俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

寛容

2015-12-15 09:50:26 | Weblog
 フランス革命の理念は「自由・平等・博愛」だが、この博愛という言葉がよく分からない。広辞苑に拠れば「ひろく平等に愛する」とのことだがピンと来ない。多分アガペーに近い概念だろう。
 歴史的事実は変えられないがフランス革命のスローガンは誤っていたのではないだろうか。むしろ現代フランスの理念が「自由と寛容」と言われているように、「自由・平等・寛容」のほうが良かったのではないだろうか。
 自由と平等は整合しない。自由になれば不平等になるし、平等を強いれば不自由になる。この2つは対立する概念だ。この2つを両立させるためには第三の概念が必要であり、それは「博愛」ではなく「寛容」だろう。必然的に対立する自由と平等を調和させるのが、お互いの違いと多様性を認め合う寛容だ。フランス人は賢明であり、歴史に残る「自由・平等・博愛」よりも「寛容」のほうが重要であることに気付いたからこそ「寛容」が国是とされているのではないだろうか。
 翻って日本を見れば「不寛容」こそ現代のキーワードだろう。日本ほど「させない権利」が横行している国などあるまい。マスコミの放送禁止用語、公園での禁止条項、公認キャラクターの否定、これらは一部の人が文句を言うことによって禁じられている。多数決の手続きさえ踏まえず言った者勝ちだ。新聞が軽減税率の対象にされたのはそうしないと文句を言うからだろう。こんなことになるのは寛容な人々が不寛容な人を許容するからであって、言わば悪貨が良貨を駆逐している状態だ。
 言うまでもないことだが「権利」は明治時代に作られた翻訳語だ。これが同時代に作られた「自由」と混同されて世界でも類を見ない奇妙な術語になっているように思える。権利の語源はrightであり、rightには「正義」という意味がある。しかし日本語の「権利」には「正義」というニュアンスが全く無い。小学生の時、私は「(掃除を)サボる権利がある筈だ」という屁理屈を使って担任の教師を困らせたことがあるが、同様に「犯す権利」や「殺す権利」も一理ありそうにも思える。しかし欧米人にこんなことを言えば忽ち一蹴される。「それはraight(正義)ではない」と。権利を歴史的に考えれば、権力者が「正義」と認めざるを得ないほど正当な要求を意味し、正義を欠いた権利などあり得ない。権利と自由が混同されている。
 権利意識の暴走を招いたのは決して権利偏重の日本国憲法だけが悪い訳ではなく、「権利」という言葉から「正義」という意味を取り除いて誤用し続けていることに根本的な原因があるのではないだろうか。寛容と正義こそ現代日本人が忘れている重要な理念だろう。

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