手さぐりブログはじめました!

足の向くまま、気の向くままに!

六地蔵を英訳すると? シックス ジゾウ?

2014-09-28 08:41:29 | 日記

           

 いつもの石瀬地区のまち歩きなんだが、今回は英文のパンフレット作りの為のツァーで、参加者の中には大学生、学校講師、外国暮らしが長かった人などさまざま。
 最初は酒蔵見学から試飲・・今回は若い人が多いせいか飲む人は少ない・・蔵元の奥様が手にしているお酒は美容液として肌にとても良いそうだ!強調していました。


           

 県内でも相当古いお寺「青龍寺}・・額の上に彫られているのは「錫杖」でしょうか。


           

 昔の偉いお坊さんが植えたと伝わる梅の古木・・左はその枯れ枝なんだが、龍に似ているからと飾ってありました・・それにしても蛍光灯が邪魔。


          

 柱にこの様な寄進の札が・・天神山城主 大国氏の末裔からの寄付。
 ”上杉氏家老 直江兼続(妻夫木聡)の弟の大国実頼(小泉孝太郎)”の子孫がいたのですね。
 山形県には加藤清正の子孫もいる様で歴史の宝庫みたいです。

           

 神主のお宅に保存されている「幻の与板城(陣屋)築城」の地鎮祭での祝詞・・伊井直輝の文字が見えます。
 先週から「柘榴坂の仇討」が封切られていますが、与板藩(石瀬)は彦根藩の支藩で、幕末の殿様は桜田門外で暗殺された伊井直弼の四男だったそうです。
 (主演 中井貴一/阿部寛/広末涼子/中村吉右衛門/高嶋 政宏)

 ここで聞いてみました、お寺は「テンプル」神社は?「シュライン」だとか・・私の発音はまるで硬い日本語読みですが。
 ちなみに神輿は「ポータブル シュライン」だそうで、アハハ!ですが、この様に楽しく覚える英語はいいですね。


          

 曹洞宗 種月寺の紅葉で、まだまだ青々としていますが、ここの紅葉は素晴らしいものです。
 この参道に六地蔵が有ったのですが、これは英語ではどう訳すのでしょう・・ちょっと難しそうだったので提案してみました。
 ジャパニーズ・シックス・ジゾウはどうですかと、きっと今日あたりきちんと調べてくれていると思います。
 英文のパンフレットが出来たら、発音も含めて習いたいと思います・・また楽しみが出来ました!
          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とても豪勢な官兵衛特別展

2014-09-27 15:51:06 | 日記

           

 城内で見つけたトイレ風の官兵衛案内所で紹介された軍師官兵衛展を見る事に・・流石福岡市です! とても豪勢な建物(博物館)だったのです。


           

 このロビーなんて圧倒されます!・・あの荒れ果てた城とのギャップが凄すぎます。
 官兵衛が信長公から貰った国宝「圧切長谷部」の刀や、母里太兵衛が福島正則から呑み取ったと伝わる鑓が展示されていたのです。(撮影不可)
 竹さんのブログでは入場者が10万人突破したとか、入場料は一人1300円ですから一億三千万円稼いだことになります。
 少し位お城の管理に廻したら如何でしょうか?

          

 国宝 金印「漢委奴国王」が展示して有りました・・ここは入場料200円也。
 大昔、学校で習った記憶があるのですが、ここに在ったとは・・約108グラムと書いて有ったのだが、今グラム幾らなんて無粋な事は言ってはいけませんね、なんてたって国宝ですから。

 今回の九州の旅はまるで修学旅行みたいでした、佐賀の吉野ヶ里遺跡にここの金印ですから。
 あの博多の餃子一人三人前のせいで、未だにズボンがきついのには困りものです。
 しばらく福岡のイメージはあの餃子になりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

え!・ここが本当に軍師官兵衛の城!?

2014-09-26 10:02:35 | 日記


 ここが今放送中の軍師官兵衛のお城だったのでしょうか?・・もっともこの城は福岡藩黒田氏の居城として、息子の長政が築城したのだそうで、慶長6年(1601年)には築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工したとか。


          


 官兵衛が亡くなったのは慶長9年3月20日(1604年4月19日)、この城の完成を待たずに亡くなったので、この地は官兵衛とあまり縁の無い所だったでのしょうか?

           

 余りにもの荒れ方に驚きです・・ここも兎に角広いのです。
 広過ぎて管理が間に合わないのでしょうか?・・予算が無いのでしょうか?それにしては後で寄った博物館などは立派で、本当に豪勢な建物だった・・まさかどこぞの石炭王が寄付した訳でもないと思うのだが?


          

 前の写真の建物を上に登ってみると、ここはきれいにされていました・・昔どこかの短大の学生寮に使用されていたそうで、どうりで入口が多く見えるわけです。


            

 本丸が有ったで有ろうと思われる場所・・この付近にはシルバーさんが一生懸命草刈りをしていました。
 ドラマが段々この地に近づいて来たので慌てて整備している様に思えた位です。

 この本丸近くの石垣にはホームレスが住んで居てブルーシートやらゴミが散乱していました・・猫もいましたが飼っているのでしょうか?


