さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

観光・文化振興の起点に 紀州街道に残る「一里塚」

2019-04-28 13:39:45 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より、岸和田市の歴史や文化を現代に伝える「歴史文化ゾーン」と、紀州街道(大阪市中央区高麗橋-和歌山市京橋)について取り上げている。

今週は、同ゾーンに指定され、岸和田城の西側に位置する本町地区にある、市指定の史跡「紀州街道本町一里塚跡(一里塚弁財天)」を紹介したい。

岸和田市本町地区。かつての紀州街道が通り、城下町として歴史的特徴のある木造家屋と石畳を思わせる舗装が印象的なこの地区に「一里塚」がある。

一里塚とは、慶長9年(1604年)江戸幕府の命により、江戸の日本橋を起点に伸びる五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)に対し、36町歩(約4㎞)を一里と定め、そこに塚を建造し、榎や松の木を植えたのが始まり。
紀州街道は東海道(東京日本橋-大阪高麗橋)の脇街道であり、紀州への主要路と位置づけられていたことから、和歌山城下まで一里塚が設けられていた。

本町地区に残る一里塚の側には、当時、松の木が植えられており、その下に小さな祠が建てられていたという。
天保7年(1836年)に弁財天として社殿を設け、現在に至るという。

昭和31年8月、岸和田市の史跡に指定され、紀州街道の歴史を伝える場として整備。
弁財天の隣には、だんじり祭りの地車を格納するための「地車小屋(だんじりごや)」があり、現在も地域の人々が集う場として歴史が息づいている。


【写真】一里塚と地車小屋(岸和田市本町)

また、付近には地域の人々の集会所や観光客の休憩所として整備された「まちづくりの館」があり、まちづくりや文化振興の拠点として観光案内や各種講座が開催されている。

南海岸和田駅から徒歩約15分。岸和田だんじり会館の西側に位置する紀州街道沿い。

(次田尚弘/岸和田市)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「紀州街道」の街並み 岸和田市の歴史文化ゾーン

2019-04-21 17:12:57 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、城下の賑わいを現世に残す、岸和田市の「だんじり」の見どころと醍醐味を取り上げた。

22の町会が所有する地車が勇壮に狭い街並みを走る光景はテレビでご覧になられた方も多いだろう。
市が歴史的な建築物が建ち並ぶ「歴史文化ゾーン」と位置付けた本町地区は、岸和田城の西側に位置する4.9ヘクタールの地域。
紀州街道を中心に、かつての城下町の趣きを残すこの地域は、大阪と和歌山をつないだ歴史や文化を考察するうえで貴重な存在。
今週は、岸和田市内を通る紀州街道とまちづくりの取り組みを紹介したい。


【写真】岸和田市を通る「紀州街道」

紀州街道は、大阪市中央区の「高麗橋(こうらいばし)」を起点とし、和歌山市の「京橋」へと続く、大阪城下と和歌山城下をつなぐ主要路として整備。豊臣秀吉により大阪と堺を結ぶ「住吉街道」として整備がはじまり住吉大社への参詣道とされていた。

高麗橋は現在の大阪メトロ堺筋線「北浜駅」の近く。大阪から堺へと続く街道であることから現在も「堺筋」の名が残る。堺筋線の終着駅となる「天下茶屋」は、天下取りの秀吉が訪れた茶屋が存在したことからその名が残る。

紀州街道が整備される以前は、本コーナーで紹介したことがある「高見峠(たかみとうげ)」を通り伊勢へと向かうのが、紀州藩の参勤交代のルートとされていたが、元禄14年(1701年)からは紀州街道を通るルートへと変更されたことから、この頃より紀州街道を軸とした、大阪と和歌山の基幹となる道路が整備されたといえる。

岸和田市の本町地区は当時の面影を残し、木造家屋と石畳を思わせる舗装路が特徴的。
街道側の建築物は中二階建てで、城側は城が見えないよう一階建てとなっており、当時のまちづくりの工夫を感じさせられる。

(次田尚弘/岸和田市)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城下の賑わいを現世に残す 「だんじり」見どころと醍醐味

