さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

新幹線建設、島氏の信念 安全性・信頼性は宇宙開発にも

2018-11-25 15:12:35 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、十河氏と二人三脚で新幹線開業へと導いた、島秀雄氏の功績を紹介したい。

昭和31年5月、父の遺志を継ぐ形で会長に就任した「東海道線増強調査会」は、従来の東海道線とは別線とし、在来線よりも線路幅が広い「広軌」を採用する方針を固め、答申を運輸大臣へ提出。昭和34年国会承認を受けることとなる。

いざ、新幹線の建設が始まるも高額な予算問題は残り、十河氏による政治的な駆け引きで、東京五輪までの開業を約束に世界銀行から当時の8000万ドルの借款を受け入れが決まる。総裁就任時、十河氏は、政治と予算は任せておけと島氏に伝えていたといい、東京五輪を直前にした昭和39年、島氏の信念といえる安全性・信頼性の高い新幹線が開業を迎える。


【写真】初代新幹線「0系」(四国鉄道文化館)

しかし、新幹線開業の前年、十河氏は増大した建設コストが国鉄の財政に影響を与えたとして勇退。島氏も後を追って国鉄を退職したため、十河氏、島氏共に、新幹線の出発式には参加していない。

国鉄退職後の島氏は、昭和44年、宇宙開発事業団(現在の、JAXA)の初代理事長に就任。鉄道以外の分野であったが、安全性・信頼性を重視し、必ずしも最先端の技術を求めないという鉄道車両づくりの信念は、ロケットや人工衛星の開発にも受け継がれた。

人工衛星の名前として、例えば気象衛星であれば「ひまわり」、衛星放送用の通信衛星であれば「ゆり」のように、植物の名前が使われているのをご存知だろうか。
これは、園芸好きの島氏の発案であるといわれ、ユーモアあふれる島氏のアイデアと、設計に携わった物への愛着が感じられる。

同年、東海道新幹線建設の文化功労者として顕彰され、平成6年には文化勲章を受章。
平成10年、96歳で生涯を閉じた。

(次田尚弘/西条市)
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デゴイチから新幹線まで 鉄道技術者・島秀雄氏の功績

2018-11-18 14:08:11 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、東海道新幹線建設の推進者として知られる十河信二氏が新幹線開通への思いを記した、東京駅18、19番線の新幹線ホーム上の「東京駅新幹線記念碑」を取り上げた。
今週は十河氏と二人三脚で新幹線開通へ導いた、島秀雄氏の功績を紹介したい。

島秀雄氏(1901-1998)は、和歌山市出身の父を持つ鉄道技術者。父の赴任先である大阪府に生まれた。東京帝国大学工学部を卒業後、大正14年(1925年)鉄道省に入省。主に蒸気機関車の開発に携わった。

設計主任として携わり本人も認める会心作であったのがデゴイチの愛称で知られるD51型蒸気機関車。主に貨物輸送に用いられたD51は合計1115両製造されるいわばヒット作。
ディーゼル機関車や電気機関車も含め、1形式の機関車では過去最大の製造数で、戦中・戦後の輸送を支えてきた存在。


【写真】島氏が設計主任を務めたD51型蒸気機関車

昭和12年(1937年)には世界各国の鉄道研究のため長期の海外視察を行い、その成果を活かすべく、昭和14年(1939年)に発足し父・安次郎氏が特別委員長を務めた「鉄道幹線調査会」で電気を動力とした新幹線の計画を立案している。

戦争の激化により計画は頓挫。戦後、東海道線(東京-熱海)における16両編成の長距離用の電車を計画するなど輸送力の増強に尽力。しかし、国鉄車両局長の際、戦時中に限られた部材とコストにより設計・製造された電車による事故が相次ぎ、車両の安全対策を実施した後、その職を辞した。

国鉄を離れた島氏であったが、昭和30年(1955年)十河氏の国鉄総裁就任に際し、十河氏からの要請で副総裁格の技師長として復帰。翌年5月、島氏を会長とする「東海道線増強調査会」が発足し、島氏は父の遺志を継ぐことになる。

(次田尚弘/西条市)



和歌山県の有田川鉄道公園で動態保存されているD51は空気圧で走行し、昨年夏休みの公開時には多くの人が集まりました。




このD51827は車両輸送など重量物のトレーラー輸送を手掛けているアチハ株式会社が、有名な建築家の清家清さんが購入し自宅の庭で保存していた車掌車と共に所有し、メンテナンスをしています。
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東京駅で新幹線を見守る 十河氏、開業に「一花開天下春」

2018-11-11 14:11:39 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、西条市の名誉市民で東海道新幹線建設の推進者として知られる十河信二氏と、共に新幹線の父といわれ、和歌山市出身の鉄道技師、島安次郎氏の息子である島秀雄氏の功績を取り上げる。

島氏を会長とする「東海道線増強調査会」が発足した1956年5月から技術的な規格の確立と予算確保に奔走した2人の尽力で、1964年10月1日、東海道新幹線は東京五輪を直前に控え、無事開業を迎える。

しかし、開業直前の1963年5月、十河氏は2期目の任期満了に伴い総裁を勇退。その後、間もなくして島氏も国鉄を退職し、2人が開業を国鉄職員の立場で迎えることは叶わなかった。
東京駅で行われた出発式には両者共に国鉄から招待されることはなく、自宅のテレビで開業を見守ったという。

読者の皆様は東京駅18、19番線の新幹線ホームの先に、レンガ造りの記念碑があるのをご存知だろうか。
「東京駅新幹線記念碑」といわれ、そこには十河氏のレリーフと、座右の銘とされた「一花開天下春(いっかひらいて てんかはるなり)」の言葉が刻まれており、1973年に建てられたもの。


【写真】十河氏のレリーフと座右の銘(東京駅)

「一花開天下春」とは、中国の禅僧の言葉で「長い苦労に耐え精進した先に一輪の花が開き、天下に春の訪れを感じる」という意味。
長きに渡り、東海道新幹線の開業に尽くし様々な苦難の乗り越えた末に走り始めた新幹線の姿は、十河氏にとって感慨深いものであったに違いない。

自身のレリーフを見た十河氏が「似とらん」という言葉を発したという。そこには、嬉しさと恥ずかしさの両方が込められていたのかもしれない。

(次田尚弘/西条市)



先日、JR西日本吹田工場で開催された「鉄道友の会」クモハ52001の撮影会で島秀雄氏を知る「鉄道友の会」の大先輩の2名の方とお会いでき、秀雄氏の父・安二郎氏が和歌山市の出身であることをお伝えし秀雄氏の事などを聞かせていただきました。

野口昭雄さん(91歳)は秀雄氏とクモハ52の保存に携わられました。



宮澤孝一さん(87歳)は秀雄氏のご子息と同級生で、「鉄道友の会」でも秀雄氏をよくご存知との事でした。


「鉄道友の会」は1953年に発足し初代会長に島秀雄(住友金属工業顧問)氏が就任、「ブルーリボン賞」「ローレル賞」および優れた鉄道趣味著作物に対する「島秀雄記念優秀著作賞」の選定をしています。
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