さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

上田市のご当地グルメ 信州そばと「六文銭かき揚げ」

2021-11-28 13:31:10 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、上田城跡に位置し、歴代の藩主を祭る、不落城・必勝祈願として名高い「真田神社」を取り上げた。
今週は上田城近くの飲食店で見つけた、ご当地ならではのメニューを紹介したい。

信州・上田を訪れたからには食したいものがある。ご当地名物の信州そばだ。上田城近くにある「そば処千本桜」にお邪魔した。

ここで、真田にちなんで作られたユニークなメニューを見つけた。「六文銭かき揚げ天ざるそば」と名付けられたもので、写真を見ると天ざるが見えないほどに大きなかき揚げが乗せられているではないか。早速、注文してみることにした。

待つこと10分。メニューの写真にあったとおり、器からはみ出るほど大きなかき揚げが乗っている。かき揚げの中央には6個の薄い竹輪が並べられている。
見事に六文銭を形成しており、六文銭かき揚げという名前そのもの。新鮮な野菜で作られたかき揚げで、サクサクした食感がたまらない。かき揚げを少しずつ崩していくと、信州そばが顔を出す。


【写真】六文銭かき揚げ天ざるそば

無論、この信州そばもご当地ならではの美味しさ。信州そばと六文銭かき揚げという上田市ならではのご当地グルメに舌鼓を打たせていただいた。

他にもご当地グルメがある。「美味(おい)だれ焼き鳥」という焼き鳥で、方言の「お前たち」、美味しい、タレを追い足したという意味から名付けられたとされ、すりおろしニンニクが入った醤油ベースの濃い味わいがたまらない。

「つけば」と呼ばれる、ウグイなどの川魚を焼いた料理も有名。大小120の河川がある上田市では、伝統漁法「つけば漁」が盛ん。漁期の春には「つけば小屋」という専門の店が出るほどであるという。

豊かな自然と真田の街。上田市を訪れた際はぜひ味わってみてほしい。

(次田尚弘/上田市)
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歴代の上田藩士を祭る 不落城・必勝祈願に「真田神社」

2021-11-21 13:35:20 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、主君が2度変わりながら真田昌幸が築城した「上田城」の歴史を取り上げた。
今週は上田城跡にある名所を紹介したい。

上田城の本丸跡にあるのが「真田神社」。真田氏、仙石氏の後にこの地を治めた松平忠晴を祭る神社で創立時は松平神社といった。

廃藩置県により廃された上田城を、旧上田藩士などの有志らが松平氏3代を祭り功績に報いるために動き、同時に、真田氏の活躍を伝える史跡として後世に伝えようという思いもあったという。
当時、上田城本丸跡を所有していた個人が境内を寄付し創立が実現。明治10年のことである。


【写真】上田城本丸跡に建つ「真田神社」

その後、上田城を築城した真田氏や、真田氏の後を受け上田藩を発展させると同時に城の復興にも尽力した、かつての城主らを合わせて祭ることが望ましいとの動きがあり、昭和28年に真田氏と仙石氏、松平氏の歴代城主を合祀し上田神社と改称。上田市内にあった同名の神社と紛らわしいということで、昭和38年に真田神社と名を変え現在に至る。

境内には真田井戸と呼ばれる城内唯一の井戸があり、これには抜け穴があったとされ、真田氏らしさを感じさせられる。また、六文銭をデザインした絵馬や御守りなどが数々販売されている。
これからの時期、買い求める人が増えるのが合格祈願の御守り。徳川からの2度の攻撃を受けながらも落ちることが無かった不落城としての歴史から、ご利益を求め、必勝祈願の神事に訪れる受験生も多い。
また、上田城跡公園は桜の名所であることから、桜が咲くとの語呂合わせで、桜を配した可愛らしい御守りも存在する。

