長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

15章 その1

2014-11-22 11:07:25 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


この章では、ヨハネ3:5に対する理解についての議論が扱われ、主に礼典主義者に対する反論が意図されています。議論はいくつかの段階を経て進められ、あまり細かい議論にばかり注意を集中すると、議論の流れが分からなくなる危険もありそうです。従って、この章については、議論の要約だけをご紹介し、議論の大きな流れをつかんで頂くようにしたいと思います。

○礼典主義者の議論(以下、同様の小見出しは私が内容に基づいてつけたもの。)

ヨハネは御霊がバプテスマの礼典を通して取り次がれるとの理解を私たちに与えているだろうか。ある者は3:5を自動的に考え、「そうだ」という答えがこの節で立ちもし倒れもすると考える。3:5にバプテスマへの言及を見るための主要な議論は以下のようなものである。

(a)ヨハネの礼典主義:6:51c-58と共に3:5は礼典的言及のもっとも明瞭なものとみなされる。

(b)ヨハネの最初の数章における「水」についてのほとんどテーマ的と言える繰り返しを見ると、3:5は福音書記者がクリスチャン・バプテスマをヨハネのバプテスマ(とおそらくはユダヤ人のきよめの儀式)と対照させて表現しているとしばしば言われている。

(c)最もしばしば与えられる理由は、クリスチャンが3:5を読めば入信の儀式が教会にもたらされたと考えないではいられないだろうということである。

○予備的考察

これらの議論を扱う前に、二つの予備的ポイントが考察されなければならない。

(1)

ヨハネの礼典についての理解全般(殊に3:5)の基礎として、6章にいくらかの注意が向けられなければならない。この会話を用いることにより、ヨハネは二つのポイントを明確にしたいと願っている。第一は、信仰は、実際に肉となり、実際に死なれたイエスを中心に置かれなければならないということ。(6:35、51c-58)第二は、永遠の命は栄光に挙げられた人の子によって与えられる御霊を通して来るということ。(27,63節)

主の晩餐への何らかの関心は偶発的なものである。ヨハネの主要な目的は、仮現論と戦うことである。

このことはヨハネが主の晩餐やイエスのバプテスマについて沈黙していることから推論したかもしれないことを確証する。すなわちヨハネは外的儀式に注意が向けられすぎないように、御霊が物質的要素に何らかの仕方で加えられたものとして考えられないようにということに、関心があるということである。

6章の対話において、ヨハネはイエスご自身が永遠の命の源であり本質であることを何よりも強調したいと願っている。贖いのみわざに至る受肉は本質的ではあるが、ヨハネにとって命を与えるのは、肉としてくだられたイエスであるだけでなく、昇られたイエスでもあって、その時イエスは御霊を通して、御霊にあって命を与えられる。

(2)

「水」は第4福音書においてしばしば言及されており、3:5はその概念のヨハネ全体の方法の文脈の中に置かれなければならない。関連個所を調べると、次のような重要な事実が現われる-1:26、31、33、2:1-11(4:46)、3:5、3:22-26、4:7-15、5:2-9、7:37-39、9:7、11、13:1-16、19:34。

第一に、ヨハネは「水」を二つの区別される方法で用いる。すなわち、対照の方法によってと同一視の方法によってである。1、2、3、5章では水は古い時代のものを表わし(予備的であること、欠乏、外的であること、助けにならないことにおいて)、イエスが新しい時代においてあたえるもの(御霊の賜物、ワイン、癒しに表わされる)と対照される。4、7、19章では、水は昇天において栄光に挙げられるイエスによって与えられる御霊の「比喩」である(ヤコブの井戸や仮庵の祭り(?)における古い時代の単なる外的な水と対照されて)。要約すると、ヨハネは水を下に属するものの「例」としてであるか、上に属するものを「象徴する」ために用いている。

第二に、ヨハネにとって水は通常それ自体とは違うものの何かを象徴している。(9章や13章においてさえ、水が含まれている行為は霊的照明、霊的きよめの象徴である。)二つの例外は1章と3章であって、そこで水は水のバプテスマについて語っている。しかし、これらの場合、水が水のバプテスマを表わしているのは、単にユダヤのきよめの秩序に属する外的儀式として、メシヤのバプテスマ―御霊のバプテスマのための予備的なものとしてだけである。

