長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

18章 その1

2015-05-10 19:37:46 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】

(ペテロの手紙を扱うこの章で、著者はまずバプテスマに焦点を当て、そのために第一ペテロ3:21を取り上げます。この箇所はかなり難解な文脈の中にありますが、著者は、この箇所こそが新約聖書の与えるバプテスマの定義に最も近いアプローチであると考えます。)

近年、第一ペテロは多くの精査の主題となってきており、次のような問題についての議論がなされてきた。「バプテスマの説教あるいはリタージー、あるいはバプテスマの儀式のエコーがどの程度第一ペテロに組み込まれてきたのか。」議論は我々の研究にとっては周辺的であり、我々にとって重要な問題は、「バプテスマについてのペテロの理解は何か」ということである。この問題に答えるために、我々は自然に第一ペテロにおけるバプテスマについての避けることができない言及に向かうことになる。すなわち、3:21である。この箇所は新約聖書全体の中でも解釈が最も難しい箇所として有名なものの一つに続いているのであるが、幸い、3:19の不明瞭さは我々にはあまり影響しない。

第一ペテロ3:21

この節の困難さの一部は、19-21節がより確立された告白的枠組みに挿入されているように思われるという事実にある(18、22節)。この挿入の理由は、洪水の水を通してのノアの救いとバプテスマの水を通してのクリスチャンの救いとの並行関係を指摘するためである。(そうでなければ、挿入のための適当な理由がないであろう。)3:19は、ペテロが注意をキリストの死からクリスチャン・バプテスマに向けることになった一連の移行的従属節の最初の部分に過ぎない。我々が直面している問題のいくつかを解く鍵は、思想が単純にバプテスマに向かって進んでいるという、この理解である。ペテロがノアの救いとクリスチャンの救いとの間に並行関係を見ているのは、救われるものの数の少なさにおいてだけでなく、両方において水が重要な役割を果たすという事実においてでもある。その比喩は完全からは程遠いというのは事実である。(適切に言えば、ノアは破滅の水「から」救われたのであるが、妥当な予表は細部すべてにおいて正確な並行性を必要としない。)しかし、この比喩はペテロが前置詞διαを使う理由そのものである。その曖昧さによってペテロは洪水の水とバプテスマの水との間の比喩に近づくことができるのである。

(この点についての補足説明省略)

更に、「型において今あなた方を救うのは水、すなわちバプテスマである」。

(この部分の釈義についての議論は省略。結論的に、著者は、οの先行詞をυδατοσ(水)と考えると共に、οに続く二つの名詞υμασ(あなたがたを)とαντιτυπον(型)を並列的に捉える。その結果、この部分についての次のような理解に至る。)

ペテロはクリスチャン・バプテスマを特徴づける水について考えているというのがずっと単純であり、よりよい。従って実際、洪水の水に対応するクリスチャン・バプテスマの水が「今やあなたがたを救う」。その正確な意味が何であるか、ペテロは直ちに説明しようとする。

クリスチャンの水の儀式が救う。「しかし」とペテロは加える。「私は水の働きについて語っているのではない」と。バプテスマは、体の汚れを取り除くもの「である」。しかし、水の働きはもたらされる救いとは無関係である。私は神に対してなされたσυνειδησεωσ αγαθησ επερωτημα(正しい良心の約束)について語っている。バプテスマはその表現であり、「そのものとして」人を救うのである。ギリシヤ語のフレーズは戸惑わせるものであり、バプテスマについての我々の理解のためにその点に依っているところ大であるので、その正確な意味を捉えられないことは苛立たしいことである。近年の意見はほとんど二つの考えに等分されてきている。明らかな良心や正しい態度から発する誓約あるいはそれらを維持する誓約(JB、TEV)、そして、明らかな良心のための神への訴えあるいは祈り(RSV、NEB)である。幸いに、これら代替案の中から選ぶことは本質的なことではない。というのは、前者はバプテスマをコミットメントの表現として特徴づけるものであり、後者はバプテスマを悔い改めの表現として特徴づけるものである。επερωτημαは入信の儀式において特定の瞬間を示すものでありさえするかもしれない。告白の行為あるいは浸す直前の(沈黙の)祈りの瞬間である。しかし、επερωτημαはβαπτισμαに同格であるから、ペテロはここで約束或いは祈りとしての実際の水の儀式それ自体を示している可能性のほうが高い。水のバプテスマはそれが良い良心のεπερωτημαであるということにおいて人を救うのである。更に、バプテスマはδι αναστασεωσ Ιησου Χριστου(イエス・キリストの復活によって)人を救う。すなわち、バプテスマの祈り、あるいは誓いは、それがただよみがえられたお方に向けられ、彼の復活に基づき、死者からの新しい命にあずからせることのゆえにだけ救いの効力を持つ(参照1:3)。

(ここでのβαπτισμαを苦難のバプテスマ、あるいは御霊のバプテスマと取る解釈についての議論省略)

バプテスマの意味のためには、挿入句における対照が多くの人々の期待するであろうものではないことに注目する必要がある。すなわち、ペテロは外的きよめと内的きよめとを対照しておらず、バプテスマについて心をきよめる神の手段として語っているわけではないということである。(略)

従って、ペテロにとってバプテスマは二つの側面を持つ。それは体をきよめる水の儀式であり、人の神に対するεπερωτημαの表現である。ここで関連しているのは二番目の要素だけであるということを理解する限りにおいてバプテスマは人を救うと言われうる。救いをもたらすのは水でもなければそのきよめる働きでもない。水の儀式はそれ自体では体を洗うものでしかない。彼がバプテスマは救うというとき、それがコミットメントと悔い改めの表現である場合、またその場合に限ってのバプテスマを意味する。ここには「たましいをきよめる・・・内的、霊的恵み」としてのバプテスマについても、良い良心を作るバプテスマについても、(信仰者をその罪からきよめることにより)「『神を呼ぶ』可能性を作り出すバプテスマについても、何ら記されていない。救いにおけるバプテスマの役割は、神のχαρισ εισ ανθρωπονではなく、人のεπερωτημα εισ θεονである。この結論は、第一ペテロ3:21が新約聖書が与えるバプテスマの定義に最も近いアプローチであることを理解するなら、本質的な重要性を持つものとなる。

要するに、バプテスマに関する限り、人の救いに決定的であるのは、バプテスマがひとになすことでもなければ、バプテスマを通して神が人になすと考えられている何かでもなく、人がバプテスマと共になすことであり、人がそれを用いる方法である。救いにおいて最終的に決定的なのはもちろん人に対する神の働きであるので、「バプテスマに関する限り」という制限は加えられなければならない。我々が第一ペテロ3:21から言うことができないのは、「バプテスマ」が神の働きを表現したり、有効にするものであるということである。このことは第一ペテロの他の「バプテスマ的」節に対しても重要な結論を持っており、我々は今やそれらに取り組もう。

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