さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

「うちぬき」で水道代無料 江戸中期から続く豊かな水文化

2018-09-30 13:30:57 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、西条市の街中で自噴する井戸「うちぬき」の仕組みと歴史について紹介した。
江戸中期に広まったとされる「うちぬき」は今もなお市民の生活に取り入れられている。
今週は、水の都・西条市ならではの水文化を紹介したい。


【写真】「うちぬき」の豊かな水文化

合併前の旧西条市(西条陣屋を中心に、伊予西条駅周辺)において、うちぬきは、各家庭に引き込まれ、蛇口をひねれば地下水が出るというのが一般的。
定期的な検査による安全確認は欠かせないが、飲み水としても利用できる。
常に新鮮で美味しい水を、それも無料で利用できるという仕組みで、これらの地域においては上水道の計画外区域となっており、公共の上水道が提供されていない。
江戸中期から続くうちぬきを活用した生活様式が現代にも受け継がれているのである。

気になるのは下水道の整備。新鮮な地下水を守るためにも下水道は欠かせない存在であり、こちらについては整備がされている。
一般的に下水道の料金は上水道のメーターに基づき計算されるが、下水道のみの契約が一般的な旧西条市エリアにおいては、世帯あたりの居住者数に応じた使用料金の設定となっている。
2ヶ月おきの納付で、1人世帯では1280円、2人世帯では2640円、3人世帯では4080円といった具合で、1ヶ月あたりに換算すれば1人あたり600円台という料金。

しかし、近年、地下水に海水が混ざりこむ塩害化や水質汚染により簡易水道の整備が行われることもあるという。

うちぬきは、伊予西条藩8代藩主の松平頼学(よりさと)が儒学者に指示し編纂させた「西條誌」にも紹介されるほど、この地域を語るうえで重要な存在。
全国的にみても稀な水文化がいつまでも継承されることを祈りたい。

(次田尚弘/西条市)
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水の都・西条市の由縁 街中で自噴「うちぬき」の存在

2018-09-23 16:11:26 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、西条松平家の家紋「隅切り葵」や地域の祭り、産業の歴史などを展示する西条郷土博物館を取り上げた。
今週は、旧西条藩の中心であった西条陣屋から範囲を広げ、西条市の街並みを紹介したい。

西条市内を歩くと至る所で水が自噴する井戸の存在に気づく。
西条陣屋がある市役所および伊予西条駅の一帯(旧西条市内)を自噴域とし、確認されているだけで約二千箇所。噴出量は1日あたり9万立法メートルとされる。
これらの井戸は「うちぬき」と呼ばれ、名水百選にも選ばれている。


【写真】街中で自噴する「うちぬき」

水が自噴する理由は市の山間部に位置する「石鎚山(いしづちさん)」の存在。
標高1982m、西日本最高峰の山で、ここから流れる伏流水が石鎚山系の麓にあたる西条市の地下を流れる。
地上から15~30m程度、鉄パイプを打ち込むだけで良質な水が自然に湧き出すという仕組み。

故に西条市は「水の都」と称され、平成7年と8年に開催された全国利き水大会で2年連続トップに選ばれるなど全国に知られる存在。
地下水であるため四季を通じて温度変化が少なく、生活用水をはじめ農業用水、工業用水まで幅広く活用されている。
1991年に旧西条市が行った調査では75%もの市民がうちぬきの水を生活に役立てているとされ、今も、うちぬきにペットボトルやポリタンクを持参し水を汲む市民を目にする。

うちぬきが一般的になったのは江戸中期とされる。今と変わらず鉄の棒を地面へ打ち込み、くり抜いた竹を入れることで地下から地上への水路を確保する工法により広まったとされる。
水の都・西条市は当時の人々の知恵と行動により築かれている。

(次田尚弘/西条市)
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西条松平家と地域の歴史を紹介 郷土博物館「隅切り葵」など展示

2018-09-16 13:31:26 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、かつて西条陣屋の北御門として使用され、版籍奉還後は所在を転々としていた歴史的な建造物を郷土の財産として後世へ残そうとする、郷土愛にあふれる市民の活動を取り上げた。
今週は北御門と大手門の傍に建つ「西条郷土博物館」を紹介したい。


【写真】西条郷土博物館

西条郷土博物館は西条陣屋の跡地に位置する。館内には西条藩に関する歴史的な資料をはじめ、300年以上続く御当地の祭事「西条まつり」の「だんじり(屋台)」や「みこし」にあしらわれた彫刻の紹介、かつては国内最大級といわれ、「輝安鉱(きあんこう)」という鉱石(アンチモン)を多く採掘した「市之川(いちのかわ)鉱山」の歴史と鉱石の現物の展示など、盛り沢山の内容。