真田氏をはじめ上田市を発展させた歴代藩主を祭る神社。訪れる機会があれば立ち寄ってほしい。

(次田尚弘/上田市)
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真田昌幸が築城 主君が2度変わり完成「上田城」

2021-11-14 13:45:30 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、日本一の兵と評された真田幸村が、上田に生まれ九度山へ隠棲するまでの経歴を取り上げた。
今週は上田城の歴史を紹介したい。


【写真】上田城の櫓門

上田城は、天正13年(1583年)真田昌幸(幸村の父)により築城された城。
当時、徳川家康に仕えていた昌幸は家康からの援助を受け築城を開始。しかし、豊臣秀吉からの攻撃を防ぐため、所領であった沼田領を北条に譲るよう言われた昌幸はそれを拒絶。家康と断行した昌幸は、上杉景勝に幸村を人質として差し出し、築城の援助を受けることとなる。

その後、天正13年(1585年)8月に徳川軍が7000人の大軍で上田城を攻撃。それに対し昌幸は僅か2000人足らずの兵で撃退。これを第一次上田合戦という。
上田城は、この戦いの直後に完成。築城途中に主君が変わるという珍しい形で出来た城である。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに伴い、第二次上田合戦が起きる。
上田を攻めた徳川秀忠の軍は、昌幸の抗戦により上田に足止めされ、関ケ原での石田三成との決戦に間に合わなかった。
それが契機となり家康の怒りを買い、関ケ原の戦いで石田三成が敗北したことで昌幸と幸村は九度山に隠棲。上田城は徳川に接収され破却されることとなる。

関ケ原の戦いで徳川方についた幸村の兄・信之が上田領を家康から与えられるも、破却された城を再建せず、現在の上田高校の場所に屋敷を構える形で藩政を取ったとされる。
信之の時代で再建されなかった上田城であるが、信之が松代に配置換えとなり、新しい領主として上田に入った仙石忠政が、寛永3年(1626年)から上田城の復興に取り掛かる。
櫓の再建などが行われるも天守は再建されず明治維新を迎えた。

(次田尚弘/上田市)
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上田市で生まれ躍進 日本一の兵「真田幸村」の歴史

2021-11-07 13:43:03 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、真田幸村に縁のある長野県上田市の概要と、六紋銭が描かれ、夜になると照明で浮き上がる上田駅の駅舎を取り上げた。
和歌山県民とりわけ紀北地域の住民にとっては馴染み深い六紋銭。駅前には六紋銭が描かれた旗と共に、真田幸村の銅像が立つ。
今週は、彼と上田市の歴史を紹介したい。


【写真】上田駅前の真田幸村像

真田幸村は2016年に放送されたNHKの大河ドラマ「真田丸」の主人公。「日本(ひのもと)一の兵(つわもの)」の異名を持つ。
生まれは永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)とされ、真田昌幸の次男。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、幸村の祖父にあたる幸隆のころに甲斐国の武田信玄に仕え、上田の地を治めた。

幸村の活躍は、織田・徳川の連合軍と武田の間に起きた「天目山の戦」が知られる。
武田勢が敗れ、幸村が属する昌幸の軍が上田城に引き返す途中、4万人余りの北条軍に遭遇。幸村は約300人の真田軍を6つの部隊に分け、北条方の松田氏の旗を兵に持たせ、闇討ちをかける戦術を昌幸に提案。松田氏の謀反と思い込んだ北条方が混乱した隙を見て上田城に辿り着くことができた。
この功績により、幸村は昌幸から六文銭の旗印を持つことを許されたという。

その後、昌幸と幸村は徳川に属するも対立。豊臣秀吉に仕え、幸村は豊臣方の上杉景勝の人質として暮らす。
関ヶ原の戦いでは、幸村は昌幸と共に石田三成らが率いる西軍につき、徳川家康の東軍と争うも敗退。徳川は上田城を破壊し、幸村は高野山に幽閉。隠棲のための庵を九度山に設けた。

(次田尚弘/上田市)
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