雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「墓参り」 

2014-09-25 | エッセイ
 一時流行った「千の風になって」という歌に

   私のお墓の前で 泣かないでください
   そこに私はいません 
 
 そんな風な歌詞があった。これは、仏教的にも適っているように思える。私の作品に度々登場する「魂魄」とは、魂と亡骸ということであるが、魂は極楽とかへ行くらしいが、魄は朽ち果ててしまうだけで、何処へも行かない。

 墓とは、その亡骸あるいはお骨を保存しておく保管庫のようなもの。最近では、墓を持たない家族が増えているのだそうである。我が家も墓はない。若い頃、父親が亡くなったおりに母の為に兄弟で金を出し合って墓を購入し、墓石の後ろに私の名前を刻み、赤い塗料で塗られていたのは覚えているが、私はそなんところに「お骨」を収めて欲しくはないので、墓参りなど縁がなくなって久しい。

 最近では、骨壷のまま、家庭の仏壇に置いている家庭も増えたとか。それを「気持ちが悪い」という人も居るらしいが、家族の「お骨」のどこが気持ちが悪いのだろう。「お骨」自体は夜中に歩いていたなんてことはない。

 実は、私も妻の「お骨」を小さな仏壇に置いたままである。それは、私が死んだ後、妻の「お骨」と共に散骨して貰いたいからである。海でも、山の場合は、個人の山をそれ用に有料で開放しているところがあるらしい。極、最近では、宇宙葬というのもあるそうだ。その場合は、宇宙に残したままがよい。文字通り星になる訳だ。さらに、未来は月に「お骨」を持って行く供養が出来るそうだが、墓参りの代わりに月に掌を合わせれば良いので、家族は楽だ。ただし、私はそんな贅沢な供養はいらない。

 パソコン供養納骨堂なるものがあるそうだが、永代供養料が90万円、パソコン供養の制作費が63000円とか、それに毎年の管理費が5000円だそうで、これも私には贅沢すぎる。

 結局は薬局、海へ散骨が一番良い。海を見たときが墓参りのとき。お供えも線香も不要と経済的だと思うのだが…。