2019-04-14 19:16:35 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より、200年以上受け継がれ、地域愛を育むきっかけとなっている「だんじり」を取り上げている。

各地域で構成された22の町会が所有する地車が、岸和田市内を勇壮に駆け巡る本宮(本祭)は敬老の日の前日にあたる日曜日の開催。その前日(土曜日)に宵宮(宵祭)が行われる。

祭りの始まりは宵宮の午前6時。市役所から流れるサイレンを合図に、各町会のだんじりが、岸和田港交差点(大阪臨海線)をめざして一斉に走り出す。これを「曳き出し」という。

午後1時からは南海岸和田駅前でパレード。午後7時から10時まで、だんじりに200個余りの赤い駒提灯を取り付け歩行曳行される「灯入れ曳行」が行われ、日暮れの街に雅な空間を演出し、昼間の勇壮さとは異なるだんじりの魅力に触れることができる。

翌日の本宮は、朝から、市内の弥栄神社、岸城神社、岸和田天神宮を参拝する「宮入り」が行われる。氏神となる神社となる町会を先頭に宮入りが開始され決められた順に沿って参拝。その他の町会はくじ引きの順に従う。

だんじりの大きな見どころとして知られるのが「やりまわし」。勢いよく走りながら地車を直角に方向転換させる技。
重さ4トンもの地車を正確に操るためには、地車を前に曳く青年団、旋回を始める前梃子、舵取り役に合図を送る大工方、合図により舵取りをする後梃子、それぞれが息を合わさねば成せない技で、町会の人々の深い信頼関係が不可欠。

とはいえ、道幅が狭い「紀州街道」でのやりまわしは困難を極め、テレビで目にする家屋への衝突はここで起きることが多い。

祭りの歴史や詳細は「岸和田だんじり会館」で知ることができる。


【写真】岸和田だんじり会館>

岸和田城から南西へ数分。地域愛が息づく祭りを学んでみては。

(次田尚弘/岸和田市)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町会で地域愛を育む 200年受け継ぐ「だんじり」

2019-04-07 14:27:37 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、和歌山城と時を同じくして竣工した、岸和田城天守の歴史を取り上げた。
明治維新を迎えるまで13代にわたりこの地を統治し、地域を発展させた岡部氏ならではの奇策がある。

岸和田といえば「だんじり」。毎年9月、城下で行われ、山車の一種である地車(だんじり)に付けられた長さ100m程度の二本の綱を500人程度で曳行し、街中を疾走する勇壮なお祭り。
地車を方向転換させる「やりまわし」や、和太鼓と鉦、篠笛が奏でるお囃子が特徴。岸和田市出身の知人がいらっしゃる方であれば御存知だろう。
祭りの時期になるとそわそわし始めこの話題で持ち切りになる。そこまで彼らの気持ちを高揚させる地域愛はどこにあるのか。

「だんじり」は、元禄16年(1703年)、岸和田藩2代藩主の「岡部長泰(おかべ・ながやす)」が伏見稲荷大社を城内の三の丸に設け、五穀豊穣を祈願した稲荷祭が起源であるとされる。
長泰は城下の庶民にこの稲荷祭への参詣を許し、山車の周囲で町民らが藩主の前で、にわか芸や神楽を踊るなど賑やかな催事を行ったことが始まりであるとされる。

独特であるのが、当時の藩政に基づき構成した社会的紐帯(町や字などの地域単位)である「町会」と呼ばれる組織が現代にも残り、それぞれが地車を所有し曳行すること。

この町会が22あり、さらに「岸和田地車祭禮年番」という運営組織が祭りを取り仕切る。
これらの制度は200年以上変わらず継続し、町会では年齢に応じたピラミッド型の組織を構成。若年からこの組織に入り地域の先輩と共に、祭りの成功という共通の目標を持ち関係を深め、歳を重ねていく。


【写真】だんじりを模した時計台(岸和田城)

町会による地域内の結束力の強さ、人と人、人と町とのつながりが地域愛を育むのだろう。

(次田尚弘/岸和田市)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする