“海辺のカフカ”の上巻で、、高知四国山地の隠れ家へ移動する際、、大島さんと田村カフカがカーオーディオのCDで流れてくるのが、、フランツ・シューベルトの“ピアノ・ソナタ第17番ニ長調D850”です。 この章で大島さんのこの曲の見解を話す場面を読んでいると、、、村上氏がこの曲に対する思い入れをグッと感じますね。
そんなこの曲ですが、、決してピアノソナタ22曲の中で大きく評価されている訳ではありませんね。シューベルトのピアノ・ソナタがあまり大きく取り上げられることも少ない中で、、17番はさほど・・・という感じです。 この曲は1825年の夏、、シューベルト28歳の時に北オーストリアの高地地方を旅した際に作曲されたようです。経済的にも生活が安定したシューベルトが創り上げた。。。不運を脱し、、少し心の余裕があったのか・・・そんな心模様が反映されてか。。無の心に無の頭で。。浮かぶ旋律を穏やかに自由に鍵盤の上に落として創り上げたようにも感じます。。
重厚な第1楽章 ゆったりと流れる美しい第2楽章 躍動的な第3楽章 ぎこちない旋律の第4楽章・・・
小説の中で、、大島さんが「とくにニ長調のソナタを完璧に演奏するのは、世界で一番むずかしい作業のひとつだと・・・四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、、満足の行く演奏をしたピアニストはいない。。。」と、、、何故かと「僕」に聴く?「曲そのものが不完全だからだ・・・」と、、シューマンはこの曲を『天国的に冗長』だと評価したとか・・・・
しかしそんな不完全なモノに多くのピアニストが挑むのかという質問に、、大島さんが「ある種の不完全であるが故に人間の心を強く引きつける―少なくともある種の人間の心を強く引きつける・・・・」「質の良い稠密な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる・・・」
そして。。。大島さんはこう結論づける「シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、ジューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」
また村上氏は“意味がなければスイングはない”の中でも、、この曲を詳しく書いています。。 「冗長さ」「まとまりのなさ」「はた迷惑さ」は氏の心に馴染むと、ベートーヴェンやモーツアルトにはない、、「自由なばらけ」のようなものがあると・・そこにある世界に個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いている。そのような融通無碍な世界が、そこにはあるのだと・・・・シューベルトの音楽は目線が低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる・・・・時代的に言えば、我々はあらゆる芸術の領域において、ますます「ソフトな混沌:求める傾向にあるようだと・・・
何だろう? 「俺が」「俺が」していないこの曲が、、スゥ~と心に中に入ってくるような。。朝の光を受けて太陽の光が心の中にスゥ~と染み入るように・・・・ 考えないことで生まれる輝石の産物。。しかし偶然できるものではなく蓄積があってのこと。。。若くして死したジューベルトの凝縮の人生の成せる業だったのでしょうね。。 私たちもいきなりの偶然はないですね。。コツコツ積み上げた努力はやはり何かのカタチで帰ってくるのではないでしょうか。。 無の心、、無の頭になれるための、、努力・経験・体験・・があって、、完成するものが「ポっ!」と浮かぶような気がしますね~
何も考えないで。。。次ぎへの頭の切り替えのとき。。この曲を流しながら。。心地よい弛緩に浸る。。いいですね。
そんな浸る音は、、サー・クリフォード・ガーゾンのピアノです。。村上氏もこのクリフォード・ガーソンのタッチに賞賛を送っていますね。長く着込んだ上等のツイードの上着ような心地よさ・・・と
明日は土曜日・・・小さな春を感じ、、ちょっぴり優雅な気分で冗長に、、ダラダラとシューベルトのピアノ。ソナタに浸る。。悪くないカモ・・・ね。
そんなこの曲ですが、、決してピアノソナタ22曲の中で大きく評価されている訳ではありませんね。シューベルトのピアノ・ソナタがあまり大きく取り上げられることも少ない中で、、17番はさほど・・・という感じです。 この曲は1825年の夏、、シューベルト28歳の時に北オーストリアの高地地方を旅した際に作曲されたようです。経済的にも生活が安定したシューベルトが創り上げた。。。不運を脱し、、少し心の余裕があったのか・・・そんな心模様が反映されてか。。無の心に無の頭で。。浮かぶ旋律を穏やかに自由に鍵盤の上に落として創り上げたようにも感じます。。
重厚な第1楽章 ゆったりと流れる美しい第2楽章 躍動的な第3楽章 ぎこちない旋律の第4楽章・・・
小説の中で、、大島さんが「とくにニ長調のソナタを完璧に演奏するのは、世界で一番むずかしい作業のひとつだと・・・四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、、満足の行く演奏をしたピアニストはいない。。。」と、、、何故かと「僕」に聴く?「曲そのものが不完全だからだ・・・」と、、シューマンはこの曲を『天国的に冗長』だと評価したとか・・・・
しかしそんな不完全なモノに多くのピアニストが挑むのかという質問に、、大島さんが「ある種の不完全であるが故に人間の心を強く引きつける―少なくともある種の人間の心を強く引きつける・・・・」「質の良い稠密な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる・・・」
そして。。。大島さんはこう結論づける「シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、ジューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」
また村上氏は“意味がなければスイングはない”の中でも、、この曲を詳しく書いています。。 「冗長さ」「まとまりのなさ」「はた迷惑さ」は氏の心に馴染むと、ベートーヴェンやモーツアルトにはない、、「自由なばらけ」のようなものがあると・・そこにある世界に個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いている。そのような融通無碍な世界が、そこにはあるのだと・・・・シューベルトの音楽は目線が低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる・・・・時代的に言えば、我々はあらゆる芸術の領域において、ますます「ソフトな混沌:求める傾向にあるようだと・・・
何だろう? 「俺が」「俺が」していないこの曲が、、スゥ~と心に中に入ってくるような。。朝の光を受けて太陽の光が心の中にスゥ~と染み入るように・・・・ 考えないことで生まれる輝石の産物。。しかし偶然できるものではなく蓄積があってのこと。。。若くして死したジューベルトの凝縮の人生の成せる業だったのでしょうね。。 私たちもいきなりの偶然はないですね。。コツコツ積み上げた努力はやはり何かのカタチで帰ってくるのではないでしょうか。。 無の心、、無の頭になれるための、、努力・経験・体験・・があって、、完成するものが「ポっ!」と浮かぶような気がしますね~
何も考えないで。。。次ぎへの頭の切り替えのとき。。この曲を流しながら。。心地よい弛緩に浸る。。いいですね。
そんな浸る音は、、サー・クリフォード・ガーゾンのピアノです。。村上氏もこのクリフォード・ガーソンのタッチに賞賛を送っていますね。長く着込んだ上等のツイードの上着ような心地よさ・・・と
明日は土曜日・・・小さな春を感じ、、ちょっぴり優雅な気分で冗長に、、ダラダラとシューベルトのピアノ。ソナタに浸る。。悪くないカモ・・・ね。