長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

14章 その2

2014-11-22 11:09:52 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(この回をアップするのを忘れていました。)

【紹介編】

弟子たちの経験がユニークなものであるとする著者の指摘は、以下、4つのポイントで敷衍されます。

(a)

最初のクリスチャンたちにとってイエスの働きは時代区分の間の分岐点であった。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(1:17)。イエスはメシヤ預言、あるいはモーセや預言者の終末論的希望の多くを成就した(1:45、4:25、26、5:39、46、6:31-35、8:56)。彼は以前はなかった光輝をもたらし神の裁きを動き出させた(3:19等)。そうしながら、彼は救いの「時代」を変えた。その時以来、永遠の命は本質的に彼を信じるかどうかの問題となった(3:16-18、36、5:24等)―それは、以前には決してありえなかったことである。

(b)

この変化をもたらしたのは働き全体であった―その生涯だけでなく、特に死、復活、昇天であった―ということを理解することは大切である。ヨハネにとって救いをもたらす信仰は、挙げられたイエスへの信仰であった(3:14-16、12:32)。殊に、イエスが栄光を受けるまでは(死と復活において―7:39)、イエスより御霊を受けることはできなかった。その時はじめて彼を信じる者が、(永遠の命に至る水の泉となる生きた水である)御霊を受けることができるようになった(4:14)。言い換えれば、イエスの死と復活の後はじめて、ペンテコステ派の人々でさえも弟子たちを「純粋な回心したクリスチャン」(プリンス)と呼ぶことができるようになった。13:10、11や15:3で語られているきよめをどのように理解するとしても、それがクリスチャンの回心を意味しているとは受け取ることができない。

7:37、38の句読法は、よく知られた難問である。問題は、生ける水の川の源がイエスであるか、信者であるかをほとんど確実に決定するので、重要である。私の意見では、最も良い解釈は、イエスの言葉をこのように読むことである。

εαν τισ διψα ερχεσθω προσ με,(もし渇く者があれば、私の所に来なさい。)
και πινετω ο πιστευων εμε.(私を信じる者は飲みなさい。)
καθωσ ειπεν η γραφη...(聖書が言うように、生ける水の川が彼の腹から流れ出るであろう。)

(この句読法を支持する注解者等の列挙部分、省略)

言い換えれば、信者はイエスが栄光を受けたとき、イエスの体から流れる生ける水を飲むよう招かれている。

(c)

私が語ってきたことのすべては、20:22と、そこでヨハネがενεφυσησεν(息を吹きかけて)を使用していることによって、最も明らかに確かめられる。それは、創世記2:7、エゼキエル37:9、ソロモンの知恵15:11で人の創造を表現するために用いられており、死体であったはずのものに命をもたらす神の息(πνευμα―創世記2:7ではπνοη)であった。言い換えれば、ヨハネはイエスのわざを新創造として示している。すなわち、イエスは古い世界の創造者であるように、新しい創造をもたらす方である(1:3)。もしペンテコステ派が使徒が新生した瞬間を探そうとするなら、それをここにおいて初めて見つけることができるのであって、それ以前ではない。この時はじめて、新創造の霊的命(息)は彼らに手渡されたのである。

御霊についての節―3:5-8、4:10-14、6:63、7:37-39は御霊の命を与える働きについて語っているので、後の御霊の到来よりも20:22に関連付けられるべきである。この点は7:37-39に対して特に強調されなければならない。ペンテコステ派の解釈では、これらの節をクリスチャンが御霊を受けるようにとの招きとして見るからである(例:Roberts 25頁、Harper,Walk 16頁)。この解釈は上に示した句読法と解釈(省略部分)によって排除される。しかし、たとえ他の句読法が保持されたとしても、御霊を内住させ、あふれさせる信仰は、3:15、16、18、36、5:24、6:47、12:46、20:31に描かれているのと同じ行為―すなわち、最初の信仰のコミットメントである。39節の不定過去は38節の現在形を他の方法で解釈することができないことを示している。

7:39の当惑させるουπω ην πνευμα(直訳すれば、「御霊はまだなかった」)は、存在論的にではなく機能的に解釈されるべきである(4:24におけるように)。弟子たちの御霊経験に関する限り、20:22までは御霊はまだなかったのである。イエスが挙げられ、昇天して後はじめて可能になる御霊によるイエスとの関係を、彼らはまだ経験していなかったのである(Dodd 184頁、Barret,Gospel 324頁、H.F.Wodehouse,Theology 67[1964年]310-312頁)。

(d)

