雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

年寄りカレー

2013-04-20 | 日記

 カレーライスのカレーの隠し味の話をテレビでやっていた。 チョコレートだの、イカの塩辛だの、ミルクキャラメルだの、ナンプラーなどといろいろあったが、私がいつも入れているケチャップはなかった。 私にはカレーを香辛料から作れる筈もないが、例えば、バーモントカレーの固形ルーを外函のレシピ通りに作ると、塩辛くて血圧に影響しそう。 ルーを半分に減らして作ると「おじや」みたいになってしまう。 そこで、ケチャップと溶き片栗粉でトロミを付け、味は顆粒のコンソメを少々入れて調整する。 なんだか離乳食みたいなカレーであるが、年寄りには食べやすい。 しかし、カレーはカレー。 決して離乳食にはしないで頂きたい。 

 齢を重ねると、カレーはカレーでも、加齢臭というものが体から出るそうな。 口臭なら、ブレスチェッカーという小さくて手軽なものが有るが、加齢臭は自分にはわからない。 脱いだシャツを自分で嗅いでみても、なんのにおいもしないので「自分はまだ出ていない」と思うのは早計らしい。 何でもズケズケと言う若い眼科医が、手術が終わった時に「〇〇さん、虫歯ある?」ときいてきた。 歯科は定期的に診療を受け、電波殺菌とレーダーで歯石を取ってもらっているので「無いと思う」と答えたら、「前立腺の病気は?」。 「何で眼科で前立腺の問診を受けなければならんのか」と怪訝に思ったが、泌尿器科には行ったこともないし、多少、トイレが近くなっているが、特に自覚もないので、これも「無いと思う」と答えた。 その時は気付かなかったが、あれはきっと加齢臭の指摘だったのかも知れない。 

 加齢臭チェッカーってあるのかな? 検索をかけてみたら、ある一般人がブレスチェッカーで出来るそうな記事を書いていた。 だが、その人も実際に試行した訳ではなく、怪しいかぎり。 あと、検索で出て来るのは、石鹸だのサプリばかり。 石鹸は一時的に誤魔化すだけだろうし、サプリは信じられん。 

 と、書きながらも、密かに手持ちのブレスチェッカーを体にあてて暫く置いたが、チェッカーの反応なし。 あのなー。 


猫爺のミリ・フィクション「まだ生きている」

2013-04-20 | ミリ・フィクション
 自分の生涯に、このような恐ろしい世界が待ち受けていようとは想像さえしなかった。  いや、これは生涯ではなく、死後の世界かも知れない。亡骸から離脱した魂が、宇宙の闇を漂っているのだろうか。
 私はダムの点検作業中に突風に煽られて、迂闊にも堤防から放水口側の滝壺に墜落した。滝壺の底に激突したまでは、はっきりと記憶にあるのだが、その後のことは闇に包まれている。  やがて記憶だけがありありと蘇り、子供の頃のことなど、事故の前よりも鮮明に思い出す。やはり、自分は死んだのだろう。しかし、「自分は生きている」と思う気持ちもある。根拠はないが、その確信が徐々に強くなってくる。これは、ただの生への未練かも知れない。

 五感の総てが無くなって、外界からの通信は、すべて途絶えている。自分が外界へ呼びかける術もない。ただ「俺は生きているぞ」と、心の中で叫び続けるだけだ。
 もし、生きているとすれば、自分は病院の白い壁に囲まれたベッドの上で、たくさんのカテーテルを体に差し込まれて、微動もせずに眠りこけているのだろう。そして、自分のことを医療関係者は「植物状態人間」と呼んでいるのだろう。
 自分は断じて「植物人間」ではない。こうして学習も成長も無いながらも、記憶や思考は働いているではないか。

 時折、記憶にない場面を考えていることがある。例えば、火葬炉の中で目を開けて、「まだ生きているぞ」と叫ぶ悪夢である。それは、脳が眠っている時に違いない。そんなおりに、自分は生きているのだと確信する。とは言え、このままの状態が続けば、やがて家族も諦めてしまうのだろう。どうかその前に気付いてくれ。多分、既に脳死と宣告されているのだろう。それを、おふくろと嫁が必死に生命維持装置の取り外しを拒んでいるのだろう。

 おふくろよ、妻よ、もう少し頑張ってくれ。きっと自分は目を覚ますだろう。目を覚まして、医師の質問に答えるだろう。自分の名を、おふくろの名を、妻の名を、二人の子供達の名を。俺はすべて答えることができる。生年月日は1986年10月24日だとはっきり言える。

 届くことのない言葉で、声にならない声で懸命に叫んでいて、ふいに不安が込み上げて来た。自分は、臓器提供意思表示カードを持っている。しかも、脳死状態での提供を望んでいる。今に角膜が、腎臓が、肝臓が、肺、心臓と移植可能な臓器が取り外されてしまうかも知れない。

 もう、あの事故からどれくらいの時間が経ったのだろう。まだほんの数日か、それとも数年だろうか。今の自分には時間の観念というものがない。恐怖に打ちひしがれながら、「まだ生きているぞ」と叫びながら、いつまで頑張ればよいのだろうか。
 そんな地獄の喘ぎのなかで、微かに子供の声を聞いたような気がした。続いて、妻の嗚咽を聞いた。間もなく自分は意識を取り戻すかも知れない予感に魂は震えた。聞こえる声は段々に大きく、意味すら分かるようになってきた。
   「パパは死じゃうの?」
 あれは息子の声だ。
   「このままでは、パパはきっと辛いのよ、もう楽にさせてあげましょう」
 妻の声。
   「これ以上生命維持装置で生きさせるのが可哀想で…」
 母の声も聞こえる。
   「それでは、取り外させていただいてよろしいでしょうか」
 これは医療関係者の声だろう。
   「はい、お願いします」
 妻は、はっきりと答えている。
   「臓器提供にご承諾いただけますか?」
   「その決心はつきません、本人の意志に逆らいますが、拒否いたします」
   「そうですか、残念ですがご家族の悲しみを思いますと無理にお願いできません」
   「申し訳ございません」
   「では、取り外します、どうぞお別れをなさって下さい」
 母がすすり泣いている。自分の周りで話している言葉の意味が、はっきりと理解できた。
   「待ってくれ、殺さないでくれ」
 叫びながら突然自分の意識が遠退いていくのを感じた。

  (添削)   (原稿用紙5枚)