           

 家臣の母里太兵衛(速水もこみち)の屋敷の長屋門だそうだ・・建物自体は結構きれいだったがここも夏草が茂っていたのです。


          

 敷地の一角にようやく見つけた展示施設・・外観からするとドラマが終わったらトイレでしょうか?
 ここのノボリは流石に綺麗だったが、天守近くのノボリは雨に打たれて色は薄れ、きっと放送が始まる頃からずっとそのままになっていたのでは・・・ 
 どうりでホテルのフロントでも薦めなかった訳です・・軍師官兵衛の策に嵌ってしまったみたい!


               

 あ~あ、こんなことなら早めにチェックアウトして中津城に行けば良かった・・当日の午後の飛行機で帰る予定だった為に断念したのです。
 左の写真の様に熊本城はきちんと整備されていたのに、この違いはどこから来るのでしょう?聞きたいところです・・恥ずかしくないのだろうか? 独り言ですが。
 新潟弁で言えば”しょったれ!”です。

 *今回の旅行で一番がっかりしたのがこの城でしょうか・・考え方ですがまた行く口実が出来ました、来年辺りに中津の城へ行ってみたいと思います。 
 *福岡での一番は竹さんと行った店の餃子でしょうか、あんなのが新潟に在ったら繁盛するでしょうね! 寒い時なんか最高です! 「博多祇園鉄なべ」   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SAGA!・佐賀!と言ったら・・?

2014-09-25 09:25:32 | 日記

          


 佐賀と言って連想するのはやはり「がばいばあちゃん」でしょう、県外の人が新潟で連想するのが「田中角栄」であるのと同レベルです。(ある程度の年代の方でしょうが)

  長崎から佐賀に向かって走り、唐津城に行く事にしました・・途中に秀吉の朝鮮出兵の拠点だった「名護屋城跡」の案内看板が有ったのだが時間の関係でパスです。


           

 写真の橋を渡って城に登り、ぐるっと廻りを写してみました


            

 眼下の海は玄界灘で、真ん前の島に集落と港が見えました・・学校は船で渡ってくるのでしょうか?
 城の石垣(基礎)は工事中で大きなクレーンが稼働していました。


          


 城の展示物に面白い物が有りました・・巨大な釜で名護屋城に集まった各地の侍達の飯を炊いたのしょうか。(撮影不可)
 もう一つは旗を立てる石で諸大名の陣屋におかれ、軍旗や馬印などを立てたのだそうだ。


            

 有名なものが有りました・・唐津くんちという盛大な祭りで、写真はその時に曳かれる山車。
 ちなみに左側の写真で左が「上杉謙信」で右は「酒呑童子」・・酒呑童子は京の街を荒らした大盗賊ですが、その出生は謎で各地に説が残っている様です。 
 分水(燕市)で生まれ、国上の寺で修行したとかで、和納の近所の寺でも修行したとも伝えられているのです。

           

 有名な人がいました・・早稲田大学の創設者「大隈重信」です。
 唐津城の敷地内に早稲田の名前の付いた中高一貫校があったのです・・勝手に名前を付けたのかと思ったらそうではなかったのです。
 早稲田大学系属校として卒業生の50%は早稲田大学に推薦入学出来るとか。Wikipediaより
 大隈重信は佐賀出身だったのです。

 *伊万里焼が有りましたね! 縁が無いので気が付きませんでした。

 *くんちとは九州北部の秋祭りの呼称で、”九日説””供日説””宮日説”があると言われています。
 新潟だったら、くんちは九日がなまったものですが・・”ここのか”とも言うが”くんち”とも言います。
 十九日(じゅうくにち)とは言いませんね、じゅうくんちですね、新潟では。ただ○○月九日は「ここのか」が一般的みたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎出島を海側から撮ると・・

2014-09-24 12:35:21 | 日記


 当時の長崎出島を描いた絵図・・ホテルの側だったので足を運んでみました。


            

 当時の海側から撮ると左の写真の様で、中央の写真の矢印辺りに本土に繋がる橋が架かっていたみたい・・当時の海には今はビルが建っていたり、路面電車が走っていたりで、ここに出島が有ったのだと言う感じで残されています。

            

 オランダ坂と唐人屋敷は有名だったが、私には右のお風呂の方が面白く思えたのです・・ただの坂にもこの様にりっぱな名前を付けると有名になれるのでしょうか?


           

 近くに女子大が有って、その関係者の建物だったみたいですが、山を削って建てられて眺めは良さそうです。
 右は高速から写した一枚ですが、長崎って海に面して周りが山に囲まれていて斜面を削ったり、山を平らにして発展して行ったのがはっきり分ります。
 鎖国していたので外部から隔離する為だったのでしょうか?
 近くで例えると間瀬の海岸に出島を造り、裏の山を削って街並みを形成して行く・・それを大掛かりにしたのが長崎かな~。(電車が走っているので相当大掛かりにしなければなりません)

           

 長崎の夜は疲れていたので、目の前に有った中華街で済ませました・・そんなに遅い時間では無いのに人通りは少なかった。

          

          
 中華街手前の橋の上では長崎くんちの練習が行われていました・・ホテルの部屋から見ると丁度右斜め下です。
 ホテルの前の道を数分で出島に到着です。

 *レンタカーのナビがホテルまで上手に案内しないので困りました・・ホテルが左側に見えるのに左折出来ない道路で、ぐるっと遠回りしてようやく到着でした。

          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする