さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

時を同じくして竣工 岸和田城天守の歴史と魅力

2019-03-31 14:45:29 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
 
前号では、秀吉による紀州征伐と和歌山城築城の経緯、紀州藩のお目付け役として和泉岸和田藩の初代藩主となった、岡部宣勝について取り上げた。
 
和歌山城の築城と時を同じくして、岸和田城は当初からあった本丸を五層の天守に改築。
寛永17年(1631年)に入城した岡部氏は、明治維新を迎えるまで13代にわたりこの地を統治した。
 
現在の天守は昭和29年に建造されたもので3層3階の構造。岡部氏の子孫や市民の要望を受け再建され、内部を図書館として活用する考えであったという。
 
竣工当初の天守は5層であったとされ、高さ18間(約32メートル)。
文政10年(1827年)11月、落雷により消失し、以後再建されることはなかった。
縦横共に長さ約18メートルの天守台に建ち、岡山城と同程度の大きさであったと考えられている。
 
天守にそびえる「鯱」のうち、南側は「阿形」、北側は「うん形」と、神社などに置かれる狛犬と同様であることが特徴。
 
近年は観光施設として、結婚式など各種イベント会場として活用。
平成26年には天守前にある「岸和田城庭園(八陣の庭)」が国の名勝に指定。
堀端に植えられたソメイヨシノの木々は訪れる者を魅了し、この時期は大勢の花見客が訪れる観光名所として知られている。
 
 
【写真】岸和田城天守と庭園(八陣の庭)
 
開場時間は午前10時から午後5時まで。お城まつり期間中(4月1日~15日)のうち4月1日から7日は午後8時30分までの特別営業で、いずれも入場は閉場の30分前まで。
原則毎週月曜が休場。天守への入場料は大人300円。
時を同じくして竣工した歴史のある和歌山城と岸和田城。
1年で最も映える桜の季節。訪れて、城の魅力に触れてみては。
 
(次田尚弘/岸和田市)

2013年3月に訪問した時の岸和田城の桜です。 

 
 
2013年3月30日撮影 岸和田城
 
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紀州藩のお目付け役 徳川頼宣と岸和田藩・岡部宣勝

2019-03-24 13:33:13 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、岸和田城から紀州征伐へと向かった秀吉軍と、根来衆・雑賀衆の攻防を取り上げた。

紀州征伐は終わりを迎え、副将として参陣していた秀吉の弟・秀長が、秀吉の命により和歌山城を築城。
天正14年(1586年)、秀長の家老を務めた「桑山重晴(くわやま・しげはる)」が3万石で城代となる。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで武功を上げた桑山氏は大和新庄藩(布施藩)へ転封となり、同じく武功を上げた「浅野幸長(あさの・よしなが)」が37万6千石で初代紀州藩主として入城。慶長10年(1605年)、天守が建てられたという。
元和5年(1619年)、浅野氏は広島藩に転封となり、代わって家康の十男・頼宣が55万5千石で入城。御三家のひとつ、紀州徳川家の成立となる。

元和7年(1621年)、頼宣は兄で2代将軍であった秀忠より銀5千貫をもらい、城の改修と城下町の拡張を開始するも、外堀を拡張し総構えにしようとの画策が幕府より嫌疑をかけられ中止。「堀止」の地名が残る由来でもある。

岸和田城では、寛永17年(1631年)に「岡部宣勝(おかべ・のぶかつ)」が6万石で入城。和泉岸和田藩の初代藩主となり、以後13代にわたり、岡部氏の居城となった。


【写真】堀から天守を望む(岸和田城)

一説によると、宣勝は時の将軍・徳川家光からの信頼が厚く、幕府により紀州徳川家を監視する目的であったという。

江戸城で宣勝と頼宣が出会った際、頼宣が「岡部氏が和泉に居られるのは、我らのおさえのためと聞いているが」と尋ねた。
それに対し、宣勝は「大身のあなたをおさえるなどとんでもない。せいぜい、足の裏に米粒が付いたくらいのことでしょう」と、小藩の意地を込め返答したという。

紀州藩のお目付け役。岸和田城と和歌山城の深い関係が見えてくる。

(次田尚弘/岸和田市)
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岸和田城から紀州征伐へ 秀吉軍と根来衆・雑賀衆の攻防

2019-03-17 13:33:19 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、天正12年(1584年)、雑賀衆などの紀州からの連合軍による岸和田城への襲撃の際、突如現れた蛸に乗った法師とそれに続く蛸の大群が連合軍を退却させ、岸和田城が守られたという伝説と、それにまつわる寺「天性寺(蛸地蔵)」を紹介した。

その後も秀吉との交戦は続く。天正13年(1585年)2月、秀吉は家臣である小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に、毛利水軍を岸和田へ派遣するよう命じ、3月9日、貝塚の寺内に禁制を発行し安全を保障。
秀吉は根来寺に使者を派遣し和睦を提案するも、和睦の反対派が使者の宿舎に鉄砲を撃ちかけたことで交渉は決裂。秀吉による紀州への侵攻(紀州征伐)が始まる。


