さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

真田の伏兵が活躍 夏の陣決戦の地「四天王寺」

2016-11-27 17:49:11 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では時を変え家康と幸村が大坂の陣で本陣を構えた「茶臼山(天王寺公園)」について取り上げた。

大坂冬の陣は豊臣方が城の縮小と家臣を人質として徳川方へ出すことを条件に豊臣秀頼の安全と籠城浪人を不問とすることで和睦が成立したが、その後まもなくして大坂夏の陣が勃発。
幸村が最期を迎える戦いが始まった。今週から大坂夏の陣に縁がある名所を紹介したい。

前号で紹介の茶臼山から北東へ約400m。ここに幸村が伏兵を構えていた「四天王寺」がある。
伏兵とは戦闘が起きることを予期し、敵の不意を突くために待ち伏せをする兵のこと。
幸村は、真田十勇士の一人とされる家臣「穴山小助(あなやまこすけ)」を自らの影武者として出陣させたといわれる。
穴山小助は背格好が幸村と似ていたことから幸村を装い徳川方へ交渉に行かせたり、徳川家の重臣である本多忠朝(ほんだただとも)と幸村による一騎打ちの際は密かに幸村と入れ替わり「我こそが正真正銘の真田左衛門佐なり」と名乗り奮闘したという説がある。
他にも幸村には影武者が7人程存在したとされ、これは戦上手の幸村ならではの作戦であったのかもしれない。

四天王寺の南西側入口にあたる石鳥居周辺は、茶臼山方面から攻め入る徳川方と豊臣方の伏兵がぶつかり決戦の地となったところ。
現在も天王寺公園方面から訪れる参拝者らで賑わっている。なお、石鳥居は1294年に建てられたもので国の重要文化財に指定されている。


【写真】四天王寺の石鳥居

日本書紀によると四天王寺は今から1400年以上前の推古天皇元年(593年)、聖徳太子により建立され、度重なる戦火や災害に見舞われながらも創建当時の姿が忠実に再現されており、古代の建築様式に触れられる貴重で由緒あるお寺。
「天王寺」の駅名の由来とされる四天王寺へぜひ拝観を。

(次田尚弘/大阪市)




【写真】四天王寺の五重塔

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大坂の陣の歴史的要所 家康・幸村の本陣跡「茶臼山」

2016-11-20 13:34:58 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では大坂冬の陣の際、幸村が陣を構えた真田丸跡に位置する三光神社と、今も残る「真田の抜け穴」について取り上げた。
家康は真田丸から南西約3キロに位置する「茶臼山」に陣を構え豊臣勢へ攻め入った。
今週は茶臼山を紹介したい。


【写真】時を変え、家康、幸村が本陣を構えた「茶臼山」

茶臼山は天王寺区茶臼山町(天王寺公園内)にある標高26mの丘。元は5世紀頃の豪族の墓であるとされ茶臼山古墳といわれる。
三男・秀忠と共に出陣した家康は住吉に、秀忠は平野に本陣を置いた後、大阪城を望む茶臼山で参会し軍議を開き、それに藤堂高虎と本多正信も同席したとされる。
その後、秀忠が平野から御勝山へ、家康が住吉から茶臼山に本陣を移動。まもなくして大坂冬の陣が始まった。

豊臣勢に圧倒された徳川勢は兵糧不足も後押しとなり豊臣方との和睦交渉を開始。
豊臣方から淀殿を人質として江戸へ行くことを条件に、籠城する浪人への加増を求める和睦案が出されるが家康はそれを拒否。

徳川勢が仕掛けた絶え間ない砲撃(イギリス・オランダから購入した大砲を用いたとされる)で心理的に疲弊した徳川方より、本丸を残し二の丸・三の丸を取り壊し外堀を埋める(真田丸も同時に破壊)ことや豊臣の家臣を人質として出すことを提示。
徳川方は豊臣秀頼の身の安全と籠城浪人を不問とすることを約し和睦が成立。大坂冬の陣は収束に至った。

その後、大坂夏の陣が勃発。冬の陣の和睦により真田丸を破壊された幸村は茶臼山に本陣を構え、幸村が最期を迎える戦いが始まった。
時を変えて家康、幸村が本陣を構えた茶臼山は「大坂の陣」の歴史の要所となっている。

