【紹介編】
ローマ書を扱うこの章、後半では三つの箇所(正確には三組の箇所)を扱います。
ローマ2:28、29、7:4-6
これら二つの箇所は、御霊(πνευμα)と文字(γραμμα)の対照により密接に関連しているので、短いコメントを要すると著者は言います。
ローマ2:28、29は単純化すれば、次のようなことである。外的儀式は内的現実と同一視されたり、混同されてはならない。外的儀式はたとえ神によって与えられたものであっても、もし対応する内的現実がなければ役に立たず、不適当である。そして、パウロが心の割礼を御霊との関係で考えているとすれば、肉の割礼と心の割礼を水のバプテスマと御霊のバプテスマとに並行させることはほんの小さなステップに過ぎない。
ローマ7:4-6は6章と8章の橋渡しとなっている。それは、恵みの下にある今、クリスチャンの律法に対する関係についての二番目の反対に対するパウロの答え(6:15-7:6)の結論である。それゆえ、御霊と文字の対照は、パウロの答えのクライマックスであり結論である。もしパウロが、自分の語ったばかりのことに照らしてクリスチャン生涯における律法の役割を説明する必要を感じなかったら、すぐにでも8章に進んだであろう。7:4では、結婚のイラストレーションを取り上げ、クリスチャンに適用している。キリストと共に死ぬと言うアイディアは、パウロにとって、またそれ以前の文脈にとって非常に重要であるので、パウロは7:1-4における並行の正確性を犠牲にしている。
なお明確にされるべき唯一のポイントは、これら二つの箇所においてユダヤ教とキリスト教との対照が決定的に新しい要素として御霊に置かれているということである。命をもたらすのは御霊だけである。
ローマ8:1-27
ローマ8章について、著者は、まず要約的に次のように説明します。この章は、ハバクク2:4からの引用に対するパウロの講解のクライマックスである。最初の5章でο δε δικαιοσ εκ πιστεωσという言葉を詳しく述べながら(そして、そこから起こる反対論に応えながら)今やζησεταιという言葉に向かう。2:28、29、5:5、7:6で予示されていたテーマが全的輝きをもって現れる。すなわち、キリストにある霊的経験と御霊による命の栄光ある開示である。
ここで、著者は、一般の(ホーリネス)説教者の説明について触れます。彼らは、時々ローマ7、8章を次のように説明する。パウロはクリスチャン生涯において長い間7章の敗北と絶望を経験した、しかし、彼は勝利の秘訣を見つけ、経験的に7章の闇と圧迫から8章の光と確信に進んだ、その後、彼の生涯の残りの間、それを楽しんだのだと。しかし、しかしむしろ、我々が言わなければならないのは、回心は新しい原理と力の人、命の御霊の法則への入口であり、上に引き上げ、古い原理と力、罪と死の法則を退けるのであり、回心は古い契約から新しい契約、死の支配から命の支配(6、13節)、肉による支配から御霊による支配(2:28,29、7:6)への移行である。但しこれらの明確な対照が示唆するほどその移行は最終的なものではない。というのは、クリスチャンは絶えず肉によって生きるよう誘惑される。すなわち、古い契約との関わりで神に向かって生きるように、キリストから断たれ、恵みから落ち、再び死の道へと生きるように誘惑されるのである(8:5-8、12、13。ガラテヤ3:3、5:2-4、16-18も参照)。そして、あまりにもしばしば彼はその誘惑に屈服し、そこに含まれるフラストレーションと絶望を経験するのである。彼はあらゆる新しい状況において御霊の自由にする力を新しく発見しなければならない。肉によって生きるのでなく体の行いを御霊の力によって死なせることを学ばなければならない(13節)。すなわち、クリスチャン生涯は最初から最後まで唯一命を与える御霊に日々より頼むということなのである。
この節はペンテコステ派(及び堅信主義者)の教えに対する新約聖書でもっとも粉砕的否定の一つでもあると指摘しつつ、著者は、特に重要と思われるいくつかの節を取り上げながら、以下のような検討を展開します。(この部分、かなり大切な釈義的見解が含まれているので、ほぼそのままに翻訳しますが、小見出しは私が勝手につけたものです。)
(1)1-10節:御霊=命、御霊の賜物=義の賜物
2節がキリストにある者の「罪に定められない」ということをどう定義し、説明しているかに注意せよ(γαρ)。すなわち、命の御霊とこの方がもたらす自由との関連で説明しているのである。更に、3、4節は2節を説明しているが(γαρ)、キリストが彼の死によってもたらしたものを御霊が経験的にもたらすということを示唆することによってそうしている。実際御霊と人をクリスチャンにする新しい命とは密接に関連しているので(2、5、6節)、パウロが10節でそれらを等しいものとしても驚きではない―the Spirit is life(KJV)。同様に、義認、あるいは正しい関係と御霊とは、パウロにとってとても密接に関連しているので―とても密接なので互いに他の結果として表現されうる(4、10節)―同様の等式を作ることができる。「御霊の賜物」=「義の賜物」。
(2)9-11節:クリスチャンになる=御霊を持つ
9節は、ありのままのペンテコステ派の見解(回心はキリストを受け入れることであり、御霊のバプテスマは御霊を受けることである)に対する新約聖書で最も当惑させる節である。というのは、この節は直截的に次のように述べる。もし、キリストの御霊を持たないなら、彼はキリストに属するものではない、あるいは、「彼はクリスチャンではない」(NEB)。
(ειπερとειの区別の議論省略)
