雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「大宇宙と天地創造の神」

2014-09-04 | 長編小説

 ■大宇宙とは?
 我々が普通に宇宙と呼んでいるのは、銀河系宇宙のことである。 その円形の銀河系宇宙の果てたとこまではヒッグス粒子で満たされているとして、その先はどうなっているのだろう。そこからは真の無のスペースであろうと空想する。そこから更に無限の広がりを私は仮に大宇宙と呼ぶことにした。その広がりの中には、銀河系宇宙規模の宇宙が無数に存在するだろうと空想する。
 我々の地球は、その銀河系宇宙の砂粒のごとき太陽系の惑星である。どう考えても宇宙の中心ではない。宗教的宇宙は、すべて地球を中心に考えられているようだ。


 ■天地創造の神
 宇宙を創造した神が日本に日本人の姿で在らせられる。しかも、我こそ天地創造の神なるぞと、A5版のビラを信者に配布させておいでになられる。天地創造の神であらせられるならば、何をご遠慮なさるのか、神のご意思に背く人間は、全て滅亡させて、信者のみの世界をお造りになれば宜しいものを。
 地球改造、太陽系改造論などをお打ち立てになられ、太陽系惑星の並べ替えなど如何なものでしょう。太陽から見て木、土、金、火、水、地なんて如何でありましょう。地球は氷の星となり、金星に神の造り給いし「この世」に、信者たちをお引越しさせればよいものを。


 ■宇宙人現る!
 銀河系宇宙にも、私が空想する大宇宙にも、宇宙生物は必ず存在する。だが、その様相は我々の想像を絶するものかも知れない。地球上で発見されたとされる宇宙人は、人間にクラゲ、蛸、爬虫類などを合成したような地球生物に執着したものばかりだ。それは地球人が空想したものだからだろう。
 
 私も宇宙人を想像してみた。これは、ショートショートのネタにとっておこう。

 

猫爺のエッセイ「死とは何か・ゼロの平等」

2014-09-04 | エッセイ
 死ねば天国、地獄、浄土、黄泉の国、冥土、来世、霊界、死界、その他宗旨により色々な行き先があるようだ。それらは全て人間を中心に考えられたものなのなのか、甲虫やキリギリスの霊が極楽浄土へ行き、成仏したという話は聞いたことが無い。

 何故か? 人間の空想が生み出したものであるからだ。死後も存在し続けたいという人間の希望的観測によって作り上げられたものであるからだ。

 では、「死後の世界」が、空理空論であるという訳でもない。何故なら、その空想によって救われている多数の人たちが居るからである。原子を構成している素粒子にまで研究が到達している科学も、実態が無い霊は科学のしようがない。しかし、霊は確かに存在するものである。


 ■霊は何処に?
 人は死ぬと、愛する人、記憶を懐かしむ人々、尊敬の念を持ち続ける人々の心で生き続けるのである。


 ■ゼロの平等
 お城のような豪邸で、家族や使用人に知人に尊敬され、傅かれて生きてきた人も、孤独死した老人も、死んだ瞬間から平等になる。その平等を私は「ゼロの平等」と言っている。 

 脳外科医や、物理学者は、死というものを知り尽くしている筈であるが、どう考えているのだろうかと疑問を持つ人も居ると思うが、霊という質量のないものを科学することは出来ないのであろう。

 今や人間の歴史で宗教なしに考えることは出来ない。また、未来も語れないだろう。「神や仏など居ないよ」と嘯く人々も、愛する人や家族の死に遭遇すれば花を手向けて両手を合わせる筈だ。死者を労わる愛情と感謝の念を持って。哀悼の意もなく、儀礼、マナーとして礼を捧げる人々は別として。


 ■自殺に者について
 webiこんな事を書いている人がいた。
   「苦しみから逃れる為に楽になろうとして自殺をすれば、死後、もっと苦しむことになる」
 自殺行為を「悪」と捉えて、自殺志願者を戒めている積りであろうが、大きな見落としがこの人にはある。自殺者の七割以上が、心の病によるものだと言われているではないか。欝病では、本人の意思ではなく、衝動的な自殺が稀にではなく絶対多数だという。また、周りの者がそれに気が付けば、自殺を免れるのだ。だから回りのものが悪いと言っているのではない。四六時中、病人を監視することは家族には出来ないからである。

 自殺者を罪悪だと責める前に、我々も責められるべき罪悪はないのだろうか。例えば、自殺をただ罪悪だと非難する態度である。病だと理解しない罪悪である。格好をつけて善者ぶる傲慢無礼さである。


 ■地獄に落ちた霊は?
 先にも書いたが、霊とは質量のないものだそうな。現世で悪行を累ねた人の霊が、魄、即ち亡骸から離れて地獄に落ちたとしよう。三途の川で六文払って船で渡して貰うのだという。棺に入れてもらっても、霊がそんな金をどこに隠し持っ行くのやら。質量のないものなら、船に乗る必要があるのか。

 仏教では、善良な人の霊は、肉体から離れて四十九日後にこの世から西方十万億仏土離れた極楽浄土に行くらしい。魂はその十万億仏土離れたところへ、どの位のスピードで行くのだろうか。

 十万億仏土とを光年にするとどれくらいの距離か。その換算は不可能である。光年は光が一年かかって飛ぶ距離と具体的であるのに対して、十万億仏土は、ただ遠方であると表現しているだけであるからだ。


 ■地獄の責苦
 霊は質量が無いのだそうである。科学者は原子を成す素粒子まで極めているが霊の組成を極めることは出来ない。それは、人の心に思い出として存在するものだからである。その組成・物体の無い霊の、どこを責められたら苦しみとなるのだろうか。
 血の池地獄に漬けられようとも、火炎地獄に放り込まれようとも、針山地獄を歩かされようとも、苦しみなどは無い筈だ。

 天国・極楽に於いても、霊のどこが楽しい、安らか、と感じるのだろうか。苦しい、楽しいと感じるのは、脳という臓器の働きである。そもそも、宗教の祖たる者、宗教を信じているのだろうか?。ただ、金儲けのために演じているのではないのか?
と、猜疑心の強い私は、そう考える。