俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

客観と無関心

2008-09-18 17:19:42 | Weblog
 客観的になるためにはそのことに対して無関心であることが必要だ。関心を持てば考えが偏る。
 自分に関係のあることに対しては関心を持たざるを得ないから①関心のあることと②関係のあること、に対しては客観的になれない。裁判官は法廷で議論されたこと以外の余計な情報を持たないために、自分が担当する事件に関するニュースは極力見ないそうだ。そのために市民の感覚とは懸け離れた判決がしばしば出されるが、これはある程度やむを得ないことだ。
 どんな公正な人でもファンになったら客観性を失う。アバタも笑窪になってしまう。阪神タイガースのファンは絶対にタイガースの選手を客観的に評価することはできない。
 客観的であるためには①自分が関わることに関しては他人の意見を尊重すること②思い入れをしないこと、の2つが必要だ。
 しかしそもそも客観的であることがそれほど重要なことだろうか。人は自分の感覚器官を通じてしか知覚できないし、自分の肉体を使ってしか周囲に働きかけることはできない。「客観」とは「神の目」に代わるものとして、自分の主観と他者の主観の元になるもの、言わば「物自体」のようなものとして想定された仮説に過ぎない。
 無理やり客観的であろうとすれば周囲に対して無関心な態度を取らざるを得ない。無関心なら周囲は総て「他人事」であり客観的(「対物的」)に対処できる。
 カミュの名作「異邦人」の主人公のムルソーは正にそんな存在だ。母の死も殺人も恋人との情事も、そして自分に対する死刑判決でさえも彼は無関心に他人事として捉える。
 抽象的な客観性を無条件に讃美するのではなく具体的な主観性をもっと評価すべきだろう。快感や喜びを感じるのは主観であり、主観は偏見に捉われ易いという欠陥はあるものの生き生きとしたナマの印象だ。客観的であろうとする余り、人生に対してシラケてしまうことは本末転倒だ。勿論、シラケを客観性と思い誤る政治家などは論外だ。

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