第三に、福音書記者はイエスの口からの他の言及としては二つを記録するだけである(4、7章)。これらの両方の場合、水は命を与える御霊の比喩として用いられている。

○礼典主義者の三つの議論に対する反論

これらの事実に照らして、3:15が礼典的な言及であるとの見解を支持するために用いられる三つの議論を再調査しなければならない。

(a)について

「ヨハネの礼典主義」は呼び誤りである。ヨハネは実際には彼の福音書で礼典に関心を持っていない。これはヨハネが反礼典主義者であることを意味しないが、彼の象徴の多くが礼典に向けられているという見解を排除する。彼の象徴は礼典が示し表わすもの、すなわち、イエスによって勝ち取られ与えられる永遠の命という基本的事実を示し、表わす。しかし、それは、彼の象徴が礼典そのものを表わし、永遠の命が礼典を通して与えられると示唆するということとは全く違っている。

(b)について(この部分、全文翻訳)

ニコデモのエピソードの文脈からの議論がかなり弱められている。直接の文脈においては、水は古い時代と新しい時代の対照―下に属するものの例として、御霊の賜物が対照されるものとして―とは遠いところにある。3:5における水は、違った種類のものである。3:5において、水は御霊と対照されているのではなく、同等である。それゆえ、それは水への言及の他の種類に属していると考えられ、水以外の何か、すなわち、上からのものに属するものを象徴していると考えられる。更に、4章の並行的エピソードにおいて、水についてのヨハネの他の用法の例を見出すことができる。命を与える御霊の働きの象徴としてである(4:14)。これらの水の言及が7:38と共に、イエスの口に上った唯一のものであるという事実、またそれぞれの場合に御霊、水、命の間に互いに関連があるという事実に、何らかの重要性があるとしたら、3:5の水は同様に御霊の命を与える働きを象徴していると考えられる。

(c)について(この部分も全文翻訳)

クリスチャンの読者がクリスチャン・バプテスマを見出さないということはありえないという議論は、強力ではあるが、ヨハネの神学から導かれた議論の優位を認めなければならない。この福音書が書かれた時を我々が知っていること、福音書が当てられた読者の礼典的理解を仮定する他に、その議論はヨハネがその理解の文脈の中に自分の文章を合わせ、その理解に対してどんな過激な方法によっても挑戦したり変えたりしないことが彼の意図であったとも仮定している。しかし、福音書自体はこれらの家庭にほとんど信頼性を与えない。逆に、ヨハネは読者の側に想定されるどんな礼典主義にも挑戦しているように思われる。

他方、3:5を単に他の水ー御霊の箇所の線でリストに挙げることはできない。というのは、3:5において、水と御霊は対照されているのでもなければ同一視されているのでもなく、むしろ互いに調和的に作用すると位置づけられている。両方共に上からの誕生をもたらす手段である。更に重要なのは、他の水の箇所では、御霊が対照されたり同一視されたりする水は、その節の中で対照や同一視の外に言及箇所が置かれている(ヨハネのバプテスマの水、ヤコブの井戸の水、仮庵の祭りの水、イエスのそばの水)。それでは、上からの誕生の概念それ自体は(他の箇所が示すようには)必要としないのに、なぜイエスは3:5で水について語ったのだろうか。最もありそうな答えは、著者が読者たちに水をまずはヨハネのバプテスマの言葉で理解するよう意図したというものである。なぜなら、最初の参照の他の関連個所では水は直接古い時代のきよめの儀式、特にヨハネの水のバプテスマを指しているからだ。

これがその通りであるなら、読者は3:5が次のようなことを意味すると理解するだろう。クリスチャンの回心―入信式はヨハネの水のバプテスマ以上のものであると。それは密接な関連性の内に水の(クリスチャン)バプテスマと御霊の賜物とから成っているか、あるいは御霊によるきよめ、すなわちヨハネの水のバプテスマによって象徴されるきよめから成っているか、いずれかである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 看板塔の修理 | トップ | 14章 その2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Dunn "Baptism in the Holy Spirit" 」カテゴリの最新記事