長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

14章 その1

2014-11-03 17:49:08 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】

第4部は、ヨハネ文書を扱います。その最初に当たる第14章では、ヨハネ福音書についてのペンテコステ派の見解が中心的に扱われます。前半部分では、ヨハネ20:22以前(20:17と19の間)に、昇天が起こったという解釈を扱っています。著者としては大変惹かれる解釈のようですが、最終的には退けているように思われます。興味深い議論ではありますが、最終的に著者が支持しているわけではないので、途中省略しながら紹介させて頂きます。

ペンテコステ派にとって第四福音書は殊に重要である。弟子達がペンテコステ以前に新生しており、聖霊を受けたということを、この福音書が明らかに示してくれるからである。特に、復活の日曜日の夜の聖霊の授与(20:22)は、50日後の御霊のバプテスマが弟子達の生涯で聖霊の、少なくとも第二の、そして区別される働きであったことを疑いの余地なく示しているように見える。

この議論の基本的な弱点は、4章で簡単に触れたものである。そこには、次のような仮定がある。ヨハネとルカ-使徒行伝は多かれ少なかれ同じ種類の叙述的歴史であり、事実や出来事を示す仕方において均一であるので、それらは直裁的時系列的方法で直ちに互いにぴったりとはめ込まれうる(たとえば、使徒2章はヨハネ7:38,39の成就であるというように)と。しかし、そのような仮定は基本的問題を無視している。ヨハネやルカが伝えたかった真理は何なのか。そして、彼らはそれをどのように伝えようとしているのか。事実は、NTの最初の5つの書は平坦で均質的な歴史ではない。神学的山々(とモグラ塚)はそのような平坦さを打ち破る。我々がこれらの山々を登るとき、平坦なところを横切るときと同じ場所を歴史的に移動していると考えることは誤りである。

イエスの死に対するヨハネの取り扱いは、これらの山々の一つである。単純に言えば、ヨハネはイエスの働きのクライマックスにおける決定的出来事―死、復活、昇天、聖霊の賜物―の単一性を示そうとしている。それは、δοξαζεινやυψουνといった用語の使用によって最も明らかに示されている。しばしば読者は、イエスの栄光の出来事を指摘され(7:39,12:16、23、13:31、17:1)、神のみわざの決定的時(ωρα)を指摘されるが(2:4、7:30、8:20、12:23、27、13:1、17:1)、それらはイエスの復活や昇天だけではなく、またイエスの死だけでもなく、これらすべてを包括している。ヨハネはそれらが別々の出来事であるとして考えることを望まず、むしろ単一の栄光の働きとして考えてほしいと望んでいる。

(以上の見解を支持するδοξαζειν、υψουνについての用語法の確認部分、省略。)

この事実―ヨハネが贖罪的出来事を時系列的にと同様、神学的に扱っているということ―は問題の節、ヨハネ20:22にどのように関係しているだろうか。ここでヨハネはこれらの出来事の時系列的区別よりもそれらの神学的単一性により関心があると信じるべきいくつかの理由がある。一つのこととして、20:17は、昇天が復活の即座の結果であって、ある意味で20:17と20:19の間に起こったということを示唆しているように思われる。このことは、御霊を与えるのはただ高く挙げられたお方だけであって、神の賜物はそのお方の昇天の直接の結果であるという信仰を、ヨハネがルカやパウロと共有していることを意味しているだけである。

(以上の見解を支持するヨハネ3章、6章、7章、助け主についての対話についての検討部分、省略。)

もしこの結論が成り立つなら、20:22についてのペンテコステ派の言い分は倒れる。しかし、最終的にそれがヨハネ自身が引き出した結論であるかどうか私は確信できない。我々は、時系列的な一連の出来事についてヨハネが神学的枠組みを印象付けようとする関心を持っていることは否定できないが、神学的枠組みが時系列的な出来事の順序を完全に無視したり圧迫したりしているということは正しくない。20章に記録されている様々な出来事の時系列的区別(イエスの死と復活との間の時間差を含む)は保持されている(20:1、19、26)。更に、20:17は昇天と復活の神学的単一性を示しており、イエスがマリヤに出会った直後昇天が起こったという議論は完全に満足できるわけではない。どのように考えても、ουπω(まだ)(20:17)は復活と昇天との間の十分明らかな時間差を保持している。