ローマ8:8-11、第一コリント6:17、12:4-6、15:45が私たちに突きつける結論は避けられない。すなわち、パウロの経験においてキリストと御霊とは一つであり、キリストは御霊において経験される。それはここで特に明確になっている。すなわち、10節は9節後半を取り上げ、繰り返し、「キリストの御霊」を「キリスト」と置き換えている。更に11節は先行する二つの節の思想を取り上げ、繰り返すが、ただ「神の御霊」という用語を用いる。これら三つの表現は、正確に同じ事実、経験を描くものである。
(ここでの「キリストの御霊」は聖霊のことではなくて、キリストのような生き方だとする少数のペンテコステ派の議論については省略)
一般に新約聖書にとって、また特にパウロにとっては、回心の最重要点は聖霊の賜物であり、聖霊を受けることであり、回心後聖霊はキリストの御霊としてクリスチャンの内に住み、「キリストがわが内に」という経験を与える(ガラテヤ2:20と3:2-2、ローマ8:10(the Spirit is life)とコロサイ3:4(私たちの命であるキリスト))。このことはここで特に明確である。ノンクリスチャンは「御霊を持たない」し、「御霊を持つ」者だけがクリスチャンであるので、人がクリスチャンになるということは御霊を持つことによってである(8:9、15)。このことは、重要な結論を持つ。というのは、それは、次のことを意味するからである。人がクリスチャンであるかどうかを決めるのはキリストへの信仰告白ではなく、御霊の臨在である。「もし誰かが御霊を持たないなら」とパウロは言う、「彼は決してクリスチャンではない。」すなわち、「神の御霊に導かれるものだけが神の子である」(14節)。彼は次のように言うのではない。「もしあなたがキリストのものであるなら、あなたは御霊を持っている。あるいは、もしあなたが子であるなら、御霊を持っている」。あるいは、次のように言うのではなおさらない。「もしあなたが正しいことをすべて信じたなら、そして(あるいは)、バプテスマを受けたのなら、(それゆえクリスチャンであるなら)あなたは御霊を持つ。」初期のキリスト教においては、御霊の所有は直接的所有の事実であって、教会儀式の執行から引き出される論理的結論ではない。このことは、既に見たように、使徒行伝で強調されている。
(3)14-17節:御霊を受ける=子とされる
子であることを有効にするのは御霊であって、それは単に子としての意識を強めるというだけのことではない。NEBはπνευμα υιοθεσιασを適切に次のように訳す、「私たちを子とする御霊」と。というのは、もし御霊を所有することが子であることを所有することでなければ、パウロは14節を書くことができなかったであろう。「パウロは特に御霊を子とする御霊とみなしている。その結果、御霊を所有することを子であることを所有することとを等しいものとしている。」(Hester64頁)。御霊を経験することは子であることを経験することである。このことはただ、御霊が御子の御霊であるからである(ガラテヤ4:6)。
(4)23節:御霊=απαρχη
最後に、23節に注目すべきである。御霊は、将来の完成のαπαρχηである―「私たちのからだの贖われること」。贖いは二段階である。すなわち、内なる人の贖い、そして体の贖いである。両方とも神によって御霊を通して有効とされ、共に死の経験を含む。前者は、一回限りキリストの死にあずかり、その復活の命、すなわち御霊にあずかる(ローマ8:2、9、10)。後者は、キリストの死の生涯にわたる経験であり、死の体が衰え、死または再臨によって最終的に滅び、復活の体に変えられる(第二コリント4:7-5:10、ローマ8:11,13,17,23)。それだから、回心の時御霊が来られることによって子となり(8:15)、御霊の生涯にわたる働きによって子としての成熟がもたらされ、完全な子とされ(8:23)、キリストへの隠された似姿や、神にあってキリストと共に隠された命だけでなく、神ご自身のかたちで栄光のうちに現わされるようになる(8:29、他)。これは、御霊の完結する最終的な働きである。こうして、、おた、御霊はご自身、απαρχηである。単にその予表でなく、その始まりであり、最終的な取り入れと喜びの時まで、ゆっくりと、しかし確実に刈り取りが続く収穫の始まりである。
ローマ10:9-17
著者は、この節について、信仰とバプテスマとの関係についてのパウロの理解に投げかける光のゆえに重要であると言います。(以下、要約のみ)
(1)9、10節の動詞(告白する、信じる)の順序が逆転していることは、二つの動詞が時間的に区別されると考えられてはおらず、同時であると考えられていることを意味する。信仰の行為(コミットメントの行為)は告白の行為である。信仰は、告白の行為とその瞬間なしには、またそれに至るまでは、その絶頂のポイントにまで至らない。
(2)信仰の行為と告白の行為が等しいということは、10:33でヨエル書が引用されていることからも示唆される。επικαλεσηται(呼び求める)は、この文脈においては、ομολογησησ(告白する)とだけ同一視されうる。それは、救いをもたらす信仰の(バプテスマにおける)公的告白において主の名を呼び求めることである。
(3)これは、14節とは矛盾しない。そこには時系列的順序があるのではなく、論理的順序がある。信仰の行為が主の名を呼ぶ行為の前に救いをもたらすとパウロが言ったはずがない。というのは、彼は救いをもたらすのは後者であると語ったばかりであるから(13節)。
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