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川の立体交差?

2012-08-24 17:00:34 | 日記

          

 この絵は江戸時代に排水路として新潟市内野の新川を掘削しているところを描いたもの。
毎日巣篭りしていないでたまにはと思い、新潟の歴史博物館へ行ってきた。
”企画展”開墾の技術史 蒲原平野のたんぼとはたけと題しての展示で面白そうだった。
しかし”がっかり!”展示は鍬とか鎌や田下駄などで自分が思っていた内容ではなかった。
残念ながら撮影不可との事で写真は掲載できない。
しょうがないので常設展を覗いてきた。ここはフラッシュを使用しなければ撮影はOKだ。

          

 この排水路のお陰で”潟”や湿地帯が田んぼに変わったとの事だ。
この事業は長岡藩と村上藩の共同事業で有ったが、実態は下記の様で有ったようだ。

 これら工事に要した費用は6万両を超え、負担は長岡藩6割・村上藩4割と定められたのであるが、村上藩がこの大部分を藩が賄ったのに対し、長岡藩は財政逼迫を理由に願人一同に負担させたため、18名(後16名)の願人は全財産を投げうって、工事を完成させたのである。
”西蒲原土地改良区 ~水と土、未来に引き継ぐ 西蒲原~”参照

今長岡の城跡は跡形もない、駅前のロータリーに天守跡の碑が建っているが同じく官軍と戦った会津の鶴ヶ城とは大違いだ。
おまけがこれだ。
その後、この工事効果が予想以上の収益を得るに至ったため、苦難と努力によって藩主より委ねられた三潟の水面及び周囲沼地は、文政10(1828)年に全域を上地(幕府直轄領)させられ、願人達は一家離散の憂き目を見るに至ったのである。 これでは幕府も滅びてしまう訳ですな。
 ”鎧潟・田潟・大潟(通称三潟)” 今は田んぼになっています。

     

 越後には全財産そして自分の命をもいとわない義人(武士ではない)がいた様で、どうも長岡藩は悪者になっている。新潟明和騒動 涌井藤四朗 旧西川町 高橋源助 旧巻町 田辺小兵衛

”司馬遼太郎 峠”の河井像は小説の中だけなのだろうか?
大分前に河井継之助のDVDを観たことがあるが、まず墓が壊されるところから始まっていた覚えがある。
河井家は戦争の責任を負って家名断絶となり、残された母「貞」と妻「すが」は長岡藩士森源三に連れられて、ふるさと越後を後にした。
前藩主牧野忠恭(隠居し雪堂)は、 藩士毛利(森)一馬の弟広之丞(源三)に新知百石を与え、継之助の親族の扶養を命じた。・・・クラーク博士と河井家の末裔より
(森氏は河井の姉の娘婿で札幌農学校(現北海道大学)の第二代学長を務めた。)

ちなみに巻は長岡藩 岩室は高崎藩 石瀬は与板藩 私の地域は”米百表”の三根山領で間瀬は桑名藩領だ。(幕末)

          

畑へ行く途中にも川の立体交差が存在している。K(勝)さんからもコメントが入っていた。
下手くそな写真で実は投稿しようか迷っていたが思い切って載せる事にした。
(他のブログでこの場所を分り易く撮影して有った。)
真ん中の写真が西川で両側が下を潜っている”大通川放水路”で近年の掘削だ。
この近くに生まれ育ったがが昔は田んぼだったし、こんな道路も通っていなかった。
高校への通学はバイク(スーパーカブ50cc)で長男は125ccと”もしかあんにゃ”はこんなものだ!

コメント (4)
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