手さぐりブログはじめました!

足の向くまま、気の向くままに!

土蔵から鉄砲!

2012-08-29 12:36:22 | 日記
 
          

 長岡の新組地域に”北越戊辰戦争伝承館”が出来たと新聞に紹介されていた。
物好きなもので34°の炎天下の中早速出かけて来た。

          

 中越地震で傷んだ土蔵の中から発見されたそうだが、北越戊辰戦争(1868年)は今から144年も前の事だ。
これだけの年月を経過してようやくこの様な施設が出来たのが興味深い。

http://www.museum.city.nagaoka.niigata.jp/sisetsu/boshin2.html

          

 私はかって長岡に数年間勤務したことが有るが、赴任する前は色々な史跡があるのだろうと楽しみにしていた。
ところが当時は口にすることさえ出来ない”異様な雰囲気”が感じられた。
その後DVDを観て自分なりに納得した次第だった。

          

          
 この地域は長岡城奪還で有名な”八丁沖(八町潟)”が目の前で水田となっている。
真ん中の写真で中央には”潟”が見え、左下には”城”(現長岡駅)が有る。
この地域の田圃は湿田が多く、前の水害では当時の”潟”が出現した様な状況だったそうだ。
新政府軍
薩摩藩 長州藩 長府藩 尾張藩 松代藩 上田藩 田野口藩 大垣藩 高田藩 加賀藩 富山藩

同盟軍
長岡藩 会津藩 米沢藩 村松藩 新発田藩(途中離脱)

          

 この戦いで多くの兵士が亡くなっているが、この地域の町人、農民の人家にも大きな被害が出ているのも事実だ。
この伝承館で説明してくれた人が”ぽつり”と言っていた。
”この辺りの家に火を付けたのは長岡藩の侍だ!”
(戦国時代の戦いでは”攻める側”はまず相手の城下町を焼き討ちした)

 私の前の訪問者は物書きだそうで河井継之助の小説を書く為に来たらしい。


          

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天空の城?

2012-08-27 15:38:19 | 日記
 
          

 村上の骨董市に行ってきた。(女房に連れられてだが)
この写真は市役所の駐車場から撮影したもので、イメージが朝来市の”竹田城”に似ている気がする。
今は樹木が生い茂っている為に山(臥牛山)の上の石垣は僅かしか見えない。
この暑さの為登る事はしなかったが、頂上の天守跡の広場からは村上市街が見渡せる。
(昨年登ってみたが、駐車場が分り難く狭かった)

 竹田城は新潟から遥かに遠い兵庫の山中にその城跡は有って、真冬(筆者)と真夏(勝さん)に訪ねたが関西から村上の城跡を訪ねる人がいるのだろうか?
あ!「おしゃぎり」有ったか?” まだ有ります、春には「町屋の人形さま巡り」が行われ、9月15日からは「町屋の屏風まつり」が開かれます。・・・町屋のご主人から説明が有りました。
”村上も頑張っているのです。”
この頃には涼しくなっていると思うので是非訪ねてみたいものだ。

http://www.sake3.com/contents841.html


      

 暑さのせいか骨董とガラクタ(失礼!)が紙一重に見えて近くの町屋(造り酒屋)に避難した。
中に入れてもらうと”とっつきの和室”にこんな物が飾られていた。
”あれー、昨日TVで見たばかり!○○鑑定団に出ていた!”・・・放映後の為撮影OKでブログに載せるのも了解済。
上の三枚目だがT(竹)さんの2月のブログに雪の積もった写真が載っていたが、一年で一番寒い時と暑い時に訪ねるなんてどちらも物好きなんだろうか?・・・

           

 右端の写真は酒のもろみを入れ、重石をして絞り出す時の容器だそうだ。

          

 上の写真は”若林家住宅”(武家屋敷)だ。

        
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懐かしい風景!

2012-08-25 08:37:13 | 日記
 
          

 常設展でこんなジオラマが有ったが何故か懐かしく思える。
生家は農家だったので秋には学校から帰ると”はざかけ”の手伝いをした。(させられた)
それから約半世紀が経ってしまった。刈取りの田圃には水が溜まっているが、恐らく”亀田郷”の風景ではないだろうか? (亀田郷土地改良区は結構名が通っている)
大型の排水機場の出現により今ではこんな風景は見られなくなったが、もっとも刈取りも”高価”なコンバインが活躍している。
新潟近郊の腰まで浸かった湿田は今では”ビックスワン”が建ったりして、一等地だ!

          

 上の写真は昔の水路と洪水の状況だ! 明治の横田切れ”旧分水町横田で信濃川が決壊”で洪水の濁流は内野まで達した様だ。 内野のあるお寺の柱にその時の跡が残っていると聞いた事がある。
その後”大河津分水路”の掘削につながったとされている。

     

対岸のトキメッセ、佐渡汽船、フェリーと昔の新潟の堀を再現したもの、但し堀はこんなに綺麗では無かった様だ。 写真が有ったがゴミが捨てられている”どぶ川”だ。

 ちょうど一年前にこのフェリーに乗って北海道に行った。早朝小樽に到着し、お昼は釧路の市場で”勝手丼”だった。また行きたいと思っている。

          

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川の立体交差?

