33
まずは明けましておめでとうございます
マチカさん本年も宜しくね
そろそろ日本にも帰っておいで!

さて。ぼくがその昔
米国に少しだけ住んでた当時、
ぼくの親友のアメリカ人にも全く同じ
事を言われた経験があります。

彼曰く、「日本軍の暴走を止める為には
原爆投下はやむをえなかった」
更には「犠牲を最少に止める為にボムを
『落としてあげた』のだ」と。

ぼくはカタコトの英語で涙ながらに
抗議をした事を忘れられません。

誤解無きよう言いますが彼は超の付く
親日家であり敬遠なクリスチャンです。

驚いたのはそんな常識人の彼ですら
米国の都合良い論理教育に染められて
しまっている、と云う事。

とても悲しくなりました。
何処の世に大量殺戮兵器を投下されて
喜ぶ人間が要るのか。感謝するのか。

かの戦争の根底にはとても根深い
人種差別が有るように思います。

焦土と化した日本に上陸したGHQが
どの様な調査をしたのか。
あからさまな人体影響調査
また、旧ソ連への威嚇行動
その後の戦勝国による一方的な
リンチ裁判
当時の国民の犠牲たるや想像を
絶する辛さだったかと思います。

時代は移り変わります。
時と共に倫理観、正義というのも
形は変わっていくのもまた事実です

今の倫理基準で昔の戦争を悪かった、
良かった、と一辺倒で判断するのも
難しい事かと思います。

ただ我々の先輩方が日本を護る一心で
若き命を散らしていった事。
この想いには敬意を祓い感謝すべきかと
思います。

その為にぼくは心の奥底に極論ですが
「マナーとしての反米」は持ち続けよう
そう考えています。
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カレーライス兄弟君へ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2014-01-16 06:54:04
カレー君、遅ればせながら、明けましておめでとう!
今年もよろしくね。うん、近いうちに帰られるといいなあ。その時は会えるの楽しみにしてます。カレー君確か早生まれだから三十代最後の最後を楽しんでる時だよね、お互い四十代はじけて楽しもうね!まだまだこれから!(笑)

こちらに暮らしていた時、アメリカ人の優しい良識的な友人さんも、そう言っていたんだね。私も初めて聞いた時はすごくショックで。あのとてつもない悲劇に出会った一人一人の姿と、「あれが最善だったのですよ」という言葉があまりにもかけ離れていてね。そして、そう話す一人一人は、普段思いやりに溢れた私も大好きな方々だったりしてね。

「この考え方」以外を口にするこちらの方に会ったのは、世界の様々な問題についての市民運動を熱心にしているグループの集まりでだけでした。

 カレー君涙ながらに抗議したんだね。私もね、涙が出ちゃって。また年経るごとにこの涙もろさが増してねえ。こういった話題は、かなり事前に心構えしてから人前で話すようにしてます。

 「人種差別が根底に」、そういう見方もあるね。今でも表向きは「絶対にしていけないこと」となっているわけだけれど、人の心の奥までは難しいと感じるからね。増してや70年近くも前のこちらと言えば、それはもう全く人々の意識も違ったよね。戦後こちらに渡った方々からもいかに大変だったかといった話を聞いたことがあります。

それでもね、この人達は本当に心の奥底までそういった垣根を越えているんだなあと感じさせられる出会いも何度もあってね。そういった方々にどれほど力をもらったか分かりません。

うん、「善悪」も時代とところによって変わっていくね。何が良かったのか間違っていたのか、一筋縄では括られないものだけれど、私もカレー君の言う、あの時代を必死で生き、犠牲となった先輩方に敬意と感謝を表すというのに、心から賛成です。

「マナーとしての反米」、私なりに分かります。私自身も、何事も、反対側からのクリティカルな視線も含めた様々な面から見ていけたら、そう思っています。

新年からこうしてカレー君と話ができてよかったです。2014年、いい年にしようね。今から吹雪の中次男のアクティビティーに出かけてきます。カレー君も娘ちゃんとよい週末をね。ありがと~!
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