「もしもし、お坊様」
民家が途絶えて久しい野路を旅ゆく若い僧侶を、女の声が呼び止めた。振り返った僧の目に、歳の頃なら十七、八であろうか冬も近い夕暮れの木立に佇む美しい女の姿が映った。
「このような刻に、若い女しょうが如何なされたかな」
「いえ、私事ではありませぬ。この先は山道で、熊や猪が出て旅人を襲います」
「そうであったか、だが此処から引き返そうにも、村まで遠すぎるでのう」
「賤が家ですが、近くに私の棲家があります。粥なりと献じますほどに、どうぞお立ち寄り下さい」
「それは忝い」
旅の僧は素直に女に従った。
貧しいながらも手厚い持て成しを受けた。 しかしこの家には、他に家族がいないことを僧には訝しく思えた。 若い女がこんな山家に独りとはどうしたことだろう。 失礼かとも思ったが、思い切って訊いてみた。
「この家には、そなた独りで暮らしているのか?」
女「はい、左様でございます」
「それは物騒な、心細いことも有りましょうに」
僧は、言って「はっ」と気付いた。 旅の修行僧とて若い男、独り暮らしの女の家に草鞋を脱いだのはいかにもまずい。
僧「馳走になり申した。私はこれにて…」
「いえ、どうぞご遠慮なさらずに、今夜はここでお休みください」
口では辞去を示しながらも、どっと旅の疲れが出て、結局は言葉に甘えることになってしまった。
「お坊様、これは般若湯でございます、身体が温かくなりますゆえ、お休み前にお飲みください」
寝間に入り睡魔に襲われかけたとき、女の暖かい体温を感じたが、そのまま睡魔に負けて眠りに落ちてしまった。
真夜中に背中を貫く快感を覚え、暫くして僧は目が覚めた。全裸の女が自分に添い寝をして小さな寝息をたてているように思えた。
修行の身でありながら、自分はなんということをしてしまったのだと、自らの軽率を悔いた。僧はそっと寝間から抜け出すと、身支度をととのえて逃げるように女の棲家を飛び出した。辺りはまだ暗いながら、黎明の刻(とき)が近いことを示唆するが如く、山々の稜線がほんのりと浮かび上がっていた。
僧の足が徐々に重くなってきた。急坂の所為ばかりではない。僧自身の心が足の動きを鈍らせているのだ。峠に差し掛かったとき、遂に僧の足が止まった。
「女の元へもどろう」
そう決心するまでに、長い時間は必要なかった。もどって、謝ろう。そして、仏罰を受けよう。具体的にどうするかは思いつかなかったが、足だけが何者かに引き戻されるように軽くなった。
民家の近くに来たときは、既に朝が訪れて、あたりの山々や木々の影がくっきりとしていた。だが、民家も女も掻き消えていた。
「私は夢を見ていたに違いない、例え罰当たりな夢でも、何と愛しい夢か」
心はすでに修行僧ではなく、独りの男になって、未練心さえも息づいていたのだ。
「ここで夜を待とう」
夢であろうとも、亡霊であろうとも、もう一度女に会いたいと願い、この場で夜を待つ僧であった。
「お坊様、もう行ってしまわれたと思っていました」
「あゝ、夢ではなかったのか、そなたは亡霊なのか? それとも魔性の物か?」
「私は旅のならず者たちに捕えられ、ここで弄ばれて殺された村の娘でございます」
「やはり亡霊であったか、何故に成仏せずに迷っておるのか?」
「私には身寄りがなく、手厚く葬られることもなく、村の人々さえも旅人を呪い殺す魔性の物と恐れられ、日が落ちるとこの地に近づく者は居りませぬ」
「夕べそなたを抱いたおり、暖かい温もりを覚えたが不思議なこともあるものだ」
「いいえ、その温もりはお坊様のお心でございます」
「私はそなたに懸想してしまったようだ」
「嬉しゅうございます」
今夜は戸惑う事なく肌を重ね、温もりを分け合った。翌朝、辺りを捜しまわり、白骨化した女のものと思われる亡骸を見付けた。
見晴らしの良い山の斜面に墓穴を掘って葬り、小さな石を墓標とした。僧は女が成仏できるまで経を読み続けようと決意した。
この命が尽きて、地獄に落ちようとも、それが罪を犯した自分の為すべきことだと思った。経を読む若き僧の声は、なだらかな斜面に十日間聞こえて途絶えた。墓標の上を僧の亡骸が覆い、やがて冬が訪れ僧の亡骸を雪が隠した。
