俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

痛みの恐怖

2016-08-07 10:20:18 | Weblog
 本能的な恐怖を克服することがいかに難しいか、癌を患ってから思い知らされた。
 私の食道癌が治療不可能と分かった時点で、ごく普通にステントの装着を受け入れた。治療できないのであればできるだけ快適に生活しようと考えた。この時点で死に対する恐怖は殆んど感じなかった。癌と分かった時点で余命の短さは確実なことだからあっけないほど簡単に死を受け入れた。
 私が恐怖を感じたのは死ではなく痛みに対してだった。ステントの装着以来継続する鈍痛に対して私は恐怖を抱き痛みからの解放以外については殆んど考えられなくなった。
 奇妙なことだ。明白な危機である死よりも全く致命的ではない鈍痛になぜ恐怖を感じるのだろうか。理念に過ぎない死よりも五感に訴える痛みのほうが私の感情を揺さぶるからだ。
 ステント装着による鈍痛を解消することは難しくない。軽い鎮痛剤を飲むだけで痛みは消える。しかしこれが真の解決にならないことは分かっている。鎮痛剤は「痛みを鎮める薬」ではなく「痛みを感じる神経を麻痺させる薬」だからだ。実際には存在し続けている痛みを感じなくさせるだけの薬だ。その場を取り繕うだけの虚飾のための薬だ。
 悲惨な事件が頻発していても目と耳を閉ざしていれば知らずに済む。惨劇に直面してもキャ!と叫んで頭を抱え込めば知覚されない。鎮痛剤とはそんな現実逃避のための薬であり薬嫌いの私が特に蔑んでいる典型的な対症療法薬だ。
 私の理性は「現実逃避の鎮痛剤に頼ってはならない。真に恐れるべきなのは鎮痛剤が招く副作用だ」と考え、耐えられるレベルの鈍痛には我慢すべきと判断する。しかしこれは現実的な対応ではない。たかが鈍痛にさえ人は恐怖を覚える。
 痛みに対する恐怖は動物の進化の過程で培われたものだ。痛みは警鐘だ。傷んだ場所を動かさせないように誘導しようとして感情を刺激する。人は痛みに対して恐怖を感じ痛みを解消するためであればあらゆる犠牲を厭わない。
 動作の途中で痛みを感じたら本能的に動きが止まる。このことによって患部が保護される。この行動は脳による指示を待たない反射行動だから脳はこの行動を抑制できない。痛みに対する恐怖は理性以前のレベルで働いている。
 たとえ恐れるに足らない痛みであってもそれは恐怖を伴う。この本能的な恐怖を克服することは決して容易ではない。本能と理性が対立した時、勝つのは本能であり、理性は本能に従事する。理性は本能を制御せず本能に奉仕する。
 たとえ一流のアスリートであっても痛みに耐えて力を発揮することは至難の業だ。痛みを感じる場所に力は入らない。私のようなド素人であれば腹が痛むだけで全身が動きにくくなり思考力まで低下する。理性は痛みが招く恐怖や不安を克服できない。