他にも、西条市を中心に活躍した児童文学家の展示や、商店街に残る懐かしの品々を集めた商業遺産展など、期間限定の企画は、地域密着型で面白い。

紀州徳川家の分家として当地を治めた西条松平家が使用していた「隅切り葵」の展示もある。
御三家(紀伊、尾張、水戸)は三葉葵が、葵の御紋として馴染み深いものであるが、分家においては輪郭を施す決まりとなっており本家と区別。
ここでは、輪郭の四隅を切った「隅切り葵」として紹介されている。

毎年10月中旬に開催される「西条祭り」は西条市の無形民俗文化財に指定。
伊予西条藩4代藩主の「松平頼邑(よりさと)」は、宝暦元年(1751年)に屋台の総代につき、「祭事中は身分に関わらず裃の着用や小脇差を挿すことを申し出により許可する」という触書を出すなど、地域一体となった祭事として親しまれ、現代に受け継がれている。

(次田尚弘/西条市)
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郷土の財産を後世へ 有志で修復「西条陣屋・北御門」

2018-09-09 19:32:50 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では西条藩の藩政の要であった「西条陣屋」と、200年以上の時を超え現存する「大手門」の歴史について取り上げた。
今週も西条陣屋に残る遺構と、西条藩が存在したことを後世に伝えようとする市民の活動を紹介したい。

西条陣屋は、前号で紹介の大手門が建てられたとされる寛政年間(1789年から1801年頃)より前、寛永13年(1636年)に一柳直盛が立藩したもの。
その頃に使われていたとされる当時の大手門が、解体されることなく現存している。

当時の大手門は現在の大手門が作られた後、西条陣屋の北口を固める「北御門」として移築された。


【写真】修復された「北御門」

北御門は下級武士らの通用門として使用されていたという。
天保6年(1835年)西条藩9代藩主の松平頼学(よりさと)がお国入りした際、引き戸から開き戸へと扉の様式を変えたという。
中央に開き戸を持ち、左右に潜り戸がある。現在は強度を保つため固定されている。

版籍奉還後、北御門が裁判所や役所、武道場の門として所在を転々とし、昭和40年、西条市から西条高校へと譲渡。
以後、高校の敷地内(西条陣屋跡)へ仮設置されたが、その痛みは激しかったという。
それを見兼ねた高校教諭が西条藩の遺構を後世に残そうと強い思いを持ち、市民の有志らで委員会を設置。高校や行政の支援、一般市民や企業等からの寄付金を得ながら修復を進め、平成25年9月に完了。
大手門近くの西条郷土博物館の東側で、博物館を訪れる人々を見守り続けている。

一柳氏から松平氏へと藩主が移り変わった歴史を伝える貴重な郷土の財産を守り、後世へ伝えようとする市民の郷土愛を感じた。

(次田尚弘/西条市)
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高校の校門として現存 「西条陣屋」大手門の歴史

2018-09-02 17:31:36 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、紀州藩から西条藩への多数の出向者が、200年に渡り西条藩の繁栄を支援していた歴史と、盛んであった紀州藩と西条藩の交流について取り上げた。
今週は、現在も西条市内に残る西条藩の遺構を紹介したい。

西条藩の藩政の要となった「西条陣屋(じんや)」は、市の中心部、西条市役所本庁舎のほど近くに位置し、明屋敷という地名が残る。
市内を流れる加茂川の河口部にあたる三角州に築かれ、1万坪におよぶ敷地に堀をめぐらせていた。
陣屋とはいえ、堀との境に築かれた石垣や土塀は城の風格がある。

版籍奉還後、陣屋の建物は取り壊されたが、明治29年(1896年)跡地に愛媛県尋常中学校東予分校が開校。その後、愛媛県立西条高校となり現在に至る。

校舎や体育館、グラウンドなど、高校の施設の全てが堀の内側にある珍しい形式。
堀を両手に見ながら、堀の外側から内側の校舎へと続く通路を渡ると、木造の校門が見えてくる。
この校門こそが陣屋の正門にあたる「大手門」で、当時の姿のまま現存している。


【写真】現存する「西条陣屋」大手門

平成14年に行われた解体修理により、寛政年間(1789年から1801年頃)に建てられたものであると推測されたという。
使用されている瓦に記された刻印から、現在の大阪府岬町多奈川付近の「泉州谷川」の窯元で造られたものであることが明らかになったという。
当時の紀州藩で採用されていた建築様式や資材が、離れた西条の地でも採用されていたのだろう。

大手門の他にも、北御門や腰巻土塁などが現存し、その他、当時使われていた門が市内の各所に移築され、寺の山門などとして使用されている。

(次田尚弘/西条市)
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