(原稿用紙6枚)
民家が途絶えて久しい野路を旅ゆく若い僧侶を、女の声が呼び止めた。振り返った僧の目に、歳の頃なら十七、八であろうか冬も近い夕暮れの木立に佇む美しい女の姿が映った。
「このような刻に、若い女しょうが如何なされたかな」
「いえ、私事ではありませぬ。この先は山道で、熊や猪が出て旅人を襲います」
「そうであったか、だが此処から引き返そうにも、村まで遠すぎるでのう」
「賤が家ですが、近くに私の棲家があります。粥なりと献じますほどに、どうぞお立ち寄り下さい」
「それは忝い」
旅の僧は素直に女に従った。
貧しいながらも手厚い持て成しを受けた。 しかしこの家には、他に家族がいないことを僧には訝しく思えた。 若い女がこんな山家に独りとはどうしたことだろう。 失礼かとも思ったが、思い切って訊いてみた。
「この家には、そなた独りで暮らしているのか?」
女「はい、左様でございます」
「それは物騒な、心細いことも有りましょうに」
僧は、言って「はっ」と気付いた。 旅の修行僧とて若い男、独り暮らしの女の家に草鞋を脱いだのはいかにもまずい。
僧「馳走になり申した。私はこれにて…」
「いえ、どうぞご遠慮なさらずに、今夜はここでお休みください」
口では辞去を示しながらも、どっと旅の疲れが出て、結局は言葉に甘えることになってしまった。
「お坊様、これは般若湯でございます、身体が温かくなりますゆえ、お休み前にお飲みください」
寝間に入り睡魔に襲われかけたとき、女の暖かい体温を感じたが、そのまま睡魔に負けて眠りに落ちてしまった。
真夜中に背中を貫く快感を覚え、暫くして僧は目が覚めた。全裸の女が自分に添い寝をして小さな寝息をたてているように思えた。
修行の身でありながら、自分はなんということをしてしまったのだと、自らの軽率を悔いた。僧はそっと寝間から抜け出すと、身支度をととのえて逃げるように女の棲家を飛び出した。辺りはまだ暗いながら、黎明の刻(とき)が近いことを示唆するが如く、山々の稜線がほんのりと浮かび上がっていた。
僧の足が徐々に重くなってきた。急坂の所為ばかりではない。僧自身の心が足の動きを鈍らせているのだ。峠に差し掛かったとき、遂に僧の足が止まった。
「女の元へもどろう」
そう決心するまでに、長い時間は必要なかった。もどって、謝ろう。そして、仏罰を受けよう。具体的にどうするかは思いつかなかったが、足だけが何者かに引き戻されるように軽くなった。
民家の近くに来たときは、既に朝が訪れて、あたりの山々や木々の影がくっきりとしていた。だが、民家も女も掻き消えていた。
「私は夢を見ていたに違いない、例え罰当たりな夢でも、何と愛しい夢か」
心はすでに修行僧ではなく、独りの男になって、未練心さえも息づいていたのだ。
「ここで夜を待とう」
夢であろうとも、亡霊であろうとも、もう一度女に会いたいと願い、この場で夜を待つ僧であった。
「お坊様、もう行ってしまわれたと思っていました」
「あゝ、夢ではなかったのか、そなたは亡霊なのか? それとも魔性の物か?」
「私は旅のならず者たちに捕えられ、ここで弄ばれて殺された村の娘でございます」
「やはり亡霊であったか、何故に成仏せずに迷っておるのか?」
「私には身寄りがなく、手厚く葬られることもなく、村の人々さえも旅人を呪い殺す魔性の物と恐れられ、日が落ちるとこの地に近づく者は居りませぬ」
「夕べそなたを抱いたおり、暖かい温もりを覚えたが不思議なこともあるものだ」
「いいえ、その温もりはお坊様のお心でございます」
「私はそなたに懸想してしまったようだ」
「嬉しゅうございます」
今夜は戸惑う事なく肌を重ね、温もりを分け合った。翌朝、辺りを捜しまわり、白骨化した女のものと思われる亡骸を見付けた。
見晴らしの良い山の斜面に墓穴を掘って葬り、小さな石を墓標とした。僧は女が成仏できるまで経を読み続けようと決意した。
この命が尽きて、地獄に落ちようとも、それが罪を犯した自分の為すべきことだと思った。経を読む若き僧の声は、なだらかな斜面に十日間聞こえて途絶えた。墓標の上を僧の亡骸が覆い、やがて冬が訪れ僧の亡骸を雪が隠した。
(原稿用紙6枚)