雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「生きる目的」

2014-09-16 | エッセイ
 人間、生きる目的を持っていないと、大変なことになるのだそうである。実は、猫爺は目的を持って生きているのではない。若い頃は、子供を産んで育てるのが目的だったような気がする。今は何だろう? 

 真実を追求するのが生きる目的であるとWEBで読んだような気がする。だが、猫爺は船越英一郎さんでもないし、渡瀬恒彦さんでもない。何の真実を追求すれば良いのだろう。

 別に、死ぬのが目的で生きている訳ではない。強いていえば、年金を受け取るために生きているのだろうか? もう年寄りである。子孫繁栄の体力は無い。

 目的を持たなかったために、大変なことになったという意識は今までになかった。これから、大変なことになるのだろうか? 死ぬことが大変なことだろうか? いや、それは猫爺にとってはごく自然なことであり、決して大変なことだとは思わない。

 真実を追求などとご大層なことを考えなくても、神や仏や幽霊などは人間の想像の産物であることは知っている。人間が絶滅すれば、それらもまた消えてなくなるものだ。

 では何故幽霊は人間の目に見えるのだろう。写真に写るのだろう。可視光線を反射しなければ幽霊を見ることが出来ない。可視光線を反射するには、物体がそこになければならない。科学者は何故その物体を分析して、我々に分かるように説明してくれないのだろう。言えることはただ一つ。そこに物体が無いからである。それは人の心に存在するのである。だからこそ、(正常心の)他人には見えないのであろう。

 「生きる目的」とは関係が無いのだが、臨死体験を経験した者は、花畑の中を歩いたとか、雲の上に立ったとか語るものだが、あれは脳が死んでいないときに見た夢であり、その記憶が残っていたのだ。(あるいは嘘かも)

 以前に、「辞世の時・夏目漱石」を投稿したことがあるが、漱石は、30分も心肺停止して瞳孔が開いていたが、30分後に蘇生して、「その30分間の記憶がとんでしまった」とある。花畑も雲もなく、ただの「無」であった訳だ。これこそ、臨死体験である。

 今の猫爺にとって生きる目的は、哲学的、宗教的追求ではなく、せっせ、せっせと死に支度をすることである。