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19日にNHKのBSPで放送された決戦!関ケ原「空からスクープ 幻の巨大山城」で、関ヶ原の合戦に玉城が重要な役割を果たしたのではないかと言う仮説を、奈良大学の千田嘉博先生が唱えていました。
同番組で関ヶ原の綿密な赤色立体地図による調査の結果、玉城の存在が明らかになりました。玉城は南北朝時代からある山城で、同時代の文献にも登場しますが、今まで関ヶ原の合戦と積極的に結びつける動きはありませんでした。
玉城は少し前に読んだ本で、その存在を知っていましたが、その本(竹中重門と百姓の関ケ原合戦 三池純正 中田正光著 歴史新書刊)でも、重要視されませんでした。逆にその本で重要視された、菩提山城(岩手山城)は今回は重要視されませんでした。
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それで、西軍が不利になったのは、岐阜城の落城あたりからと言われています。岐阜城は難攻不落で、織田信秀信長父子と斎藤氏が争い、結局西美濃三人衆を織田方が調略したことにより、攻略できました。
ところが、関ヶ原の合戦の前哨戦はわずか1日で落城しています。直前に木曽川の渡河防止するために出撃して兵力を減らし、兵力差がありすぎた面もありましたが、東軍の側にかって岐阜城主だった池田輝政がいました。自分の家に忍び込むようなもので、登山ルートや砦の位置などを熟知していたので、あっけなく落城したのではと思います。岐阜城の大手筋は砦や門があり、それなりに堅固なのですが、北側からは意外に防御が弱くこれといった砦や郭がなく、いきなり本丸の天守閣付近まで到達できます。このルートは現在、初心者向けのめい想の小径という登山ルートになっています。
大手筋側からの攻撃だけなら、西軍の石田三成が援軍を送れるぐらいの日数は岐阜城は持ったのではないかと思います。
ともかく、この岐阜城とその直前の竹ヶ鼻城の落城で、東軍有利とみて岐阜県西部の領主は東軍に付く領主が増え、岐阜城落城直前に東軍についていた犬山城を含めて、西軍の防衛線はかなり後退し、このあたりから西軍の戦略に綻びが出てきました。
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