さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

海の国道42号 伊勢湾フェリー(伊良湖-鳥羽)

2014-10-26 14:41:17 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より国道42号について取り上げている。
国道42号静岡県浜松市西区篠原交差点を起点に、和歌山市県庁前交差点へ至る一般国道だが、その一部に海上区間がある。
今週は国道42号海上区間について紹介したい。

国道42号海上区間は、愛知県田原市の伊良湖港から三重県鳥羽市の鳥羽港を結ぶ伊勢湾フェリーの航路。
伊勢湾を沿って走る陸路では高速道路を利用しても4時間近くかかるところを僅か1時間足らずで結ぶ、生活に無くてはならない航路だ。


【写真】伊勢湾フェリーから鳥羽港を望む(三重県鳥羽市)

指定されたのは平成5年。
伊勢湾を跨ぎ、渥美半島と紀伊半島を東西に結ぶ高規格道路の構想による候補区間「 三遠伊勢連絡道路(通称・伊勢湾口道路)」にあたることに起因する。
国土交通省によると海上を渡る国道は全国で24路線あり、陸上に作られた道路や橋、海底トンネルでなくても、フェリーなどにより道路と道路を結ぶ1本の交通系統としての機能があると判断できれば「国道」に指定しているという。

筆者もフェリーに乗船してみた。
休日であったこともあり、乗用車のみならず大型の観光バスも乗船。
甲板では伊勢志摩の美しいリアス海岸や小さな島々をカメラに写す乗客も多く見られた。
また、船内放送で、伊勢湾の島々を紹介するアナウンスが行われるなど、退屈することのないクルーズを楽しむことができた。
運がよければ、回遊するイルカの群れを観察できることもあるといい、移動手段に留まらない、旅情をくすぐるものがある。

伊勢湾フェリーは、閑散期でも一日8往復、繁忙期では一日13往復の運航。
機会があればぜひ利用してみては。

(次田尚弘/三重)
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浜松から県庁前を結ぶ 国道42号の歴史と今

2014-10-19 14:50:57 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号まで3週に渡り、かつての紀州の東端にあたる松阪について取り上げた。
参勤交代に使われ、本居宣長が歩いたとされる和歌山街道についても紹介したが、いまの和歌山県民にとって馴染みのある道は国道42号ではないだろうか。
今週は国道42号に触れたい。

国道42号静岡県浜松市西区の篠原交差点を起点に紀伊半島を外周し和歌山市の県庁前交差点を終点とする一般国道。
陸上距離は469.7㎞で、愛知県田原市の伊良湖港から三重県鳥羽市の鳥羽港までのフェリー航路19.6㎞を海上区間として持つ。陸上距離は全国8位だ。

制定されたのは昭和20年1月。当初は国道41号と呼ばれ、「東京都より和歌山県庁所在地に達する路線(うち、松阪まで国道1号)」として指定された。
昭和28年5月に二級国道170号和歌山松阪線(和歌山市-松阪市)に。
その後、昭和34年4月に松阪市-津市の区間を編入し一級国道に昇格。
一級国道42号線(和歌山市-津市)となり、昭和40年の道路法改正に伴い、一般国道42号となった。

平成に入り渥美半島を起点に紀伊半島を横断し四国へ至る道路構想により、松阪市-津市の区間を除外し、新たに浜松市-松阪市の区間を編入、現在に至る。

串本町内の国道42号を走行中、道と海を隔てる部分に付けられたキロポストに「浜松から302㎞」の表示を見た。


【写真】起点からの距離を示すキロポスト(串本町古座)


道はどこまでも続くものだが、太平洋に面した国道42号という500㎞近い道が途切れることなく、和歌山三重愛知静岡の人々の生活を支え続けていることを考えると、どこか愛着が沸き、この道に沿って旅をしてみたくなるのは筆者だけだろうか。

(次田尚弘/和歌山)
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紀州の藩政に尽力 本居宣長の功績に触れる

