千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

季節の風景

2014年03月09日 | 日記




 山はとてつもなく深遠な奥行きを秘めて、自然が豊かである。多種多様な樹木や植物がその起伏激しい大地に群生し、そこに多種多様な動物や魚、昆虫、苔、菌類までが同居して棲み暮らしている。近くが隆起した岩盤の山があり、地層が捩れた山があり、暗い森があり、明るい谷があり、清冽な水を吐き出す沢や、川がある。そのいたるところに命が宿っている。山はそれ自体がひとつの宇宙であり、一個の生命体を構成する一員として組み入れられてきた。
 人は山に生き、山に生かされてきた。








 山は原始の力をとどめて、豊饒である。だが、その豊かさは意外に脆い側面がある。多岐にわたる動植物がギリギリの本能を謳歌しながら、あるいはギリギリのところで抑制し合いながら絶妙のバランスで維持している山の自然は、ちょっとの変化や狂いで均衡が崩れてしまうことがある。変化や狂いは棲息している生物に直接に影響を及ぼす。それは人為的な操作でも起こりうる。




 しかし自然は自らが持つ復元力、可逆性によって崩壊から再生に立ち上がる。 だが、それは長い時間がかかる。人間の一生にとらわれた時間の概念をはるかに超えた悠久の時の流れが必要になる。山の動植物は種の単位で耐えて再生を待ち、自らも元の繁栄を取り戻していくが、人間はその時間を待てない。自然の圧倒的な破壊力の前にただうろたえ、成す術もなく立ち尽くすしかない。




 あるいはまた、これを渡りに舟と、さらなる開発の手を伸ばしていく愚行を繰り返す。
 文明都市の思想は自然を蹂躙して、物質的な繁栄や豊かさ、機能性と合理性の人間中心の社会を手に入れようとする。それは、さらに人間社会を自然から隔絶させ、自然から学ぶことを忘れさせる。そして、人工的な社会の強迫概念に追いたてられて、身も心も病んでいく。
 かつて、山と共に生きる人の暮らしがあった。山の自然の豊かな営みと時間のうつろいに逆らうことなく、過酷な生活に素朴な喜びと感謝を捧げて生きる人たちがいた。境遇を恨まず、強く、たくましく生きる人たちがいた。

    (遠藤ケイ著「熊を殺すと雨が降る」あとがきより)





 ここ何日かの寒波。重く、張り付いたような雪である。
 久しぶりの朝陽。
 朝食の卵焼きが後回しになってしまった。









 おから。
 こんな日々の人気メニュー。
 おけらじゃなくておから!
 安価で美味しいのだ。
 昨今は、パック詰めのおからがスーパーで売っている。
 半パックで、椎茸、人参、竹輪、ネギと炒め煮、大皿に山盛りできる。
 卯の花の煎り煮。
 早春を思う一品。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
   (手のひらを太陽に やなせたかし作詞 いずみたく作曲)

 3月11日がやってくる。
 いろんな思い・・・
 驚愕と、悲しみと、祈りと、願いと、憤怒の3月11日がやってくる。

ぼくらはみんな 生きている
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

 人はみな、手をつなぎあわなければならない。