長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

15章 その6

2015-01-11 21:20:14 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

(6)ヨハネの福音書全体における聖霊の約束の位置づけ

御霊についてのヨハネの福音書の記述は、ダンによって二種類に分けられていました。「もうひとりの助け主」「聖霊のバプテスマ」についての言及と御霊の命を与える働きについての言及でした。前者はペンテコステの日に成就し、後者はヨハネ20:22に成就したと考えられていました。しかし、両者ともにペンテコステの日に成就したのだと考えて差し支えないのだとすれば、むしろヨハネの福音書全体においては、両者の記述を全体的に踏まえる必要が出てきます。

ヨハネの福音書全体のテーマは、「イエスが神の子キリストであること」、及び信じる者が「イエスの御名によっていのちを得る」ことであると言ってもよいと思います(20:31)。このことを踏まえると、聖霊の約束は、これらのテーマを下支えするものとして与えられていると言えます。

聖霊のバプテスマの約束は、バプテスマのヨハネのあかしを通して与えられたものです。それは、人々の「あなたはどなたですか」との問いに対する答えとして与えられました。その回答の最初は「私はキリストではありません」でした(1:20)。やがて「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」と語り、水でバプテスマを授けている自分ともうひとりのお方(イエス様)を対置しています(1:26)。翌日、ヨハネはイエス様が近づいてこられるのを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」とあかしすると共に(1:29)、「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」との神からの言葉を紹介した上で(1:33)、「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」と言います(1:34)。ここでは、イエスが神の子キリスト(油注がれた者)であることへの証言としての意味合いが強くあることが分かります。

やがて、イエス様ご自身が語られた「水と御霊によって生まれなければ」との言葉は、信じる者に与えられる命を産み出すお方が御霊であることを証ししています(3:5)。このことは、パン論争の中で語られた「いのちを与えるのは御霊です」というお言葉によっても明確にされます(6:63)。

祭りの終わりの日、イエス様が語られたのは「生ける水の川」についてでした。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とのお言葉は、イエス様を信じることによる永遠のいのちへの招きであると言えるでしょう(7:38)。しかし、この言葉に対してヨハネがつけた説明は、その働きが聖霊の働きの中で行われることを示唆しています。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(7:39)。

やがて、イエス様は受難の時を前にして、「もうひとりの助け主」について語られます(14:15)。この表現は、御子の代務者としての聖霊の働きを思わせますが、単なる代務者を越え、「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」お方であり、信仰者と共にあり、内に住まわれるお方であることを示します(14:16、17)。繰り返されして語られる「真理の御霊」(14:17、15:26、16:13)という表現は、聖霊の働きの中心が真理をあかしすることにあることを表現し、具体的には、「すべてのこと」、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」(14:26)、「わたしについて」(15:26)、「罪について、義について、さばきについて」(16:8)、「すべての真理」(16:13)を教え、あかしし、思い起こさせる働きをします。更に、「御霊はわたしの栄光を現わします。」という表現は、聖霊のお働きの最終目的を表現していると言えます(16:14)。この聖霊が父なる神及び御子イエス様から遣わされることが明らかにされています。(14:26、15:26、16:7)。このような聖霊についての教えは、聖霊が御父及び御子と信仰者との人格的な関わりを助け、もたらすお方であり、特に教え、あかしする働きを通してそのようにされることを示しています。これは、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」というイエス様のお言葉と合わせ考えると、聖霊の働きは永遠のいのちをもたらし、支えるお方であり、特に教え、あかしすることを通してそうされると言い変えることができます。

受難と復活の後、弟子たちの前に立たれたイエス様は、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣われたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われ、彼らに息を吹きかけた後、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのままに残すなら、それはそのまま残ります。」と言われました(20:21~23)。息を吹きかける行為の前後のイエス様のお言葉は、弟子たちに宣教の使命を与え、確認するものと言えるでしょう。弟子たちが「聖霊を受ける」こと自体、ペンテコステの日に成就したのだとすれば、これらのお言葉はやがて開始されようとする聖霊による宣教の働きの開始を告げる意味合いが強いようにも思われます。ダンが指摘するように、この時の息を吹きかけるイエス様の行為は創世記2:7を思い起こさせるのも確かです。しかし、その前後のお言葉と合わせ考えると、聖霊による宣教の開始はキリストよって与えられる新しい命に根ざし、またそれが外部にまで表現されることとして起こらなければならないことをこの行為は示唆していると、整理して考えることができそうです。

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