このことは、使徒たちがペンテコステ以前に新生していたとするペンテコステ派の基本的主張を実証するものではあるが、使徒たちの経験を今日の経験の定まったパターンとして、あるいは一つの可能なパターンとしてさえ、受け取ることを正当化するものではない。というのは、20:22は、弟子たちの経験が救済史の過程によって決定づけられているということを明らかにしているからである。神の開示された贖罪の計画は、受肉の結果、決定的な移行段階にあった。律法の古い時代区分は、(より十分な)恵みと真理の時代区分へと移行しようとしていた。救済史の一つの段階は他の段階へと変わろうとしていた。弟子たちはこの移行期に生き、その間、彼らの霊的経験は、各段階にふさわしく、可能なものに限定されていた。もし我々が時系列的枠組みにおけるヨハネの重要な出来事を使徒行伝に結び付けて理解するなら、時代区分の移行期は、もしイエスの生涯の初めからペンテコステまでというのでないなら、あるいは、その誕生からペンテコステまででないなら、少なくともイエスの死からペンテコステまで続いたと言わねばならない。我々が今十全なクリスチャン経験と呼ぶものは、昇天とペンテコステ後初めて可能になったのである。その時、「天からの助け主」は「天におられる助け主」に代わって啓示し始め、働き始めた。同様に、新生と新創造の経験は、神の小羊の罪を担う死と復活後初めて可能になった。同様に、きよめの経験は、受肉したロゴスが御父からもたらした「御言葉を通して」のみ可能となった(15:3、12:48-50、14:24、17:14)。言い換えれば、この時系列的枠組みにおいて、諸時代区分の間の移行期における三つの決定的に重要な出来事を区別しなければならない。すなわち、御言葉を伴う「言」の到来、このお方が十字架に挙げられたこと、そして、彼の昇天後αλλοσ παρακλητοσの派遣(14:25、26、15:26、16:7)。彼らがそれぞれの重要な出来事を過ぎると、その時初めて可能となったより十全な経験に彼らは入った。イエスの復活までは、彼らが神の再創造の息を経験することはできなかった。ペンテコステまでは彼らがペンテコステの御霊を経験することはできなかった。この移行段階を通しての彼らの経験はその時点で可能なものに限られていた。

(訳注:ここで著者は14:17「(その方=真理の御霊は・・・)あなたがたのうちにおられるからです」の部分についての議論を取り上げます。この箇所は、写本上の問題もある箇所で、εσται(未来形)となっている写本とεστιν(現在形)となっている写本があります。)14:17では、εστινがより難しい読みであるので、恐らくオリジナルの本文である(NEB、JB、TEV)。三つの動詞(知っている、住む、おられる)はヨハネが書いた時を反映しているか(Barrett、Gospel387頁)、13:6、27、33、14:3、15:27、20:17、21:23のように、現在形が未来に言及しているかである(Bernard 546頁、Lagrange 384頁、Sanders&Mastin 328頁、Moul'Idiom Book' 7頁)。7:39、14:16、20、23を見れば、イエスの言葉(三つの動詞すべて)は御霊が送られるまでは弟子たちに当てはまらない。また、この時点で御霊が彼らと共にとどまることと、御霊が彼らの中におられることとの間に神学的に重要な区別はないと思われる。

このことすべてによって示されているのはただ、この期間を通しての使徒たちの経験を今日の経験の可能なパターンとみなしたり、基準とみなしたりすることは不可能だということである。ペンテコステにおいて、移行期は終わる。救済史の古い段階は全く過ぎ去り、新しい段階が完全に動き始めたのである。この後ただちに、新しい次元の祝福に入った。それは、使徒たちにとってよろめかせられることではあったが。彼らの一連の経験は、その順序と深さが全くユニークで繰り返されない一連の出来事(ベツレヘムからペンテコステまでの)によって決定づけられており、ペンテコステ後の回心とクリスチャンの成長の通常の経験のパターンとはなり得ない。彼らの経験は、イエスの歴史的みわざに対する関係によって決定づけられているので、もしイエスが何度も生き、死に、よみがえり、昇るのでない限り、使徒の経験が後のキリスト教の標準として示されることはできない。もし御霊の賜物のための標準が要求されるのであれば、我々はそれをヨハネ20:22でも、使徒2:4でもなく、使徒2:38において見出すことができる。

要するに、ヨハネが確かに示しているのは、御霊のバプテスマを新生と等しくないと考えることは可能かもしれないが、それはただ使徒たちの場合においてだけである。この点における彼の神学的メッセージが示しているのは(ルカとパウロも確かに示しているが)、ペンテコステ以降、信じるものは御霊をきよめ、新しく生まれさせる、バプテスマ的な力、新しい時代の赦しと命をもたらす力において受ける。移行期が終わるとともに、ヨハネの神学的強調点はもはや必然的な時系列上のばらばらによって複雑化されず、命を与え力を与える御霊の働きについての神学的単一性は、同様に時系列的単一性ともなる。

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