2012-08-24 17:00:34 | 日記

          

 この絵は江戸時代に排水路として新潟市内野の新川を掘削しているところを描いたもの。
毎日巣篭りしていないでたまにはと思い、新潟の歴史博物館へ行ってきた。
”企画展”開墾の技術史 蒲原平野のたんぼとはたけと題しての展示で面白そうだった。
しかし”がっかり!”展示は鍬とか鎌や田下駄などで自分が思っていた内容ではなかった。
残念ながら撮影不可との事で写真は掲載できない。
しょうがないので常設展を覗いてきた。ここはフラッシュを使用しなければ撮影はOKだ。

          

 この排水路のお陰で”潟”や湿地帯が田んぼに変わったとの事だ。
この事業は長岡藩と村上藩の共同事業で有ったが、実態は下記の様で有ったようだ。

 これら工事に要した費用は6万両を超え、負担は長岡藩6割・村上藩4割と定められたのであるが、村上藩がこの大部分を藩が賄ったのに対し、長岡藩は財政逼迫を理由に願人一同に負担させたため、18名(後16名)の願人は全財産を投げうって、工事を完成させたのである。
”西蒲原土地改良区 ~水と土、未来に引き継ぐ 西蒲原~”参照

今長岡の城跡は跡形もない、駅前のロータリーに天守跡の碑が建っているが同じく官軍と戦った会津の鶴ヶ城とは大違いだ。
おまけがこれだ。
その後、この工事効果が予想以上の収益を得るに至ったため、苦難と努力によって藩主より委ねられた三潟の水面及び周囲沼地は、文政10(1828)年に全域を上地(幕府直轄領)させられ、願人達は一家離散の憂き目を見るに至ったのである。 これでは幕府も滅びてしまう訳ですな。
 ”鎧潟・田潟・大潟(通称三潟)” 今は田んぼになっています。

     

 越後には全財産そして自分の命をもいとわない義人(武士ではない)がいた様で、どうも長岡藩は悪者になっている。新潟明和騒動 涌井藤四朗 旧西川町 高橋源助 旧巻町 田辺小兵衛

”司馬遼太郎 峠”の河井像は小説の中だけなのだろうか?
大分前に河井継之助のDVDを観たことがあるが、まず墓が壊されるところから始まっていた覚えがある。
河井家は戦争の責任を負って家名断絶となり、残された母「貞」と妻「すが」は長岡藩士森源三に連れられて、ふるさと越後を後にした。
前藩主牧野忠恭(隠居し雪堂)は、 藩士毛利(森)一馬の弟広之丞(源三)に新知百石を与え、継之助の親族の扶養を命じた。・・・クラーク博士と河井家の末裔より
(森氏は河井の姉の娘婿で札幌農学校(現北海道大学)の第二代学長を務めた。)

ちなみに巻は長岡藩 岩室は高崎藩 石瀬は与板藩 私の地域は”米百表”の三根山領で間瀬は桑名藩領だ。(幕末)

          

畑へ行く途中にも川の立体交差が存在している。K(勝)さんからもコメントが入っていた。
下手くそな写真で実は投稿しようか迷っていたが思い切って載せる事にした。
(他のブログでこの場所を分り易く撮影して有った。)
真ん中の写真が西川で両側が下を潜っている”大通川放水路”で近年の掘削だ。
この近くに生まれ育ったがが昔は田んぼだったし、こんな道路も通っていなかった。
高校への通学はバイク(スーパーカブ50cc)で長男は125ccと”もしかあんにゃ”はこんなものだ!

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100年の時をこえて!

2012-08-19 16:11:00 | 日記
 
 

 100年の時をこえて! 築85年の木造小学校をリノベーションした結構お洒落なレストランを見つけた。
それは旧和島村(現長岡市)の国道からちょっと(もうちょっと)入った?小高い丘の上に有った。

前にTVで廃校になった小学校を再利用してレストランが出来たと放映していたのを、たまたま近くの国道を走っている時思い出し寄ってみた。(仕事の関係で土地勘は有った。)
だが予約で満席と断られ、翌週末も予約が取れず、ようやく三度目の正直で予約が取れて行ってきた。

          

 しまった!ナイフとフォークかと思ったがご親切に箸が用意されていた。
これにサラダがついて1900円だった。途中で他の席にビールが運ばれて行ったが後の祭りだ。

          

 ここは今柏崎在住のI(池)さんの故郷でこの小学校の卒業生だろうか?
(巻高剣道部)

          

 一番気に入ったのがこの黒光りする階段で懐かしかった。新潟では古い建物があまり残っていないが、
帰宅してパンフレットを見たら、文化庁 登録有形文化財建造物を目指していると書いて有った。是非 残して欲しい!

          

 二階に写真が貼られていたが映画のロケに使われた様だ。

           

 入り口に当時の椅子に花が飾られていて、もしかしてまだ有るのかと聞いたが残念ながら無いとか。
結構同じ質問がある様だ。
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