【写真】岸和田城の天守

3月20日、秀吉は10万もの兵を率いて出陣し、翌21日、岸和田城に入る。
多数の軍船を揃え、海陸両方から紀州に攻め込む戦法をとり、対する根来衆や雑賀衆は9千の兵で迎え撃つこととなる。

まず、紀州側の防衛線で、根来寺の支城、現在の貝塚市橋本付近にあった「千石堀城(せんごくぼりじょう)」に攻め込む。城兵による弓と鉄砲に阻まれ、秀吉側の軍勢で1時間余りで千人の死傷者を出す攻防戦となったが、城内に射った火矢が火薬庫に引火し城は炎上。
それが起因となり、その他の支城も落城を迎える。

和泉の制圧を受け、23日、秀吉は岸和田城を出立し根来寺へ向かう。
根来寺では戦闘する者は少なく制圧。その後出火し3日間燃え続け、それは貝塚からも見えたという。
日を同じくして粉河寺も炎上。24日には秀吉が紀の川の北岸から現在の和歌山市へ進軍。
紀州側の軍勢は船での脱出を試みるなど大混乱となり、雑賀衆の残党による太田城の籠城も水攻めで落城。
紀南方面への制圧も進み、紀州征伐は終わりを迎える。

(次田尚弘/岸和田市)
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紀州からの連合軍と戦う 「蛸地蔵」岸和田城防衛の伝説

2019-03-10 13:34:27 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より「世界に一番近い城下町」としてPRが盛んな、岸和田城の歴史を取り上げている。

岸和田城に大きな転機が訪れたのは秀吉による紀州征伐の頃。
秀吉の命を受け、石山合戦や山崎の戦いで武功を立てた中村一氏(なかむら・かずうじ)が岸和田城主となり3万石を拝領。
当時、秀吉に服属せず、根来衆や雑賀衆、粉河衆などの紀州勢に支配されていた和泉国を傘下に、大坂城の防衛と紀州攻めに備える役割を与えられた。

天正12年(1584年)正月、紀州から根来衆や雑賀衆、粉河衆などで構成された連合軍による岸和田城への襲撃が開始。
同年3月22日からは、小牧・長久手の戦いのため秀吉が大坂を留守にした合間をぬった攻撃を受ける。
連合軍3万、中村一氏らの城兵8千と、一氏側は極めて劣勢ながらも岸和田城を守りぬいたという。

城の落城が寸前となった際、蛸に乗った法師が現れ、それに続き蛸の大群が連合軍を退却させたという逸話がある。
後日、一氏の夢の中に、蛸に乗った法師が再び現れ、自らが地蔵菩薩の化身であることを告げたことから、戦乱から守るために堀に埋め隠していた地蔵菩薩を掘り出し祭ったという。
その菩薩が「蛸地蔵(たこじぞう)」と呼ばれるようになり、城の南に位置する、岸和田市南町の「天性寺(てんしょうじ)」で現在も祭られている。


【写真】蛸地蔵の愛称で信仰が厚い「天性寺」

寺の最寄り駅となる南海電鉄の駅名として「蛸地蔵」の名が採用されるなど、地域の人々に親しまれ、受け継がれる存在となっている。

翌年、天正13年(1585年)、秀吉が岸和田城に入城。紀州からの連合軍を追討する紀州征伐が始まる。

(次田尚弘/岸和田市)
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紀州と深いつながり 監視の役割、岸和田城の歴史

2019-03-03 16:28:01 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
「世界に一番近い城下町」として第26回KIX泉州国際マラソン(ハーフ)のゴール地点となった岸和田城。
大阪城と和歌山城の中間地点に位置する岸和田城の歴史を紐解くと、その発展には紀州(和歌山)との深い関係が見えてくる。

岸和田城は岸和田駅から北西へ約700m、蛸地蔵駅から北へ約300mに位置する。
南海電鉄の車窓から天守を見たことがある方も多いだろう。
天守は昭和29年に復元されたもの。城跡は大阪府の史跡に指定され、庭園は国の名勝となっており、桜の季節には多くの観光客で賑わう。


【写真】岸和田城本丸へのアプローチ


岸和田城の歴史は、1334年頃、和泉国守護の楠木正成(くすのき・まさしげ)の甥にあたる、和田高家(にぎた・たかいえ)が現在の位置から東へ約500mのところに岸和田古城を築城したことに始まる。

当地が「岸」という名称であったことから「岸の城」ともいわれ、和田氏が治める地となったことに由来し「岸和田」の地名になったとされる。

その後、和泉国守護が山名氏清(やまな・うじきよ)となり、家臣である信濃泰義(しなの・やすよし)が統治することとなり、城郭を現在の位置へ移築されたという。
猪伏山(いぶせやま)という小高い丘に位置し、本丸と二の丸を重ねた形が、機(はた)の縦糸を巻く「ちきり」に似ていることから「千亀利(ちきり)城」と呼ばれるようになった。

大きな転機が訪れたのは、秀吉による紀州征伐の頃。
紀州征伐の拠点として、岸和田藩の初代藩主となる小出秀政(こいで・ひでまさ)により、5重の天守をもつ本格的な構えに発展。
以後、松平氏の時代に城の総構えと城下が、岡部氏の時代には外堀と寺町が整備され、紀州を監視する役目を担った。

(次田尚弘/岸和田市)
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