茶臼山(天王寺公園)へはJR・地下鉄天王寺駅から北へ徒歩約15分。

(次田尚弘/大阪市)
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真田丸の歴史が漂う 城へ通じる「抜け穴」

2016-11-13 17:53:44 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では九度山に幽閉されていた幸村が豊臣秀頼の招きに応じ大阪城へ入場し、城の南方に築いた「真田丸」の構造と「大坂冬の陣」の歴史に触れた。
今週は真田丸跡に位置する「三光(さんこう)神社」に今も残る「真田の抜け穴」を紹介したい。


【写真】幸村像と「真田の抜け穴」

真田の抜け穴がある三光神社は大阪城の南東約1.5キロの真田山(標高10メートル)に位置する。
古くから中風(ちゅうぶう)除の神として知られている。中風とは脳卒中などの後遺症として現れる腕や脚の痺れや麻痺で、治癒を祈る参拝者が全国から訪れるという。

境内には幸村の銅像が建ち、その傍らに「真田の抜け穴」がある。
かつては大阪城と地下でつながっていたとされ、現在は鉄の扉で閉ざされている。
抜け穴はこの他にも近隣の陣地に複数存在したといわれ、それぞれが結ばれていたことから幸村が即座にあらゆる陣地に顔を出したことで、徳川率いる敵軍をかく乱させたともいわれる。
九度山町に残る「真田の抜け穴」と同じく石積みで作られた空間は、それとよく似ており、穴の中で今もなお400年以上前の真田丸の空気が漂うように感じるのは筆者だけだろうか。

抜け穴は11月の第1日曜(今年は11月6日)に限り一般公開される。
抜け穴の上には、六文銭があしらわれた木製の楯と赤備えの旗が建てられ、大坂冬の陣における真田の鉄砲隊による徳川の軍勢への猛攻ぶりを思わせる。
幸村の銅像との記念撮影や抜け穴を覗き込む参拝者が多く、六文銭があしらわれた絵馬や大坂冬の陣の武運を肖る御守りなどを買い求めていた。

アクセスは市営地下鉄玉造駅から南へ約200m、環状線玉造駅から西へ約300m。真田丸の歴史を感じたい方はぜひ参拝を。

(次田尚弘/大阪市)
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絵図の記憶を頼りに 真田丸跡を訪ねて

2016-11-06 20:25:23 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
 前号では和歌山城と姉妹城提携されている大阪城の歴史に触れた。
城の南方に築かれた真田丸を中心に、今週からシリーズで大阪城周辺の真田幸村ゆかりの地を紹介する。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に敗北し九度山に幽閉されていた幸村が、豊臣秀頼の招きに応じ大阪城へ入城したのは慶長19年(1614年)10月のこと。
入場した幸村は直ちに大阪城の南方が脆弱であることに気付き出丸を構築。それが「真田丸」である。

真田丸は大阪城の惣構え(外郭)から離れた位置にあり背後に幅200メートル程の谷を背負っていた。
この地には現在も清水谷という地名が残っている。大きさは南北220メートル、東西140メートル、半円形に城郭が築かれていたといわれ、研究によるとそれよりも更に大きく不定形あるいは五角形であったという説もある。

真田丸建築の目的は大阪城の脆弱性を補うだけでなく、ここへ徳川軍をおびき寄せ攻撃するためであったといわれ、慶長19年12月4日、世に言う「大坂冬の陣」が真田丸を舞台に繰り広げられ、前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎など徳川方の大軍を手玉にとり大勝利を遂げた。

大坂冬の陣の後、徳川と豊臣による和議の条件により真田丸は破壊されている。
現在、真田丸跡は大阪明星学園のグラウンドであるといわれ、付近を通る道路沿いに「真田丸顕彰碑」が建てられている。


【写真】真田丸顕彰碑(真田丸跡)

大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線・JR環状線玉造駅から南西へ約500メートル。絵図でしか記録が残らない幻の城といって過言ではない真田丸。
幸村最後の決戦はここを中心に始まった。

(次田尚弘/大阪市)
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