さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

遠州へ東進、家康公 浜松城築城の歴史と背景

2017-03-26 14:12:35 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、家康が17年間在城した「浜松城」の歴史を紹介したい。

家康が岡崎城を長男の信康に譲り、今川家の家臣・飯尾氏が城主を務めていた曳馬(ひくま)城を拡張し浜松城と改称したことは前述の通り。


【写真】復元された浜松城天守閣

桶狭間の戦いで今川義元が討死し今川氏の衰退が進む頃、曳馬城の城主・飯尾連龍(いのおつらたつ)が今川氏真に謀反の疑いを持たれ、永禄8年(1565年)この地は今川軍により包囲され多大な被害を受けた。
連龍は氏真からの和睦を受け入れ、今川氏への再属のため駿府へ出向いたものの和睦は謀略であり駿府城で謀殺される。

その後、連龍の家老・江間氏により守られるも城内は徳川派と武田派に分かれる内粉が発生。まもなくして家康により攻略されたという。
一説には連龍の妻「お田鶴(たづ)の方」をはじめとする飯尾氏の残党が城を死守しようとしたが、城の明け渡しを条件に今後の面倒をみるという家康からの降伏を受け入れなかったことから、家康の兵に攻め込まれ討死したとされる。
お田鶴(たづ)の方は別名を「椿姫」と称したことから、城の近くに「椿姫観音」が建てられ現在も地域の人々に弔われている。

曳馬城(浜松城)を手に入れた家康は以後17年にわたりこの地を拠点に武田氏との攻防が続く。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後、天正14年(1584年)家康は駿府へ拠点を移す。
以後は秀吉の家臣である堀尾氏や譜代大名が次々に在城。一時期は後の紀州徳川家の家祖となる徳川頼宣の領地であったこともある。

天守閣は昭和33年、市民の寄付により再建。昭和50年代に公園、市民プール、動物園、日本庭園などが整備され、現在も「浜松城公園」として地域の人々に親しまれている。

(次田尚弘/浜松市)
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家康公、試練の地 17年を過ごした「浜松城」

2017-03-20 11:48:00 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号まで8回に渡り「家康紀行・岡崎編」と題し、愛知県岡崎市の徳川家康公ゆかりの地を取り上げた。
出世城として知られる岡崎城。永禄11年(1568年)今川領の制圧を始めた家康は、駿府に攻め込んだ武田信玄の侵略に備え、元亀元年(1570年)岡崎城を長男の信康に譲り、次なる居城として浜松を選んだ。
家康が29歳から45歳までの17年間を過ごした「浜松城」もまた、出世城として知られる。
今週からは「家康紀行・浜松編」として、静岡県浜松市の家康公ゆかりの地と街の魅力を紹介していきたい。

浜松市は静岡県西部の遠州地方に位置する政令指定都市。人口約79万6千人で県庁所在地の静岡市よりも人口が多く、工業都市として発展してきた。

浜松城は家康により、かつて「曳馬城(ひくまじょう)」として今川家の家臣・飯尾氏が城主を務めていた城を南西方向に拡張し、南北約500メートル、東西約450メートルに渡る城郭を築いたもの。
平野の丘陵に築かれた平山城で、三方ヶ原台地の斜面に沿い北西の位置に天守、東に本丸と二の丸、南東に三の丸を配置する「梯郭式(ていかくしき)」の構造をとり、岡山城のような背後に天然の要害がある城に特徴的。
曳馬城の「曳馬」の字は「馬を引く」と書き、敗戦を連想させ縁起が悪いということから、この地の地名である「浜松」にちなみ、浜松城と名付けたという。


【写真】浜松城

家康が在城した17年間には、姉川の合戦(1570年)、三方ヶ原の合戦(1572年)、高天神城の攻略(1575年)、小牧・長久手の戦い(1584年)など、数多くの激闘が繰り広げられた。
市内にはこれらの戦いにまつわる史跡が多く存在し、家康が試練を乗り越えた軌跡に触れることができる。
次号に続く。

