俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

天国

2015-04-12 09:59:51 | Weblog
 昨日(11日)あるテレビ番組を見ていて大笑いした。優秀な警察犬の死を悼む内容なのだがこう締め括っていた。「彼(犬)は天国でも悪人を捕えて大活躍をしているだろう。」
 この発言者は矛盾に気付いていない。番組の関係者もこの矛盾に気付かなかったからこんなブラックジョークのような発言で締め括ったのだろう。天国に悪人がいる筈が無いからこの警察犬は大活躍する機会が無いので絶望するだろう。警察犬だけではなくポワロも金田一耕助や明智小五郎も暇を持て余すだろう。
 なぜ天国には悪人がいないのか?悪人は天国に行けないからだ。しかし仮に悪人であっても天国にいれば悪事を働く必要が無いから悪いことはしないしできないだろう。生活は満たされており競争する必要も無い。原始共産制のような理想社会であれば犯罪はあり得ない。多分事故も発生しないだろう。
 芥川龍之介は「侏儒の言葉」で「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。」と書いているが、私は「天国こそ地獄的だ」と言いたい。満たされて変化の無い生活は退屈極まりなく、退屈を紛らすために罪を犯してしまうかも知れない。
 善意しか無い社会など全然面白くない。予定調和が約束された世界など何の魅力も無い。結果が分かっているゲームを楽しめないのと同じように善意しか無い世界は不愉快だ。
 総てが満たされた筈の天国に欠けているのは「悪」だ。この世は悪というスパイスがある分だけ天国よりも魅力的だ。曖昧で不確実だからこそ楽しい。天国という妄想を作った人々は不確実性を楽しむことができない可哀想な人なのだろう。不確実性と矛盾こそこの世の醍醐味だ。

加害者

2015-04-12 09:34:36 | Weblog
 小学生が蹴ったボールが起こした交通事故について、親に賠償責任は無いとする最高裁判決が9日に下された。私は親の監督責任どころか子供の過失責任さえ無いと考える。校庭でゴールに向かってボールを蹴ることのどこが悪いと言うのだろうか。
 昔からこんな疑問を持っている。自動車が車道にあった小石を跳ね飛ばしてそれがたまたま歩行者に当たった場合、傷害罪になるのだろうか、という疑問だ。被害者がいるのだから加害者もいなければならないという理屈には納得しかねる。自動車の運転者には何の過失も無いのだから加害行為には当たらないと私は考える。
 被害者がいれば加害者もいなければならないと考えるから過剰な規制になる。管理責任が問われそうなことは何でも禁じられるし、公園からは遊具が撤去される。大阪には深いプールが無くなった。水遊びを目的とする人が来ないから深いプールのほうが快適に泳げるのだが、監督責任を免れるために廃止されたのだろう。
 私が小学生の時、目の前で事故が起こった。同級生がジャングルジムから鉄棒に飛び移ろうとして落下した。ゆっくりと落ちて行く姿を私は今でも鮮明に記憶している。自業自得として問題化されなかったが、昨今の風潮であれば学校の管理責任が問われるところだろう。
 認知症の老人が電車にはねられた事件で介護をしていた妻の監督責任が問われ、鉄道会社から告訴されているが、狂人が免責されるように重度の認知症患者とその保護者も免責されるべきだろう。こんなことで加害者扱いされては堪らない。
 アメリカのグランドキャニオンでは毎年10人ほどの人が亡くなっているそうだ。日本の価値基準であれば危険な場所を放置した責任が問われそうだ。
 マスコミはエスカレータの事故を大騒ぎするが、実は階段での事故のほうが圧倒的に多い。エスカレータ上の歩行を規制するよりも階段の走行を禁止したほうがずっと有効だ。しかし小学校の校則ではあるまいし、階段の走行を禁止する必要などあるまい。自己責任だ。
 対歩行者の事故が絶えないという理由で自転車を禁止する必要は無い。道路交通法を守らせるだけで事故は90%以上減るだろう。それだけ無法自転車が多いということであり、法令順守を徹底すれば済むことだ。