長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

15章 その5

2015-01-04 17:47:19 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

このところまで、第14章、第15章でのヨハネの福音書に対するダンの議論に沿って検討を加えてきました。これらの検討を踏まえつつ、ヨハネの福音書全体から三つの点での検討を行います。

(5)弟子たちはいつ永遠のいのちを受けたのか

(1)での検討を通して、ヨハネによる福音書が示唆するのは、弟子たちがペンテコステの日に御霊を受けたということだとの見解を示させて頂きました。それでは、ヨハネによる福音書によれば、弟子たちがイエス様を信じたことにより永遠のいのちを受けたのはいつのことなのでしょうか。この点について考慮すべき点がいくつかあります。

第一に、御子への信仰による永遠のいのちの約束がヨハネによる福音書全体で単純に繰り返し語られていることです(3:16、36、5:24、6:47、11:25、26)。このことを単純に考えれば、イエス様を信じお従いしていた弟子たちは、その時点で既に永遠のいのちを持っていたと考えるのが自然なように思われます。

しかし、第二に、御子への信仰と永遠のいのちとの関わりが繰り返し記される一方、「御子を信じるあなたがたは既に永遠の命を持っている」と弟子たちに向かって明言されている箇所もないことも注目されます。ダンが、「新生と新創造の経験は、神の小羊の罪を担う死と復活後初めて可能になった」、「イエスの復活までは、彼らが神の再創造の息を経験することはできなかった」(181頁)と主張することができたのも、そのためかと思います。20:22まで彼らが新しい命を経験することがなかった可能性があるのであれば、(1)で考えたように、20:22ではなくペンテコステの日まで彼らは新しい命を経験しなかったという可能性についても考慮する必要があることになります。

しかしまた、第三に、福音書全体を通して、イエス様を信じる者が永遠のいのちを得ることがペンテコステの日以降起こるのであって、それ以前ではないと直接示唆する箇所もまたほとんどないことも確かです。

そういう中で、弟子たちが永遠のいのちを得たのはペンテコテの日であったことを示唆する可能性のあるのが、(3)で検討した内容です。すなわち、4:10-14と7:37-39とのつながりを重んじて考えれば、信じる者が永遠の命を受けるということと、信じる者が御霊を受けるということとが、ほとんど同一のこととしてみなすことが自然なようにも感じられます。この線に立てば、ペンテコステの日に新しいディスペンセーションが始まり、弟子たちはその時初めて、御霊を受けたばかりでなく、新しいいのち、約束された永遠のいのちさえ、その時受けたと考えることが可能です。

しかしながら、「御霊はまだなかった」とする7:39の明確な表現に比較すると、「永遠のいのちはまだなかった」と直接言明している箇所はないことを踏まえれば、断定的な結論を出しにくいのも事実です。

第四に、イエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよい」と語っておられること(15:3)、また、御父への祈りの中で弟子たちについて「彼らはあなたのもの」(17:6)、「彼らもこの世のものではない」(17:14、16)と祈っておられることをも踏まえる必要があります。

おそらく、この問題についてはいずれにしても断定的なことが言いにくいということかと思います。

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