(次田尚弘/浜松市)
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江戸時代から続く祭典 岡崎を代表する「家康行列」

2017-03-12 19:25:25 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では徳川家の菩提寺で歴代将軍の位牌を祭る「大樹寺」から望む岡崎城の景観が、市民の善意と岡崎市の働きかけにより370年の時を超えて今なお守られている「ビスタライン」の取り組みについて取り上げた。
今週は市民の手で受け継がれてきた岡崎市を代表する催し「家康行列」を紹介したい。


【写真】家康行列(写真提供:岡崎市)

家康行列は江戸時代、徳川四天王の一人とされる本多忠勝(1548-1610)を祭る龍城神社の祭典が起源とされる。
岡崎藩士らが隊列を組み戦法を鍛錬する儀式が行われていたという。
明治に入ってからも旧岡崎藩士らによる武者行列として受け継がれていたが、昭和23年、神社に収めていた甲冑等の武具が火災により焼失。

その後、しばらくは中止されていたが、山岡荘八の著書「徳川家康」の出版により家康ブームが起きたことをきっかけに再興が検討され、地元の商店街連盟や商工会議所が「家康まつり」として復活。
昭和34年の岡崎城復元と共に、市と観光協会の主催で開催されるようになった。
家康公の命日である4月17日に近い日曜に開催され今年は4月9日の予定。

家康行列はまず、松平家・徳川家の祈願所として知られる伊賀八幡宮(本コーナー303号で紹介)を出発。
家康公や本多忠勝、三河武士団に扮した行列が騎馬とともに市街地を練り歩き、名鉄東岡崎駅通過後は市の中心部を流れる乙川の河川敷に向かい、火縄銃の実演など迫力ある「戦国模擬合戦」でクライマックスを迎える。
今年は俳優で武道家の藤岡弘、さんが家康公を演じるという。

これらは祭典の起源である岡崎藩士らによる戦法の鍛錬という儀式を現代に継承する歴史あるもの。
家康生誕の地に住まうという岡崎市民の誇りと後世に受け継ごうとする心意気を強く感じる。

(次田尚弘/岡崎市)
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家光公の思いを継いだ370年 歴史的眺望「ビスタライン」

2017-03-05 20:23:02 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、徳川家の菩提寺で歴代将軍の位牌を祭る「大樹寺(だいじゅじ)」の歴史と岡崎市の文化を紹介したい。

家康が家臣らに残した「位牌は大樹寺へ安置せよ」との命に始まり代々の将軍の位牌が収められていることは前号で取り上げた通りであるが、寛永18年(1641年)三代将軍・家光が家康の17回忌を機に伽藍の大造営を行う際「祖父生誕の地を望めるように」との思いを込め、本堂から山門、総門を通してその中心に岡崎城を望むよう伽藍を整備。歴代の岡崎城主は天守閣から毎日、大樹寺に向かい拝礼したという。

370年の時を超え、現在もなお総門(現在は小学校の南門として使われている)越しに岡崎城を望むことができる。


【写真】中央に岡崎城を望む「大樹寺総門」

その距離は約3キロメートル。長年、法律や条例による建築物の規制は無かったものの、家光の思いを理解する市民らの配慮により眺望が遮られることは無かった。
大樹寺の前に位置し総門がある小学校ではこの眺望を守るため校舎と体育館を結ぶ廊下を地下に配置するほど。

長年、市民の善意により守られてきた歴史的眺望を後世にも残そうと、岡崎市はこの直線を「ビスタライン」と名付け、「岡崎城と市街地が一体となって調和する景観の魅力を高める」という意思のもと景観配慮指針を定め、近景・中景・遠景それぞれに保全区域を設定。
一定の高さを超える建造物や工作物の新築、増改築、外観を変更する修繕や模様替え、色彩の変更を行う際は景観協議を必要とする制度を設け、景観保全に乗り出している。

岡崎市民へのアンケートによると、ここからの眺めは岡崎を代表する景色の最上位にランクインしているという。地域の誇りを守り抜こうとする市民の意識の高さに感銘を受けた。

(次田尚弘/岡崎市)
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