2014-10-12 13:42:47 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では「松坂城跡」を取り上げた。松阪の地に生まれ、紀州藩に仕官した本居宣長は、この地において市民から厚く顕彰される存在。
今週は本居宣長の功績に触れたい。

本居宣長(1730-1801)は現在の松阪市の商家に生まれた。
商いよりも書を読むことを好んだといい、行く末を案じた母の勧めで医者となり、亡くなる72歳まで町医者として生計を立てた。

当時は解読できないといわれていた日本最古の歴史書である「古事記」の研究は30代半ばから始めたといい、医者の仕事と両立し、35年もの歳月をかけ44巻にまで及ぶ「古事記伝」を完成させた。
なお「古事記伝」の題字は、宣長が仕官していた紀州藩10代藩主の徳川治宝(はるとみ)から与えられている。

紀州藩との関わりは天明7年(1787)、宣長によるこれまでの国学に関する研究を通して明らかとした、藩政の心得について述べた「玉くしげ」や政治の根本となるべき道について述べた「玉くしげ別巻」を、当時の紀州藩第9代藩主であった徳川治貞(はるさだ)に献上したのが始まり。
寛政4年(1792)に紀州藩に仕官し、寛政6年(1794)には和歌山城吹上御殿(現在の吹上2丁目付近の徳川吉宗生誕地)で講義を行っている。
前々号で紹介した高見峠(和歌山街道)の詩は、その際、和歌山城へ向かう道中に詠まれたものだ。

紀州藩に仕官したといえ、宣長の生活の基盤は松阪にあり続け、亡くなった後は松坂城跡近くの神社に祀られている。


【写真】本居宣長を祀る神社(松阪市)

宣長の学問への懸命な姿勢と功績に肖ろうと、地元では合格祈願に訪れる人も多い。
紀州藩の藩政に尽力した宣長の功績に私たち和歌山県民も触れてみてはどうだろう。

(次田尚弘/三重)
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紀州藩・東の領地 国の史跡「松坂城跡」

2014-10-05 13:30:46 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では紀州藩の本城である和歌山城と東の領地にあたる松阪城を結び、参勤交代にも使われたという国道166号線・和歌山街道(高見峠-松阪市)を取り上げた。
今週は、和歌山街道の終着点にあたる松阪城について紹介したい。


【写真】史跡「松坂城跡」

松阪城は蒲生氏郷(がもう・うじざと)が天正16年(1588年)に松阪市北部に位置する四五百森(よいほのもり)に築城。
蒲生氏郷が会津若松へ国替した後、天正19年(1591年)に服部一忠(はっとり・かずただ)、文禄4年(1595年)に古田重勝(ふるた・しげかつ)が城主となった。
元和5年(1619年)に徳川頼宣紀州藩主になると同時に紀州藩領となり、勢州領(松阪・田丸・白子)の18万石を治める城代が置かれた。

かつては三層の天守があったが正保元年(1644年)の台風で倒壊。
以降は天守台だけが残る。寛政6年(1794年)には、城内の二の丸に「徳川陣屋」と呼ばれる御殿(今で言う出張所に相当)が建てられたが明治10年(1877年)に焼失。
その後は松阪公園として整備され、桜と藤の名所として市民の憩いの場となっている。

現在、建造物は現存しないものの豪華な石垣が残り、平成23年には「松坂城跡」として国の史跡に指定。
城内には本居宣長記念館や歴史民俗資料館、近くには武家長屋が並ぶ御城番屋敷などの施設も充実し、松阪の歴史や文化に触れられる。

この地を訪れ強く感じるのは、松阪市の生まれで紀州藩に仕官した本居宣長の存在。
本人が暮らした住宅が「本居宣長旧宅」として城内へ移築保存され、記念館の運営等、顕彰活動も活発だ。
松坂城跡」や周辺の各施設へは松阪駅(JR・近鉄)から徒歩約15分。

(次田尚弘/三重)
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