(この点についてのモールによるいくつかの指摘、省略)

ヨハネはこの明確な時系列的区別を保持しているので、昇天を生き生きとした復活顕現の前に置いても得るものはない。受け入れられている出来事の流れを妨げたり圧縮したりすることなしに、神学的論点は証明されうる(20:1が示すように)。

(この見解を支持する例として、19:30、34の解釈についての検討がなされるが、省略。)

それゆえ、14:16、26、15:26、16:7の助け主についての約束を20:22についての約束ではなく(それは、特に御父による、あるいは御父からの御霊の「派遣」としては自然に表現されない)、その後、イエスの弟子たちへの様々な顕現後、最終的に御父のもとに帰ってから御霊を授けられることについての約束であると解釈するのが最善であろう。それゆえヨハネの説明は時系列的に使徒行伝の物語に当てはまる。ヨハネは御霊の授与をただ一つしか記録しなかったのであるが、二つの授与を知っていたであろう。そして約束された御霊のバプテスマ(1:33)は記録されなかったペンテコステについて言及されたものでありえたであろう。

けれども、ヨハネは、バプテスマのヨハネが予告したイエスの二つの働きを密接に関連したものとして私たちに理解してもらいたいのかもしれない。すなわち、御霊のバプテスマにおいて、イエスは神の小羊としての犠牲の死によって可能とされたきよめと罪の赦しをもたらしているのだと。20:22は弟子たちの御霊のバプテスマであり、他方で彼らはキリストの高挙によって新しく獲得された祝福を受けた。

「ルカのペンテコステ」と「ヨハネのペンテコステ」の間の歴史的対照を避けるために、20:22は実際の聖霊の付与を描いているのではなく、ペンテコステを予期的に示しているだけだ―まるでイエスが「あなたがたが風(πνευμα=息)の音を聞く時、あなたがたは御霊を受けるであろう」と言っておられるように―ということが繰り返し議論されてきた。これは本文に対してあまりに小さな正当性しか持たないので、支持され得ない思弁である。ブルトマンは、λαμβανεινの用法がローマ8:11、第一コリント2:12、使徒8:15~等におけるクリスチャン共同体の用語法に呼応していると指摘する。(yohannes476頁、5行目)

私は、二つの解釈の間で引き裂かれているということを告白しなければならない。一方で、ヨハネの神学的メッセージは明確である。贖いの二つの偉大な瞬間(死ー復活と、昇天ー御霊の付与)は互いに独立ではない。御霊はイエスの霊(息)―死、復活と昇天において挙げられたイエスの―霊(息)であり、御霊の賜物はこれらの決定的に救済的な出来事のクライマックスであり結論である。他方で、神学的モチーフは、時系列的輪郭をあいまいにしないで強調されることができるということも、同じように明白であって、天に挙げられたことは少なくとも三日前、おそらくは43日前に起こった、十字架に挙げられることと神学的に単一なこととして考えられうる。

それゆえ我々の結論は、単純に、ペンテコステ派の命題はこの点においては完全に否定され得ないということである。ヨハネは最初の弟子たちの霊的経験において御霊のバプテスマは御霊の二番目の区別されるみわざであると考えたかもしれない。しかし、ペンテコステ派はこれ以上に議論を進めるはずである。すなわち、使徒たちの経験は後のクリスチャンたちの生涯において繰り返されるかもしれないパターンである、あるいはパターンでありえると。彼が決定的に道を誤るのはこの更なる段階においてである。というのは、使徒たちの生涯における出来事の時系列的連続は、ユニークで繰り返されないものだからである。御子が御父から人間の肉において人々の間に住むためにおいでになったことは、それ以前にも起こらなかったし、それ以降も決して起こらなかったことである。同様に、ペンテコステ以前のイエスの弟子たちの彼に対する関係は、単純には再び知られ得ないものであった。

このポイントは、更なる敷衍に値する。

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