千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

詩文 囲炉裏火

2014年02月16日 | 日記




光が刺すように入り込んでいる

梅雨の合間

降りしきっていた雨は 朝になって止んだ

光を遮断して 大きな影が娘の前に現れる

そんな期待はむなしく消える

あの男の姿はもうない

一瞬
見つめ合った
そのことだけで 娘の心に灯が点った




囲炉裏の炎が揺れている
暗い炉地 大火棚に吊された鉄瓶
薪が跳ね 赤い火花を散らす




元祖 女性は太陽であった

平塚らいてう

日本の新しい女性
その生き方

密かに「青鞜」を読み 新しい女に憧れた

寄宿舎のある高等女学校を卒業 
家事見習いの後に
親の決めた相手との婚姻が待っていた

私はノラにもなりたくない

人間として生きたかった

ただそれだけのこと

親に逆らえない自分を知っている





新入りらしき書生が庭を掃いていた

言葉を交わしたわけではない

娘が捉えた男の眼の奥に
隠された光を見た

娘はたじろがなかった

眼の奥で挨拶を交わした

ただそれだけのこと

近づいてくる
確かな予感 胸の高鳴り







だが 男は目の前から消えた
黒い大きな力によって
去ることを余儀なくされた

ただそれだけのこと




歳月は過ぎる

囲炉裏火の炎は
心の奥底に封印したまま
娘は 大家のおかかさまとなって
弱者を庇護し 気丈な女の一生を貫いた








 写真 重要文化財 目黒邸 (魚沼市須原)



 目黒家は戦国大名会津蘆名(あいづあしな)氏に仕え、伊達政宗との戦の後、天正18年(1590)越後広瀬谷の地で帰農したと伝えられる。中世武士の系譜をひく豪農である。
 目黒家の初代善右衛門は、江戸時代初期の慶長年間(1610年代)に上条郷近郷15ヶ村の肝煎役を勤めている。
 尾瀬に源をもつ只見川の上流で、寛永十八年(1641)銀山が発見された。これに端を発した会津と越後の国境争論では、目黒家の二代彦兵衛は越後の代表として江戸に赴き、幕府評定所の幕閣に早期裁断を訴える等大庄屋に並ぶ働きをしている。
(中略)
 江戸時代中期から明治維新に至るまで、糸魚川藩魚沼領の割元庄屋(大庄屋職)の役宅をかねた豪農住宅である。その後の目黒家の活躍もめざましい。
 昭和49年国の重要文化財に指定された。

 ※詩文『囲炉裏火』は、「重要文化財目黒邸」見学後の創作である。